11月21日

小泉今日子をヒットさせた田村充義が語る!時代の波に乗る “小泉ワールド” を解き明かす

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連載【ザ・プロデューサーズ】 vol.6
田村充義 / 小泉今日子

小泉今日子をプロデュースした田村充義、初めて担当したのが「まっ赤な女の子」


新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。

これは、エンタメ界において、稀代の新人を数多く輩出した「黄金の6年間」(1978〜83年)を舞台裏から支えた、時代の証言者たちの物語である。そう、ザ・プロデューサーズ―― 彼らの軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。今や音楽は “サブスク” なる新たなステージへ移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。温故知新―― この物語は、今を生きる音楽人にとって、時に未来への地図となる。

『ザ・プロデューサーズ』第6回は、80年代のアイドル界において、“聖子・明菜” の2強に割って入った、いわば “第3の女” ――小泉今日子さんをプロデュースした、ビクター音楽産業(当時)の田村充義さんの後編である。小泉さんが自ら髪を切った2年目の春、2代目ディレクターに就任した田村さんが初めて担当した5枚目のシングルが「まっ赤な女の子」だった。そこを起点に、彼が仕掛けた “普通の子” 戦略が功を奏し―― 1984年、「渚のはいから人魚」で初のオリコン1位に。後編は翌85年、そんな “トップアイドル・小泉今日子” に忍び寄るニューカマーたちを前に、田村さんのあっと驚く秘策に始まり、80年代後半、華麗に時代の波に乗る “小泉ワールド” の全貌を解き明かす。

なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind 80’s - 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹 / 構成:指南役)

テーマは “卒業” しかし新しい着地点が見えた「魔女」


――「渚のはいから人魚」以降、すっかりオリコン1位の常連となった小泉今日子さん。そんな飛躍の1984年を経て、85年を迎えます。

この年は、新しい方々が次々に登場して、ある意味、脅威の年でしたね。まず、春先に斉藤由貴さんが「卒業」という作品でデビューして、純粋にすごくいい曲だなぁって思いました。あのとき、同じ「卒業」というタイトルの作品が4作ぐらい一緒に出て… 尾崎豊さんの「卒業」とか、音楽業界もかなり盛り上がりました。

――「卒業」戦争。菊池桃子さんや倉沢淳美さんも。

年に2、3曲、非の打ち所がない素晴らしい曲ってあるじゃないですか。斉藤由貴さんの「卒業」も、そんな楽曲の1つだと思います。詞も曲もアレンジも、そして彼女自身の歌も、すべてが1つの世界観で統一され、すごくよかった。

―― 鮮烈なデビューでした。

この曲のヒットで、ひょっとしたら、音楽の傾向が変わっていくのかなって思ったんです。ミディアムテンポで、ちょっと切ない、聴かせる楽曲がこれからの主流になっていくとしたら、小泉さんにもそんな世界観の曲を歌ってもらいたいな、と。それで、斉藤さんの「卒業」と同じ座組―― 筒美京平先生と松本隆さんに、同じ “卒業” というテーマで新曲を作っていただこうと考えました。

―― ある楽曲をオマージュして、似た楽曲を作る ”本歌取り” はよく聞きますが… まさか、当事者のお2人にそれをお願いするとは…(笑)

ある意味、正攻法です(笑)。同じテーマで、素材が小泉さんだったら、どう料理してもらえるだろうか。そんな趣旨の話を京平先生にお伝えしたら、快くお受けいただいて。そうして出来上がったデモテープを聴くと、これが素晴らしいメロディ。それを持って、今度は松本さんのところへ行って、タイトルを相談させてもらって、いくつかの候補の中から最終的に決まったのが――「魔女」。

ーー いい曲です。

作詞にかかった時間は2時間もなかったと思います。その場で、完成した詞を読ませてもらったら、とても面白い。テーマは前述の通り “卒業” なんですが、それを小泉さんに当てはめると、新しい着地点が見えて。

―― この曲で、女性ファンが更に増えた印象があります。

その意味でも、ミディアムテンポでしっとり聴かせるという狙いは間違ってなかったと思います。実は僕自身、「魔女」は小泉さんの曲の中でも1、2を争うくらい、大好きな作品です。



空前の女子高生ブームの幕開けと「夕やけニャンニャン」


―― その一方、この年、アイドル業界に新たな動きが芽生えます。85年4月、フジテレビで『夕やけニャンニャン』がスタート。ここから、空前の女子高生ブームが幕開けました。

その前に、女子大生ブームもありましたね。実は僕、当時 “とんねるず" の楽曲も担当していて、彼らがレギュラー出演していたフジテレビの深夜番組『オールナイトフジ』にも立ち会ったことがあります。ちょうど「一気!」をリリースしたタイミングで、番組で歌わせてもらえるって言うんで、スタジオで待機していたら、なかなか出番が来ない。ようやく夜中の2時半を回ったくらいにスタンバイの声がかかって、やれやれと(笑)。だから、女子大生ブームは、割と身近で体感できたという印象です。

―― オールナイターズ。

そうです、そうです。それが、ある日、今度は高校生がメインの姉妹番組を夕方の枠でやるって話を聞いて、そうなんだ~と。それで、いざ始まって物珍しさから見たら、なんか隣に住んでいるような、クラスにいるような素人の女の子たちが進行して、あまり見たことのない絵面で、ちょっと面白い。そうこうするうち、段々と世間でウケ始めて…。

―― おニャン子クラブ。

正直、そんな彼女たちを見て、僕としては複雑な思いでした。だって、大まかなコンセプトで言うと、当初こちらが掲げていた小泉さんの “普通の子” とダブるじゃないですか。

―― あぁ! 言われてみれば。

ひょっとしたら、ヤバいかもって思いましたね。段々人気が出てきて、そのうちソロを出し始めて、チャートもいいところに行って…これはひょっとしたら、ひょっとするぞと…。

―― 夕方5時の番組ですが、不思議と当時、見ていた人が多かった印象。

実際、レコードセールスを見ると、デビュー曲の「セーラー服を脱がさないで」こそ最高5位でしたが、ソロデビューした河合その子さんが、いきなり1位を獲りました。これは、この後もソロデビューが続いて、束になって来られたら、結構大変なことになるかもしれないって…。

―― ちなみに、翌86年、おニャン子はオリコン52週中、実に36週で1位を獲得します。

前述のように、当時、僕はとんねるずも担当してまして、いつも2位止まりで、今度こそ1位を…と思ってたら、「渚の『・・・・・』」(なぎさのかぎかっこ)に負けたって聞かされて… “なぎさのかぎかっこ” ってなんだ?って、困惑したのを覚えてます(笑)

―― うしろゆびさされ組(笑)。改めて、85年に話を戻すと、まずフジテレビで4月に『夕やけニャンニャン』が始まって、第1弾シングルの「セーラー服を脱がさないで」が7月にリリースされて、いきなりスマッシュヒット。普通の女の子たちだった “おニャン子クラブ” が突然、脚光を浴びました。

だから考えましたよ。ある意味、こちらのテリトリーに入って来られたので、これは黙って見過ごすわけにもいかない。ただ、対抗するにも、よっぽどのことを仕掛けないと意味がない。そりゃあ、あちらは素人の女の子たちが、秋元康さんが書かれた「セーラー服を脱がさないで」を振り付きで歌ってるんですから、これは強い。思えば、85年は斉藤由貴さんの「卒業」を起点に音楽の流れが変わると思っていたら、わずか半年で、全く違う流れに。

―― ある意味、怖い世界です。



衝撃的なタイトル、「なんてったってアイドル」


その時、たまたま次のシングルのタイトルをフジフイルムさんとのタイアップで、一般公募で進めていたんです。だから、その話題性を生かしつつ、こちらもより強い作家陣で臨んでやろうと決意しました。そこで、やはりこの人しかいないと、作曲は筒美京平先生、作詞は―― 秋元康さんにお願いしました。

―― またもや、当事者に(笑)

一見、そう見られがちですが、秋元さんとは以前、「まっ赤な女の子」のB面で一度仕事をした仲ですし、とんねるずでは「一気!」からずっとお世話になっている、いわば “同志” です。純粋に、彼のクリエイティブに期待しての起用です。この難局を乗り越えられるのは秋元さんしかいないだろうと(笑)

――秋元康さん vs 秋元康さん。面白くなってきました。

それで京平先生とも話して、“詞先” で進めることになって、公募のタイトルも秋元さんとのすり合わせから “なんてったって” を選び、それをもとに詞を書いてもらいました。そうして出来たのが「なんてったってアイドル」です。

―― 衝撃的なタイトルでした。

完成した詞を京平先生に見せたら “何これ?” と困惑しながらも面白がってくれて、素晴らしい曲をつけていただきました。軽快なロックンロールです。アレンジは、松本伊代さんのデビュー曲から4作連続で京平先生と組まれた鷺巣詩郎(さぎす しろう)さん。キャッチーな音作りに長けた方です。それで、実際の小泉さんのコンサートのファンの歓声やノイズを足してもらったり、全体のアレンジのトーンもきれいにまとめすぎず、荒々しくしてもらったりして、派手で、メジャー感のある楽しい楽曲に仕上がりました。

―― よっぽどのことをやったわけですね。

そういうことです。やるからには、振り切らないと。

―― 今にして思えば、アイドルがアイドルを演じる、いわゆる “メタ演出” 的な狙いにも見えますが、そういう戦略的なことはなく?

それはなかったですね。あちらが “これからは素人のほうが面白い” と、脱アイドル路線を狙うなら、こっちは “プロのアイドルとは” と、いわゆる操り人形じゃない、ポジティブなアイドル像を徹底して描いたつもりです。ある意味、どちらも言ってることは正しい。いわば、素人のドキュメンタリーに対するプロのエンターテイメント。

―― カウンターですね。

ともすれば、評論家の方々は系統立てて、“縦線”(時間軸)で歴史を語りがちですが、現場で作ってる僕らからしたら、同時代のライバルたち―― つまり “横の並び” を見て作っています。つまり一曲、一曲が真剣勝負なんです。

―― なるほど。

思うに、「なんてったってアイドル」の一番の収穫は、結果的に “エンターテイナー・小泉今日子” という新たな魅力を引き出せたことだと思います。これまで通り、“普通の子” としてのキャラクターを保ちつつ、時と場合に応じて、プロフェッショナルにもなれる。ある意味、おニャン子クラブという存在がいたからこそ開拓できた、小泉さんの新たな一面です。



裏表のないキャラクターだから成立したベンザエースのCM


―― そんな風に快進撃を続ける小泉さん。80年代も後半になると、もはや “小泉今日子の時代” と言ってもいいくらい、独自のポジショニングで大活躍されていた印象です。

“CM女王” みたいに言われたこともありましたね。80年代前半は、そんなになかったタイアップの仕事が、80年代後半は飛躍的に増えました。CMを始め、映画とかテレビとか… ひとえに、小泉さんの存在というか、キャラクターが認められて、幅広い層に支持された結果だと思います。

―― “ベンザエースを買ってください” なんて台詞、小泉さんにしか言えません。

あれも、ある意味 “普通の子” 路線の発展形というか、裏表のない彼女のキャラクターだから成立した気がします。確か、コピーライターの仲畑貴志さんの仕事。

――当時、『ザ・ベストテン』などメジャーな番組に出られる一方、サブカルチャーと言われる人たちとの繋がりもあって、そういう振れ幅の広さというか、自由な風を小泉さんから感じました。

当時、小泉さんは原宿に住んでいたこともあって、こちら側の芸能活動とは別に、馴染みのメイクさんに呼ばれて、自転車でクラブに行かれたりとか、ファッション関係のお友達に誘われてイベントに顔を出したりとか、そういう話はよく聞きましたね。そんな個人的な趣味や人脈が高じて、こちら側の仕事をするときも、そういう方たちとジョイントする機会も増えて、彼女自身、ある種のセルフプロデュース的な立ち位置を楽しんでましたね。

小泉さんの趣味から始まった「ナツメロ」


―― 特に、雑誌やラジオで、その種のサブカル界隈の人たちとジョイントしていた印象があります。

『小泉今日子のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)の後に、TOKYO FMで始めた『KOIZUMI IN MOTION』もそうでしたね。あそこで、川勝正幸さんや高城剛さんや藤原ヒロシさんや近田春夫さんといった面々とご一緒して、そこを起点に新しい仕事が始まったり…。今でこそ、芸能人が個人的な趣味や人脈から仕事に発展するケースは珍しくありませんが、当時、アイドルでそういうことをする人はいなかったし、その走りでしたね。

―― それもまた、アイドルというフォーマットに捉われない “普通の子” の発展形とも。

例えば、小泉さんのアルバムに『ナツメロ』という、主に70年代の歌謡曲を集めた、一風変わったカバーアルバムがあります。アレなんて、半ば小泉さんの趣味から始まったようなものです。ちょうど『オールナイトニッポン』をやっていた頃で、控室で小泉さん入れて、みんなで雑談していた時、ふと昭和の歌謡曲の話になって、口々に “あれ、聴きたいねー” とか言ってたら、誰かがニッポン放送のレコード資料室から借りてきて、みんなで聴いて “面白いねー” なんて。そんなノリで、アルバムを出しちゃおうかみたいな話になって、小泉さんも “面白いからやろう” と。

―― 独特の選曲でした。

主に、小泉さんが子供のころに聴いてたものから、最近のお気に入りの楽曲まで。彼女らしい独特のチョイスでしたね。曰く、ジューシィ・フルーツが好きだとか、横浜銀蝿はどうだろうとか、アクビ娘やりたいとか…。 “アクビ娘って何?” って思わず聞き返しましたけど(笑)。最終的にスタッフの意見も取り入れ、みんなで楽しく多めに選曲して、そこから段々絞り込んで。

――「アクビ娘」は素晴らしいチョイスでした(笑)

タイトルをどうしようかという話になって、いろいろ考えた末に “ナツメロ” ってワードは古臭いけど、逆に面白いんじゃないかって。言葉って、時代によって新鮮に映ったり、古臭く映ったり、タイミングが難しいとされますが、小泉さんのキャラクターが乗っかると “艶姿” とか “はいから" みたいな古い言葉もパワーワードとして成り立ってしまう。だから “ナツメロ” で行こうと。それでリリースして、まずまずの評判で、 “あぁ、楽しい仕事だったなぁ” で、この話は終わるはずでした。

――まだ、続きがある。

それから約1年後、小泉さんも出演するドラマ『愛しあってるかい!』(フジテレビ系)の主題歌を作らなくちゃいけなくなって、さて、どうしようかと思い悩んでいたら、ドラマのプロデューサーから “昨年、小泉さんがカバーされた「学園天国」、すごくいいので、どうでしょう?” と逆提案されて。渡りに船と “そうですか。ありがとうございます…” と(笑)

―― 逆提案。

まさか、1年も前にアルバムでカバーした楽曲が主題歌に抜擢されるとは…。それでシングルカットしたら、ドラマ効果も手伝ってロングヒット。しかも、クリエイティブ的にも新しいイメージが評価されて。結果的に、『ナツメロ』というアルバムが狙っていた “名曲は時代を越えて歌い継がれる” という趣旨がちゃんと生きたっていう、そんな思い出です。



苦節何年…で、ようやく実現した大滝詠一作品「快盗ルビィ」


―― 少しさかのぼりますが、88年10月リリースの大滝詠一さんが楽曲提供された「快盗ルビィ」はどういう経緯で?

とにかく個人的に、大滝さんがソロになって出されたファーストアルバムが、昔から大好きで。その後、この世界に入って、縁あってご本人にお会いするたびに “(曲を)書いてください、書いてください” ってずっとお願いしてきて。それで、ある日、小泉さんの「渚のはいから人魚」がシングル1位になったタイミングで、大滝さんの『EACH TIME』もアルバム1位になって、嬉しくて電話したこともありました。 “お互い1位ですね” なんて。

――それも、“横並び” の思い出。

そんなことも含めて、とにかくお会いするたびに “書いてください。書いてください” とずっとお願いしてたんですけど、あの通り、寡作な方で。でも、この作品に関しては、大滝さんが好きな “映画” の話だし “ぜひ、書いてください” とダメもとでお願いしたら、 “わかった、わかった、書くよ” とおっしゃられて(笑)。たまたまタイミングがよかったのかもしれませんが、苦節何年… で、ようやく実現したという話です。

―― エバーグリーンな名曲です。

いやぁ、本当に嬉しかった。当時、大滝さんは、ご自分で仮歌を入れてからレコーディングに入る段取りだったので、その歌が残っていて。それで後日、小泉さんの歌と組み合わせてデュエットバージョンも作っていただいたり――。そんなことも楽しい思い出です。…まぁ、レコーディングは大変でしたけど(笑)

―― 大滝さんはスタジオにいらっしゃって、歌唱指導とかされたんですか?

大滝さんは基本、スタジオを締め切って、すべて1人でやります。広いスタジオで、1人でオペレーターしながら、まず仮歌を入れて。そのあとレコーディングの段になっても、我々は立ち入れません。小泉さんと大滝さんの2人きりで進行して、大滝さんがチョイス。だから途中、どんな歌が録られたのか一切分からないんですが、結果的にとてもいいところを選んでいただいて。大滝さんも “あの子、声がいいよ” なんて、小泉さんの声質を最大限に生かした、素晴らしい作品に仕上げていただきました。



聴いても全然古くならない「KOIZUMI IN THE HOUSE」


―― その次のシングルが、またびっくりするようなハウスです。近田春夫さんの「Fade Out」

あの曲に関しては、前述の『ナツメロ』のときに、近田春夫さんがプロデュースしたジューシィ・フルーツのカバーをやった延長で “来年のアルバム、どうしようか?” なんて小泉さんと2人で話をした際に、彼女のほうから近田さんの名前が挙がって、僕も “いいね” なんて、意見が一致したのが発端です。

―― 小泉さんの提案。

実は僕自身、近田さんとは、その10年くらい前から付き合いがあって。当時、近田さんはアミューズにいらっしゃって、僕も担当していたスペクトラムがアミューズ所属で、ある時、近田さんがジューシィ・フルーツを連れて、NHKのオーディションから帰ってきたところに出くわしたんです。その時、近田さんが “面白い子供たちのグループがいたよ” って話してくれて、それがコスミック・インベンション。

―― 近田さんがキューピッド役に。

そういうことになります(笑)。それが縁で、僕はコスミック・インベンションを担当するようになり、レコーディングで近田さんの曲もやったりして。そんなこともあって、僕自身、彼とは古くからの顔馴染みだし、いつかご一緒したいと思っていたので、ちょうどいいなと。それで、近田さんにアルバム制作の相談に伺いました。

―― それが、アルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』

会うなり、“今ちょっと、ヒップホップ、ラップみたいなことしか興味ないんだよね。ハウスがいいんだよね” なんて言われて。こちらも “あ、そうですか。面白いですね” なんて返して、それでアルバム作りが始まりました。「Fade Out」はその先行シングルです。

―― 今、聴いてもかっこいい。全然古くない。

ただ、本来ならアルバム1枚、全部近田さんで行くつもりだったんですが、途中で、ご本人から “ちょっと全部は無理かも” っていう風に言われて…。それで、アルバムのコンセプト的には、近田さん同様、詞も曲もアレンジも全部書ける人がいいなと思って、小西康陽さんや井上ヨシマサさんに入ってもらいました。



FLYING KIDSをバックに従えた「見逃してくれよ!」


―― 90年代に入ると、CMとのタイアップで話題になった「見逃してくれよ!」なんてシングルもヒットしました。

味の素さんのクノールカップスープのCMで、最初は小泉さんだけでやる予定が、何かにぎやかしが欲しいという話になって、たまたまビクターに所属したばかりのFLYING KIDS(フライングキッズ)を紹介したら、面白いって言われて。それで、彼らをバックに従えて小泉さんが歌う「見逃してくれよ!」っていうCMができました。

―― “会議室でお弁当食べてもいいじゃん” って(笑)

あのCMがすごく評判になって。するとある日、大滝詠一さんから “あれ、シングルにしたら?” って言われて “ええっ、あそこしか作ってないんですけど…” って返しました(笑)。大滝さんにしてみたら、昔、三ツ矢サイダーとかCMソングをたくさんやられて、後にそれらをアルバムにしたので、そういうニュアンスで言われたのかな、と。

―― あれ、シングルにしたのは、大滝さんのアイデアだったんですね。

結局、そこから、ちょっと大変な思いをして1曲に仕上げて、「見逃してくれよ!」って作品ができて、リリースしたら、オリコンシングルチャートで1位に(笑)

―― 時代と完全にリンクしてましたね。

そうなんです。そういう時代感覚というか、臨機応変さが、やっぱり音楽にとってはすごく重要なんだと、再認識させられました。大滝さんには、見えていたんですね。そういうところが、やっぱりすごい。



作詞家としてもブレイクした、「あなたに会えてよかった」


―― このインタビューもそろそろ終わりに近づいてますが、最後は、小泉さんにとって初のミリオンセラーであり、作詞家としてもブレイクした、91年リリースの「あなたに会えてよかった」の話を…。

作曲とアレンジは小林武史さん。彼にとっても初めてのヒットでした。実は、それまでご一緒したことはあまりなくて、一度だけコンペで小泉さんに曲を提供していただいたくらいで。その後、小林さんが、サザンオールスターズのプロデュースに入ったり、筒美京平先生の曲をアレンジしたりという中で、そろそろ小林武史さんいいんじゃないかという話になって、たまたまご一緒できたタイミングが「あなたに会えてよかった」と。このあと、彼はミスチル(Mr.Children)の仕事で多忙になるので、ラッキーなタイミングでした。

――ある意味、制作サイドも “あなたに会えてよかった” と(笑)

とはいえ、この曲は仕上げるまでが大変でした。小林さんとは初めて顔を突き合わせて仕事をするので、ああして欲しい、こうしてほしいというオーダーを出してもうまく通らなかったり、一方で作詞の小泉さんも、ここ直してって言っても、なかなかやってくれない(笑)。まぁ、最終的にはみんな聞いてもらって、曲の構成も変わって、メロディも増えて、小泉さんに書き換えてもらって、何とか今の形にたどり着いたと…。

―― この曲について、改めて30分ぐらい聞きたいです(笑)

ただ、個人的には、この曲のレコーディングで鈴木祥子さんと再会できたことが大きかったですね。実は彼女、かつて小泉今日子さんのバックバンドで、女性だけで編成されたバンドがあって、ドラムやキーボードで参加してもらったんですが、そのあとソロデビューされて、素敵な曲を作られてて。いつかご一緒したいと思っていた矢先に、「あなたに会えてよかった」のコーラスに来てくれて。

―― その再会が、のちの「優しい雨」に繋がっていくという…

運命の神様に感謝です。これもまた、“あなたに会えてよかった”



かくして、80年代のアイドル群雄割拠の時代、聖子・明菜の2強に割って入った “第三の女” ――小泉今日子さんを2代目ディレクターとして支えた田村充義さんのインタビューは終わった。新しいスターが生まれる時、そのバックステージにはドラマがある。この “物語” から、あなたは何を読み解くだろうか。

1つだけ確かなことがある。エンタメにおける優れた作り手とは、「過去のヒット作品をどれだけ知っているか」と同義語である。


参考図書 :
* 別冊太陽スペシャル『小泉今日子 そして、今日のわたし』(平凡社)
*『小泉今日子の音楽』チャッピー加藤(辰巳出版)

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2024.09.17
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1967年生まれ
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