11月25日

音楽が聴こえてきた街:北九州発の無骨なロックンロール、花田裕之が続ける旅路

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photo:NIPPON COLUMBIA  

博多、北九州出身のビートグループの特徴


マスコミが「めんたいロック」と称した博多とその周辺から登場したビートグループの特徴は、ブルース、パブロック、ブリティッシュビート、パンクロックといった自らのルーツミュージックへの敬愛の念を自身の作品に色濃くアピールしていた点だ。サンハウス、シーナ&ロケッツ、ザ・ロッカーズ、ザ・モッズといった錚々たるバンドと同じように、ザ・ルースターズのルーツミュージックへの思いも別格だったと思う。

正確なことを言えば、ザ・ルースターズは北九州市出身のバンドである。日本のリヴァプールと呼ばれた博多から車で1時間ほど。重工業を中心に発展し高度経済成長の原動力となった街だ。だから博多出身と書くのはなんだか憚られる。

同じく、博多から少し離れた久留米という街は80年代初頭、50'sカルチャーがさかんで独自の色合いを見せていたという。50年代を再現するかのようなダンス・パーティがさかんに行われ、DOO WOPなんかも人気が高かった。そしてここからザ・チェッカーズという国民的バンドが生まれた。だから、北九州市出身のザ・ルースターズのメンバーにしてみても、きっと博多とは違った色合いで音楽に親しんでいたのかもしれない。

僕は、博多周辺の出身ではなく、この辺りには数回しか訪れたことがないので、大きなことは言えないが、いつも思いを馳せている。大好きで恋い焦がれて、十代の頃に夢中になったビートグループが街から音楽をどのように吸収していったのか。どのような賑わいの中で、どのような音楽が流れていたのか。夢想はつきない。それはいくつになっても憧憬でしかない。

より黒っぽさを追求した初期ザ・ルースターズの音源


初期ザ・ルースターズの音源を聴いてみると、博多のバンドよりも、より黒っぽさを追求しているように感じる。チャック・ベリー、リトル・リチャード、ボ・ディトリー… この辺りの音楽に夢中になったストーンズを始めとするイギリスのブリティッシュ・インヴェイジョンのバンドたちと同じ様に、ザ・ルースターズもまた「黒人になりたいんだけど、どうすりゃいいのか分からねー」という初期衝動の塊のようなシャウトと音楽性を感じるのだ。

その証拠に、彼らのファーストアルバムの中にはDr.フィールグッドもプレイしたチャンプスのインストナンバー「テキーラ」をはじめ、エディ・コクランの「カモン・エブリバディ」、ボ・ディドリーの「モナ(アイ・ニード・ユー・ベイビー)」、そして、ザ・クラッシュもプレイしたヴィンス・テイラーの「ブランド・ニュー・キャデラック」が元ネタの「新型セドリック」など、初期衝動を孕みながらロックンロールクラシックの名曲が80年代という新たな時代の解釈で収録されていた。

同時期のライブではギターの花田裕之はDr.フィールグッドの「シー・ダズ・イット・ライト」を歌っていた。このように自らの音楽体験を惜しみなくステージで披露してくれたその姿は、僕にとって音楽を遡り体得していくために欠かせない先生だった。

このルーツへの敬愛の念と、ヴォーカル大江慎也の研ぎ澄まされ、かつ浮世離れといっても過言でもない突き抜けた歌唱法が彼らの魅力だったわけだが、黒っぽさを重視したスタンダードなロックンロールを基盤とするバンドスタイルからあっさりと抜け出すなど、変幻自在な姿でファンを魅了し続けた。

ずっとバンドを支え続けたのが花田裕之の男気


ザ・ルースターズは1988年の解散まで、10枚のオリジナルアルバムをリリースしている。初期のロックンロールがセカンドまで。そしてその後、エコー&ザ・バニーメンやジュリアン・コープの影響が色濃く見える内省的なネオアコースティックサウンドに変貌し独自の世界観を築き上げたのが大江慎也氏在籍した6枚目の『ΦPHY』まで。この変革の中、ずっとバンドを支え続けたのが花田裕之の男気だ。

大江脱退後も花田のイニシアティブのもとでバンドは継続し、強靭なギターサウンドとして復活。自らヴォーカルを務め5枚のアルバムを残している。つまり、ザ・ルースターズ = 花田裕之と言っても過言ではないだろう。

周知の通り、端正なルックスからモデルとして、デザイナー山本耀司の服を纏いパリコレにも出演した花田裕之。高校時代は、登校すると、全女子生徒が窓を開け彼の姿に見惚れていたという逸話を聞いたことがある。それでバスケットボール部のキャプテン。まさに絵にかいたようなプリンスぶりだが、そんな優男のイメージとは相反して彼はブルース、パブロックといった無骨な音楽を愛し続けた。そして、自らのバンド、ロックンロール・ジプシーズ、band HANDAを経て現在は自らのルーツミュージックに原点回帰し、「流れ」と称し、ギター1本で全国を周っている。

「流れ」では敢えて場所に拘らず、日本全国、どんな遠い場所でもどんな小さな店でもギター1本抱えて訪れている。自らのキャリアを踏襲し、ブルースに回帰した歌を届けるその姿は、トゥ・マッチ・モンキー・ビジネスな音楽業界とは一線を画したミュージャンの究極の姿だと思ったりする。

楽を遡れば遡るほどまだ見ぬ未来へと景色が広がってゆく


この花田のスタイルに触発され、同じようにギター1本で全国を周るようになったのが、DUDE TONE 名義、ザ・モッズ不動のギタリスト苣木寛之だ。花田は苣木に「旅っていいもんやろ」と笑いながら問われたという。この言葉の重みこそが、彼の音楽キャリアとそこに凝縮された思いが体現されていると感じた。

僕は音楽を聴くこと自体が旅だと思っている。音楽を遡れば遡るほどまだ見ぬ未来へと景色が広がってゆく。

ロックンロールが生まれる前、ブルースシンガーたちは、19世紀から20世紀の初頭、住居を定めず鉄道を乗り継ぎ、街から街へと仕事を求めながら旅を続けるHOBO(ホーボー)と呼ばれる人たちを歌にしてきた。ホーボーはビート文学の金字塔、ジャック・ケルアックの「オン・ザ・ロード」の題材にもなり、当時のヒップな若者たちの精神的支柱となった。ウディ・ガスリーやボブ・ディランもこれをテーマに数々の名曲を残した。そしてこれを日本では花田が体現しているのだ。

「僕たちは何処から生まれて何処にいくのだろう…」なんだか哲学的なテーマになってしまいそうだが、ロックンロールに潜む真理というのはここに帰結するのではないかと思ったりする。自分が何者か分からないからロックンロールの初期衝動に胸を抉られ、「こことは違う何処か」に思いを馳せながら音楽を聴き続ける。そんな思いを具現化しているは花田裕之今も僕の憧れだ。

例えば、さびれた港町の小さな酒場から、またある時は都会の洒落たクラブから、花田は、デビュー当時に思いを馳せたロックンロールを今も大切に心の中に忍ばせながら、より深化させたブルースでその場の風景を彩り、観客を「こことは違う何処かへ」誘ってくれる…。

80年に北九州から発信された無骨なロックンロールは、日本の津々浦々で聴く人の心に様々な風景を創っていることだろう。初めて訪れた見知らぬ街で、古い酒場の扉を開けたら花田が歌っていた…。そんな光景を心の中に描いてみた。


2019.06.20
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カタリベ
1968年生まれ
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