6月13日

伝説のギタリスト、テキサス・ハリケーンことスティーヴィー・レイ・ヴォーン

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スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルのデビューアルバム「Texas Flood」がリリースされた日
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photo:SonyMusic  

ブルース低迷期に彗星のごとく出現、テキサス・ハリケーンと呼ばれ伝説のギタリストとなった男、スティーヴィー・レイ・ヴォーン。

20世紀初頭にアメリカの田舎だったテキサスでは石油が発見され経済発展を遂げた。スティーヴィーらを虜にした音楽のルーツは黒人の労働歌で、テキサス東部の綿畑周辺に黒人共同体が形成されブルースが誕生しテキサスブルースといわれる。

初の男性ブルースギタリストといわれるブラインド・レモン・ジェファーソンは小作人の息子で、この地で産まれたとされている。そのブラインド・レモン・ジェファーソンに影響を受け現れたのが、1968年に破格の契約金でコロムビア・レコードと契約し、後に「100万ドルのギタリスト」と呼ばれる白人テキサス・ブルースマンのジョニー・ウィンターだ。

しかし70年代に入りブルースは時代遅れとされ長く低迷期にあり、レコード契約もしづらく、誰も真剣にやってなかったと言われることもあったが、83年、救世主とも言うべきテキサス男のスティーヴィー・レイ・ヴォーンが現れブルースを再び世界に広め見事に復活させた。

スティーヴィー・レイ・ヴォーンは1954年10月3日にテキサス州ダラスで産まれた。ダラスの子供たちは夜になるとラジオを聴くというらしい。当時のブルースアーティストたちは、メキシコの国境近くにあるラジオ局のウルフマン・ジャック(70年代から80年代にかけて『ウルフマン・ジャック・ショー』で有名)の DJ に触発されたという。

そんな環境のなか、3歳上の兄ジミー・ヴォーンがギターを始め、弟のスティーヴィーも後に続き弾き始める。

60年代半ばにヴォーン兄弟はダンス曲のカバーバンド、ペンダラムズを結成した。評判は上々で、兄ジミーは有名になっていたバンド、チェスメンに入り、さらに注目が集まり15歳にしてダラス屈指のギタリストとして脚光を浴びることになった。後にスティーヴィーは影響されたギタリストの一人として兄ジミーの名をあげている。

スティーヴィーは、音楽好きでバンドマンとしても一歩先を歩いていた兄ジミーの影響でたくさんのミュージシャンを知ることができた。

ギターを始めた頃にはジミ・ヘンドリックスに衝撃を受け、高校2年の頃にはクラブで決まってクリームの「クロスロード」をクラプトン・バージョンで弾き、場内は最高潮に盛り上がっていたという。

その時のバンドメンバーに借りたアルバート・キングのレコードが本物のブルースに目覚めるきっかけになり、アルバート・キングがテレビで弾いていた「ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン」を聴いた瞬間電流が走ったと語っている。

この頃から既にバンド仲間ではスティーヴィーもギターの才能を認められていたが、まだジミーの弟ということにすぎなかった。

スティーヴィーが頑なにブルースに拘る兄ジミーより知名度が上がったといわれるのは、ロックバンド ブラックバードに加入しダラスで有名になり高校を中退し71年暮れにオースティンに拠点を移してからだった。

72年に人気絶頂の中、方向性の違いからブラックバードは解散するが、スティーヴィーはトミー・シャノン(後のスティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルのベーシスト)らを迎え再結成するも2ヵ月で終わることとなる。

その後、レオン・ラッセルとデュオで活躍し、ソロになったマーク・ベノらと「ザ・ナイト・クローラーズ」を結成。LA で初のレコーディングをするがレコード会社にそのプロジェクトを白紙に戻される。

73年の夏にバンドは短いツアーに同行しハンブル・パイの前座を務めたが、酒とドラッグが理由でツアーを降ろされ各々の拠点に戻ることとなる。

オースティンに戻ったスティーヴィーは75年7月15日に、大物ミュージシャンと地元の才能が共演する機会を作ることを目的として開店したアントンズ・ナイト・クラブでアルバート・キングと共演し、そのギターの才能を認められ親しくなった。

それから、ポール・レイ・アンド・ザ・コブラスではヴォーカルとして成長する機会を得るが77年半ばに脱退。フォートワースで有名なブルース歌手のルー・アン・バートン、ソウルとブルース歌手としてすでに名前の売れていた W.C.クラークらを迎えテキサスの選抜グループと言えるトリプル・スレッド・レヴューを結成するも78年5月に解散。

その後、スティーヴィーは、ルー・アンとダブル・トラブルを結成。作詞作曲を再開しオリジナル曲を作りバンドの原動力となって上手くいきかけた79年末、何の前触れもなくルー・アンが脱退。12月にはショーの予定があったので、急遽スティーヴィーがメインヴォーカルも務め名実ともにフロントマンとなり、テキサスでは有名になるが、まだローカルの域を出なかった。その頃、兄ジミーのファビラス・サンダーバーズはレコード契約が決まっていた。

80年、スティーヴィーはテキサスから東海岸のツアーを行う。80年代に入った頃からはマネージメントが枢要な人物に引き継がれグレイトフル・デッドのマネージャーを務めたオースティンの資産家フランシス・カー、エピック UK の代表を務めたこともあるチェスリー・ミリキンという強力なチームを得るがブルース不況の中なかなかレコード会社と契約できない。

そんななか81年1月、メンバーの変更があった。60年代後半にジョニー・ウィンターのバックを務め、以前からのバンド仲間だったトミー・シャノン(Ba)が加わり、クリス・レイトン(Dr)スティヴィー・レイ・ヴォーン(G.Vo)という完璧なスリーピースバンド、スティーヴィー&ダブル・トラブルが結成されることになった。

82年、チェスリーが彼等3人のビデオをミック・ジャガーに送り、ローリング・ストーンズのパーティーで演奏。ミックはスティーヴィーとの契約を望んだようだったが、バンドの商用価値が不明だったため契約には至らなかった。

その後偶然に、脱退したルー・アンのアルバム発売のためにオースティンを訪れていたプロデューサーのジェリー・ウェクスラーが、スティーヴィー&ダブル・トラブルを見てモントルー・ジャズ・フェスティバルの主催者に連絡。イベントに呼ぶよう勧めた。1982年7月17日、そのステージに立った時はレコードも出していないまま1晩だけ演奏するというフェスティバルでは異例のバンドであった。

しかし、モントルーではアコースティックが主流で、ヘヴィーで電気的なサウンドを期待する観客はほとんどいなかった。ちなみに、このイベントを録音したレコードからは野次やブーイングが聞こえてきた。

それでも、このフェスによってスティーヴィーがブルースに尊敬と注目を取り戻す切っ掛けとなっていく。また、観客の中にはデヴィッド・ボウイと伝説的プロデューサーのジョン・ハモンドの息子もいた。

次の晩にバンドは、より私的な場で即興演奏をする。ここではジャクソン・ブラウンと共演。この新しいつながりがバンドの価値を高め、デヴィッド・ボウイからアルバムへの参加を提案される。そして、ジャクソン・ブラウンからはロサンゼルスのスタジオを1週間貸してくれることになった。

82年11月、ロサンゼルスのJ・ブラウンのスタジオに向かい、ショーをする感じのセッションから生まれたのがデビューアルバム『テキサス・フラッド ~ ブルースの洪水』。

そこからスティーヴィーとダブル・トラブルの運命が変わりはじめた。

83年1月、スティーヴィーはニューヨークに渡り、デヴィッド・ボウイのアルバムに参加、83年3月15日、ジョン・ハモンドの後押しでエピックレコードと契約を結ぶ。その2日後デヴィッド・ボウイのアルバムと同名の曲「レッツ・ダンス」がリリースされ全米1位となり、スティーヴィーはデヴィッド・ボウイのツアーにギタリストとして同行する。当初エピックレコードはジャクソン・ブラウンのスタジオでの音源をデビューアルバムにするつもりだったので、アメリカ南西部の販売促進担当者はスターの影に隠されてスティーヴィーのキャリアを損なうと考えていた。

が、結果的にはデヴィッド・ボウイに同行する新人について取材が殺到しデビューアルバムの宣伝にかける時間は激減し、あらゆるラジオ局や演奏したいクラブに出向き、83年6月、テキサスでは有名だったブルースマンがついに『テキサス・フラッド ~ ブルースの洪水』をリリースし29歳でデビューする。

83年発売といえば大ヒットアルバムばかり(リマインダーのコラム一覧年表を参考にしていただきたい)、MTV による MV 時代到来で勢いのあるニューロマンティック、第2次ブリティッシュインヴェイジョン、ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル(NWOBHM)の波に乗るロック勢。その中でブルースを掲げた『テキサス・フラッド』は、高評価を得てテキサス・ブルースの復活を世界に知らせるアルバムになった。

アルバムリリース後は順調にアメリカやカナダ、イギリスのレディング・フェスティバル、ヨーロッパツアー、人気のアーティストとのショーを続け、ムーディー・ブルースと最初のアリーナツアーを実現し成功する。

83年12月、ムーディー・ブルースとのツアーの後アルバート・キングを訪ねた時に録画された演奏はテレビ放映され、ギターの腕前だけでなく創造性も評価され世界的な名声を受けることとなった。

それからはブルースにとどまらない独自の道を歩みはじめ、ブルースマンではあるが広い意味でのロックスターになっていく。

ところが、人気が出るにつれて人間関係や悩みもありアルコール、ついには麻薬に手を出し生活は負のスパイラルに陥ってしまう。しかし、リハビリに成功し、音楽に新たな情熱を持ち込み、再び世界に向けて演奏し始めた。

だが、1990年8月27日、ヘリコプター事故により帰らぬ人となってしまった。道半ば、35歳にしてテキサス・ハリケーンは伝説のギタリストとなり、後世に伝え語られテキサス・ブルースを永遠のものにしていくことであろう。

スティーヴィー・レイ・ヴォーンという実力と才能、情熱に溢れた男でさえ、デビューするまでに10年以上経っている。もしかしたら、先に触れた人脈が運悪くうまく繋がっていかなかったら、スティーヴィーはずっとテキサスで埋もれていたのかもしれない。そんなことを思うと、時代背景、人脈に運とタイミング、それを探し求める才能は、昔も今も世界のどこかに埋もれていることであろう。

2019.08.27
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  YouTube / Stevie Ray Vaughan
 

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