80年代半ば、日本の音楽シーンには3人のO(オー)というイニシャルを持つ男達が活躍していた。
1人目は言うまでもなく若者の教祖にしてカリスマである尾崎豊。2人目は、男ユーミンの異名を取る大江千里、3人目は大沢誉志幸。
83年デビューのソニー系アーティストは「Oの時代」などと呼ばれた。そして、このコラムの主人公、小山卓治もその中の一人。
しかし、これといった代名詞が思いつかず、ご存知でない方に説明する事が難しいアーティスト。それでも私は小山卓治が断然好きなのだ。
出会いは甲斐よしひろの『サウンドストリート』、ラジオから流れてきたデビューシングル「フィルム・ガール」だった。
まるで私小説。
実体験に基づいた話かと思っていた。圧倒的なリアリティがあった。音楽から小説が聴こえてきたのはこの曲が初めての体験だった。
佐野元春がケルアックの影響を受けてロードムービー調、アメリカンニューシネマ的な曲調だとするならば、小山卓治はアラン・シリトーの影響を受けていて、それは自分を取り巻く理不尽な環境に対するアナーキーな憤りだと感じた。
『君は最初に目を奪われた 俺の顔を見れなくするために』から始まる「フィルム・ガール」は、『ねえ君 お別れの時が来たね マネキンのお守りなんてまっぴらだ』で終わる。
真意の程は定かではないが、この曲は中森明菜をモデルに書かれていると言われている。曲の中で繰り返し唄われるサビは
フィルムガール 愛しい人よ
フィルムガール 哀しい人よ
ディレクターは優しいかい
マネージャーはよくしてくれるかい
スタイリストは綺麗にしてくれるかい
ボスは次は君に何をさせるつもりなの
確かに中森明菜について唄っていると言われても納得出来る。
この人の「大人になれなかった自己への自己憐憫」というこじれた感覚は、狩撫麻礼原作の漫画『迷走王 ボーダー』の主人公、蜂須賀さんと通じるものがあると思う。
彼の白シャツにネクタイという出で立ちは都会の孤独を映しだしていながら、孤独に対する捨て台詞的な格好良さがあった。
対照的に尾崎豊の「大人になんかなりたくない自己愛」、いつまでもTシャツにジーンズ姿でいたい、白シャツにネクタイなんてまっぴら御免だ!というくくりで捉えると面白くなってくる。
小山卓治は社会派と言われているが本当は個人派という分類が正しいのかも知れない。
当時、その他大勢に圧倒的な支持で歓迎されていたニューミュージックに対する私小説的なレベルミュージック。
今だからこそ、個人派の音楽を聴きたい。
歌詞引用:
フィルム・ガール / 小山卓治
2017.09.27
YouTube / daidai19696
YouTube / QKC45
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