あなた、抱いてよ。うん… 抱いて。
のっけから熟女の身悶えるような声である。しかもかなり強い情念にかられている。
これはジョン・レノンの遺作『ダブル・ファンタジー』(1980年)をレンタル店で借り、何も考えずに「スターティング・オーヴァー」を聴き終わった直後に起こった事件である。
あまり音楽に興味が無い少年でもジョン・レノンが射殺されたことは大きな事件だった。世界が悲鳴をあげてひっくり返ったように感じたものだ。そんな流れでレコードを手に入れて聴いていたのだから、凡庸な少年にとって二曲目のヨーコの曲は出会いがしらの事故と言っても良かった。
キス、キス、キス、キス・ミー・ラブ。
抱いて。
ジャスト・ワン・キス。キス・ウィル・ドゥ。
抱いて… 抱いて。
少年のようなハイトーンヴォイスと大人の女の甘い声が交互にやってくる。あの夜、僕は聴いてはいけないものを聴いたような気がした。トラウマと言っても良い。ジョンの死などすべて吹き飛んでしまっていた。
取りあえず、できるだけ他人に聴かれない状況で聴かなければならない。ヘッドフォンで聴きたいのはやまやまだが、「何を聴いてるの?」などと家族の興味をひいてはいけない。よって、こっそりとイヤフォンで聴く。
ねぇ、ねぇ、あなた、抱いて…
ヨーコが「抱いて」と囁く度に白粉(おしろい)の甘い匂いがし、まるで聴覚と嗅覚が逆転してしまったのかのようだ。しかし、よこしまな気持ちで擦り切れるほど何度も聞いている内に気付かされる。
心のひだに絡みつく感じ。
そう、この曲の持つ強い意志に。
しばらく経ったある日、小学校の卒業アルバムを戸棚に片付けようとしたときに父の卒業写真を見つけた。父の写った集合写真の中に一人の少女の姿があった。
戦時中のはずだが上品な洋服姿。大きな眼が印象的である。他の子供たちとは明らかに育ちが違う。小野洋子という名前。その写真からはすでに彼女の抑えがたい感情と強い意思が発散されていた。
Kiss Kiss Kiss
作詞・作曲:Yoko Ono
2016.03.01
YouTube / Same Sky Lennon
Information