クイーンの『ハンガリアン・ラプソディ・ライヴ・イン・ブダペスト'86 爆音上映会』をZEPP Diver Cityで見てきた。クイーン最後のワールドツアーとなった86年のこのライヴ(日本には85年に別タイトルのツアーで来たのが最後)、何よりも驚愕したのは衣装のダサさ。特に黄色いスウエットの上下(ラストは昔の小学生男子のような短パンになる)のジョン・ディーコン。40歳のフレディは頑張っているものの、ロジャーもブライアンもラフ。王子様の魔法よいずこ…。
70年代後半に10代女子のハートを奪ったクイーンがそもそもこんな世界的なバンドになるとはまったく思わなかった。当時クイーンはミーハーが聴く音楽で、先輩からは「そんなもん聴く暇があったらツェッペリンかパープルを聴け」と怒られる始末。ミュージックライフ誌は一推ししていたものの、「イギリスのメディアからはしょんべん桶と叩かれている」という記述をはっきり覚えている。
なんなんだしょんべん桶って。グラムの残りかすにハードロックをまぶした前時代の遺物として世界中から酷評されていたらしいが、ベイシティローラーズ(BCR)のおかげで洋楽リスナーが多かった日本の中高生女子には熱く迎えられた。と同時にBCRの人気も2年ももたずに終わってしまったので、どうせその程度だろうという空気も漂っていた。
中1の秋からビートルズ・ファンの名乗りを上げていた私にとってBCRは “バカにしながらこっそり聴くもの”。ビートルズの新曲はもはや望めない。ラジオから流れてくる数々の “新曲” で私をもっともとらえたのはクイーンだった。中2の1月、お年玉で買ってきた『オペラ座の夜』と『華麗なるレース』。リリース順に聴くべく『オペラ座の夜』に針を落とし、1曲目「デス・オン・トゥ・レッグス」のイントロが始まってからA面最後の「シーサイド・ランデヴー」が終わるまでスピーカーの前を一歩も動かなかった。
初めてリアルタイムで買ったアルバムは『世界に捧ぐ』。少なくとも1ヶ月間はこれを聴くことが日課だった。1曲目の「ウィ・ウィル・ロック・ユー」はただただ異様な曲だった。後年スポーツの応援で多用される曲になるなんて、当時の私は絶対に信じない。
部活と受験に阻まれてなかなかライブには行けず、やっと生で見ることができたのは82年の西武球場。アルバム『ホットスペース』のツアーだったが、ファンク色の濃いこのアルバムにがっかりしていた私は “あと5年早く生まれていたら…” と歯噛みをした。フレディがバラの花を撒いたのを見て、アリーナ前方で見られるようにならにゃいかん、とも思った。
91年11月のフレディの訃報は、何かのライブ終わりに日清パワーステーションで聞いたことをぼんやりと覚えている。享年45。デビュー時は27歳と遅咲きで、今年は生誕70周年。正直言って中学生の頃は “なんでいちばん不細工がボーカルなんだ” と思っていた(これはスピッツの草野マサムネも同意見)。
白いひらひらの衣装に身を包んだ王子様軍団の中で、私はロジャー・テイラーのファンだった。金髪で丸い目のファニーフェイス。ミュージックライフ誌にブロンディのデボラ・ハリーとのキス写真が載ったときは本気でショックを受けた。全員が博士号を持つインテリバンド。暖炉の廃材で作ったギター。No Synthesizer(シンセサイザーは使っていない)のクレジット。
86年のクイーンはまごうことなきビッグバンドで、その一方では少し虚ろなようにも見えた。私が夢中になったクイーンはそこにいなかった。でも今こうして文字にしていると、やはり疼くものがある。全身で音楽を聴いていた40年前の自分に、謝らなければならないことがたくさんあるような気がしてくる。
2016.09.23
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