散々だった初海外・初ニューヨーク。かろうじて楽しい思い出と言えるのは、前回書いたブロンディのコンサート、それから太田裕美さんに一日、ニューヨーク案内をしてもらったことくらいでした。
太田さんはその年(1982年)、休業してニューヨークに長期滞在していたのですが、ちょうどこの時、大沢誉志幸君とそのマネージャー松田さんも、何やら別件でニューヨークに来ていて、松田さんは太田さんの担当でもあったので、「ヒロミにちょっと案内してもらおう」となったのです。私はこのときが初対面でした。
彼女はこの街にもうすっかり馴染んでいるようでした。サッサとかなりのスピードで歩く彼女に、ドタドタと着いていきながら、こんな怖い街でよく何ヶ月も一人で暮らせるなぁ、とその度胸に感心しましたし、一般に浸透していた「お嬢さん」的イメージとのギャップを面白いとも思ったのでした。
そして、その年の秋、太田さんがニューヨークから戻った後の、渡辺音楽出版での担当ディレクターが替わることになり、私が指名されました。
既に大ヒットをいくつも出している「大物」ですから、プレッシャーもあるし、アイドル的な部分は自分の得意とする分野ではないし、迷うところなんですが、夏にニューヨークで一度会ったことで多少の親近感もあり、受けることにしました。実は彼女の方は私のことなどちっとも覚えていなかったのですが(笑)。
担当を拝するにあたり、CBSソニーで太田さんをデビューからずっと担当しておられるディレクターの白川隆三さんに挨拶しに行きました。
私は自分なりに、太田さんのこれからの音楽方向性はかくあるべき、みたいなことを考えて、参考音楽とともに白川さんに話したのですが、これも今思い出すと赤面モノで、彼女のそれまでの作品をろくすっぽ聴きもせずに、勝手なイメージで生意気にしゃべりまくっただけなのです。
白川さんもたぶんあきれたと思います。私の聴かせる音楽に対し(何を聴かせたか覚えてないのですが、たぶん “Buggles” あたりのブリティッシュ・ニューウェイブものだろうな)、「個人的には好きー」などと茶化すような返事で応えるばかりで、私はそれに内心逆ギレして、「ヤな感じ…」なんて思っていたのでした。
私が担当した太田裕美の最初の作品は『Far East』というアルバム。1983年3月21日発売です。彼女がニューヨークで知りあったミュージシャンからもらってきた曲が5曲、それをA面として白川さんが仕切り、B面は主に私がディレクションさせてもらいました。このとき初めて、大村雅朗さんと仕事をしました。
大村雅朗さんは、洋楽に引けを取らない感度の高いサウンドで、80年代のアイドルと J-POP に大隆盛をもたらしつつ、惜しくも46歳で早逝してしまった名アレンジャーですが、この時期は「打込み」を導入し始め、ポップで斬新なそのセンスがもっとも煌めいていたころでした。
木﨑賢治先輩が大村さんを起用した大沢誉志幸の1st アルバム『まずいリズムでベルが鳴る』(1983年6月22日発売)の冒頭を飾る「e-Escape」を初めて聴いたときは、そのカッコよさにシビれました。今でも J-POP 史上最高のアレンジだと、私は思っています。
さて、A面は太田さんおなじみの萩田光雄さんアレンジでちょっとジャジーな大人ポップス、B面は大村さんアレンジで和風ニューウェイブ・ポップ、とAB面で全然違う世界になってしまったのですが、エンジニアは両面とも吉田保さん。
吉田さんも太田さんではおなじみだったのですが、実は大村さんとは全然合わなかった。特にドラムサウンドが大村さんの好みじゃなかったようで、当時既に大御所だった吉田さんに向かって「何この音〜。もうちょっとシャキッとしないの?」なんてストレートに言っちゃうのです。吉田さんはムスッとするし、ヒヤヒヤもんでしたが、たしかに私も大村さんと同様に感じていました。
吉田保さんはエコー使いの名手で、大瀧さんとか達郎さんとか、広がりのある音像作りでは素晴らしいお仕事をされていますが、ニューウェイブやテクノポップのようなカチッとしたものは、あまり好きでも得意でもなかったのではないでしょうか。
ミックスダウンのときもやはりドラムがモコモコしているので、「スネアをもうちょっと大きくしませんか」なんて言ってみたら、「音楽は全体で聴くものだよ」と窘めるように返されました。
その場は吉田さんと私、二人だけでした。「このドラムの音のせいで全体が気持ちよくないんだけど」なんて心の声でつぶやきましたが、大村さんのように声に出す勇気はありませんでした…。
※2017年8月22日に掲載された記事をアップデート
2018.06.29
YouTube / tomorobin
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