1973年 2月25日

売れないロックバンド【はっぴいえんど】なぜ日本の音楽史において重要な存在なのか?

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日本のロック、ポップミュージック史においてきわめて重要な存在だったはっぴいえんど


はっぴいえんどが、日本のロック、ポップミュージック史においてきわめて重要な存在だったことは間違いない。けれどその活動時期も実質的には3年間あるかどうかだったし、リアルタイムで彼らを評価したのもごく一部の音楽ファンにすぎない。いわば知る人ぞ知るバンドだった。むしろ解散後のメンバーたちの活躍に伴って、はっぴいえんどは “伝説のバンド” として知名度を獲得していった側面もあったと思う。

この度、はっぴいえんどのオリジナルアルバム3作品(『はっぴいえんど』『風街ろまん』『HAPPY END』)が貴重な未発表音源を新たに収録し、CDとアナログ盤でリイシューされることになった。この機会にはっぴいえんどが日本の音楽の歴史に果たした役割を考えるために、彼らが活動した時代を振り返ってみたい。

世界的に見ても独特の音楽ムーブメントを生み出したグループサウンズ


1960年代の中期から後期にかけて、欧米では音楽が娯楽であるだけでなく、アートやカルチャーとして評価されるようになる。ビートルズなどの創造的作品づくりの姿勢、ボブ・ディランなとの文学的な歌詞のアプローチ、さらにロックを自由でクリエイティブな表現へと発展させたニューロック、アートロックと呼ばれたアプローチなとが融合して、音楽を若い世代の新たな表現メディアとして発展、成熟させていった。

今とは違い、当時の日本ではこうした欧米のロックムーブメントについての情報は本当に限られたものしか得られなかった。それでもFEN(アメリカ軍放送網 現:AFN)などを通じて知った新しい音楽に影響され、自分たちも演奏活動を始める若者は一定数存在した。

しかし、その多くは海外の有名楽曲のコピーが主体だった。さらに当時の日本の音楽業界には、若い世代の自由な音楽活動を受け止める意志は無く、その多くはグループサウンズ(GS)の形で、バンドスタイルの青春歌謡を歌うこととなっていった。

GSは、ロック志向の若者と日本の既成音楽業界との妥協の産物ではあったものの、世界的に見ても独特の音楽ムーブメントを生み出したことは指摘しておく必要があるだろう。さらに、GSには “青春歌謡” をはみ出し、よりロック的であろうとする動きがあったこと、そしてその動きがその後のシーンに影響を与えていったことも。

そんな動きに興味を持ち始めていた当時10代の僕が、なかでも強烈なインパクトを感じた日本のグループがふたつあった。それが1967年末に「帰って来たヨッパライ」でセンセーションを巻き起こしたザ・フォーク・クルセダーズと、1968年に「からっぽの世界」をリリースしたジャックスだった。

「帰って来たヨッパライ」は、なにより無名の学生フォークグループがこれまで聴いたこともないキテレツな曲を、しかも自主製作で造ったということが衝撃的だった。

「からっぽの世界」もGSでは絶対にありえない心の内面をえぐる情念的な歌詞と耽美的サウンドは、きわめて強いインパクトがあった。僕は、新宿の「タクトレコード」という店でインディーズ盤のシングルを手に入れた。





ザ・フォーク・クルセダーズとジャックスの音楽スタイルは無関係に見えるけれど、僕は彼らの間には大きな共通点がいくつもあると感じた。

彼らはともに日本の既成音楽ビジネスとは無縁のアマチュアシーンから直接登場していた。そして彼らのつくり出す音楽は、自分たちが聴いてきた1960年代の洋楽を単にコピーするのではなく、その表現しようとしたものを、日本語で自分たちの置かれている状況に置きかえて、自分たちのイニシアティブで表現していた。だから、彼らの音楽には本当のオリジナリティを感じられたのだ。

ザ・フォーク・クルセダーズとジャックスは実際に交流もあり、ザ・フォーク・クルセダーズがジャックスの曲をカバーしたりもしている。

ザ・フォーク・クルセダーズは1968年に解散、ジャックスも1969年に解散と、その活動期間はきわめて短かった。しかし、彼らは既成の音楽業界とは無縁のスタンスできわめてクリエイティブでクオリティの高い音楽活動ができること、いやむしろ規制音楽業界の縛りが無い方が優れた音楽を創造する可能性があることを教えてくれた。

ザ・フォーク・クルセダーズやジャックスをさらに発展・洗練させた音楽性


そして、ザ・フォーク・クルセダーズやジャックスが切り拓いたクリエイティブな日本音楽を創るという姿勢を受け継ぎ、さらに発展・洗練させたのがはっぴいえんどだった。

はっぴいえんどが結成されたのは1969年(当初はバレンタイン・ブルーと名乗っていた)。彼らはまさにザ・フォーク・クルセダーズやジャックスと入れ替わりに登場したバンドと言っていいだろう。

メンバーの細野晴臣と松本隆は直前までエイプリルフールというバンドのメンバーだった。エイプリルフールはアルバム1枚を残して解散したが、演奏力もきわめて高いプログレッシブ・ロックバンドだった。さらに言えば、細野、松本は参加していないがエイプリルフールの前身はフローラルというGSだった。その意味では、はっぴいえんどは “青春歌謡” をはみ出したGSの系譜も受け継いでいたのだ。

また大瀧詠一はアメリカン・オールディーズのオーソリティとして有名だが、はっぴいえんど結成前にはブルース・クリエイションと交流しており、日本のブルースロックの流れとの接点ももっていた。

そして最後に参加した鈴木茂は、東京のアマチュアシーンで括目されていた当時18歳の新進ギタリストだった。



いち早く日本語のロックを成立


はっぴいえんどが打ち出したのは “日本語のロック” というコンセプトだった。当時、日本のロックバンドは、日本語はロックのビートに乗りにくい、という理由で英語で歌うことを好んだ。もちろん、その方が “ホンモノっぽい” という思いもあっただろう。はっぴいえんどの登場により、音楽雑誌で「ロックは英語か日本語」かという論争が起きたりもした。

以前、大瀧詠一は「日本語のロック」について、こう語っていた。

「アメリカやイギリスのミュージシャンは日本人のために歌っているんじゃない。彼らは自分の国の人たちに向けて歌っているから英語なんだ。僕らは日本人に向けて音楽をやっているんだからね」

つまり、日本のミュージシャンが欧米のミュージシャンと “同じ姿勢” で音楽を表現しようとするなら、最初から海外を目指すのでなければ、まず日本語で表現するのが当然だということだ。

はっぴいえんどが “日本語のロック” を成立させることができたのは、もちろんその作品が秀逸な日本語詞をもっていたからだ。その歌詞を手掛けたのがドラマーの松本隆だ。

松本隆は、それまでの日本の楽曲には無かった情念的世界を描くジャックスの歌詞に刺激を受けたというが、その情念をストレートに出すのではなく、渡辺武信をはじめとする現代詩などを研究し、さりげない風景描写に文学的情感を忍ばせる洗練された作品を手掛けていく。

サウンド面でもオリジナリティあふれるスタイルを創出


サウンド面でも当時の日本では本流と見られていたブリティッシュハードロックではなく、日本ではほとんど紹介されていなかったトラディショナルに通じる匂いをもつアメリカンロックのテイストを積極的に取り入れて、オリジナリティあふれるスタイルを創出していった。もちろん、彼らがそのサウンドに日本語詞をスムーズに載せる表現技術を持っていたことも言うまでもない。

こうしてはっぴいえんどは “それまでの日本にはなかった新鮮な音楽性をもつバンド” として、当時のロックやフォークのライブシーンでは一目置かれる存在になった。

はっぴいえんどの演奏から伝わるのは “ロック一筋” のパッションではなく、多彩な要素を融合して洗練されたアート作品をつくりあげていくインテリジェンスだった。

ファーストアルバム『はっぴいえんど』(1970年)の当時のライナーノーツには「下記の方々の多大なる御援助に深く感謝したい」として約100人の名前が羅列されている。これははっぴいえんどがサウンドの参考にしているアメリカのバンドのひとつバッファロー・スプリングフィールドのセカンドアルバム『AGAIN』(1967年)のライナーノーツのオマージュだ。



名前が挙げられている100人には、自分たちが影響を受けた海外のミュージシャンだけではなく、ドビュッシー、ストラヴィンスキーなどの作曲家、ジェイムス・ジョイス、ジョルジュ・バタイユ、大江健三郎などの文学者、ジャン・リュック・ゴダール、黒澤明などの映画監督、落語の三遊亭円生、浪曲の広沢虎造、漫画家のつげ義春、さらには茶人の千利休まで、きわめて多彩な名前が羅列されている。

このリストは、世界の文化史的に残る業績をあげたさまざまな人々の創造性に対する姿勢を、はっぴいえんどが受け継ぐという宣言でもあったと思う。

はっぴいえんどが、日本のロックの先駆けと呼ばれる理由


客観的に言えば、はっぴいえんどは商業的に成功したバンドではない。彼らが出演するライブには必ず顔を出す熱心なファンもいたけれど、レコードもURCという日本初のインディーズレーベルから出ていたため、置いているレコード店も少なく、セールスも芳しいものではなかった。だから、一般的な知名度はほとんど無かったと思う。

はっぴいえんどが “伝説のバンド” として多くの人に知られるようになったのは、最初にも触れたけれど、バンド解散後のメンバーそれぞれの活躍によるところが大きいだろう。けれど後世の人々が振り返って見た時にも、はっぴいえんどが掲げた “日本語のロック” というコンセプトはその有効性を失っていない。本当の意味でクリエイティブな日本の音楽とはなにか、というテーマはいつの時代のミュージシャンにとっても避けては通れないテーマなのだから。

そしてなによりも、改めて聴いた彼らの楽曲がまったく色褪せていないどころか、今の時代にも圧倒的な魅力を持ち続けていることこそ、彼らが日本のロックの先駆けと呼ばれる理由なのだと思う。


Information
伝説のロックグループ、 はっぴいえんどの
名作オリジナルアルバム3作品が CDとアナログ盤で再発売。CD初回盤には 貴重な未発表音源も収録!
https://www.110107.com/s/oto/page/HAPPYEND2023?ima=3056
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2023.10.30
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カタリベ
1948年生まれ
前田祥丈
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