『中森明菜はなぜ今も愛される? ②初代ディレクター島田雄三が語るとっておきの話』からのつづき
音楽ディレクターとして中森明菜さんを担当した島田雄三さんと、明菜さんのファン3人との座談会。第3回目は、中森明菜さんのスターとしての才能について島田さんはどう考えていたのか? また、1985年にレコード大賞を受賞するまでにどのような戦略を設けていたのかを伺いました。
中森明菜のスターとしての才能
さにー:明菜さんって、見てる側からしたら本当に完璧に見えるというか。すごくプロ意識が高くてパフォーマンスも素晴らしく見えるのですが、どこまでが元々明菜さんの持っていた才能の部分で、どこからがご本人が努力して培った部分なのかっていうのをお聞きしたいです。
島田:彼女ね、必ずしも勤勉家じゃないんですよ。むしろその逆で、結構実は怠け者なんですよ。だから、どこまでどれだけ努力してたのかっていうのはわからないですね。明菜のお母さんは多分それを見抜いていて、ある時に僕にこう言ってました。
「島田さんお願いだから、島田さんがいなくなっちゃうとこの子駄目になっちゃうから。島田さん、最後の最後まで明菜の面倒見て」
… って。そう言われたのを、僕は今でもはっきりと覚えている。自分の娘だから、長所も短所も含めて見抜いてたんでしょうね。
さにー:そうだったんですね。明菜さんには島田さんがいたからこそ、もともと持っていた才能をより増幅させることができた部分もきっとあったんですね。
島田:そういう要素もあったと思う。でも、僕自身が明菜に触発されて突き動かされた部分は大きかったと思います。やっぱり、スターだったんでしょうね。本人が発するエネルギーっていうのは凄いですよ。それは僕みたいな気が強いおじさんですら圧倒されちゃうぐらい、すごいものを持っています。でも、本当に圧倒されちゃったらダメだから、僕はその圧力に負けずに対応しないといけない。
彩:やはり中森明菜という方は、スターになるべくして生まれてきた方だと思いますか。
島田:そうかもしれません。でも、どこにいても、どういう形でも、スターになっていたのかどうかはわかりませんね。やっぱり明菜は、いい人に囲まれてたんですよ。いいスタッフがいてくれたからこそ、というところはあると思います。果たして、僕やスタッフと話したいろんなことが今も本人の中に残っているかどうかはわからないけれど、本当にいろんなことを話しましたよ。やっぱりいいスタッフと出会ったってことは、とてもラッキーだったんでしょうね。
「ミ・アモーレ」でレコード大賞、その裏側
かなえ氏:明菜さんは85年に「ミ・アモーレ」、86年に「DESIRE -情熱-」で2年連続レコード大賞を獲りましたが、島田さんの中で「この子はきっと獲るぞ」という予感とか、予期していたものはありましたか。
島田:「ミ・アモーレ」は、僕が関わった最後の楽曲でした。あれは明菜にとって4年目となる1985年の3月発売でしたが、その前の3年目のスタートとなる1984年1月1日発売の楽曲「北ウイング」から、実は大きく流れを変えたんですよ。女の子の表と裏をずっとやってきた流れから、3年目どうしようかなと思っている間に、林哲司さんと康珍化さんが素晴らしい楽曲と素晴らしい詞を作ってくれた。それで、「世界に羽ばたく明菜」っていうコンセプトを3年目に作ったんです。
だから「サザン・ウインド」が出てきたり、結果的に「ミ・アモーレ」のところまでつながってくるわけですけど、その間にあえて「十戒(1984)」をいれたり、「飾りじゃないのよ涙は」を入れたりとかもしました。実は、明菜にブルースとかタンゴもやらせようと考えていたんですよね。そしてサンバでは、大喧騒の中で明菜がポツリとひとりでいて、その喧噪とペーソス感っていうのを出したかった。それが「ミ・アモーレ」でした。
発売が3月だったにもかかわらず、制作している最中に自分の中で「これは行くぞ」という感覚があったんです。レコード大賞まではちょっと分かんないですよ、占い師じゃないから。でも、絶対これは年末まで行くぞ、という思いはありました。不思議なくらい、あの3年目から4年目の楽曲って、全部大ヒットなんですよ。自分で言うのもなんだけど、ある種神がかってるというか、何かが降りてきちゃったんですね。
かなえ氏:本当に「北ウイング」は中森明菜第2章の幕開け、みたいな感じがすごくありますね。初期の曲ももちろんいいんですけど、それ以降のシングルはオーケストラや歌唱力、どれをとっても本当に神がかってるなと思います。
島田:流れを変えてみて、それがみんなうまくいって、ものすごい大ヒットに次ぐ大ヒットみたいなことが起きて、本当の意味でスタンダードになるような楽曲が3年目で作れた。それは大きかったですね。だから1年目も2年目もおかげさまですごい売上になりましたが、3年目4年目の最後のひと押しが、やっぱり今日の中森明菜というのを作っている最大の核のような気もします。本当に奇跡的なくらいに、いい曲が作れましたね。
さにー:実は私、その84年に出た「十戒(1984)」を聴いて、明菜さんにドハマリしたんです。なんて楽曲、なんてパフォーマンスだ、と稲妻に打たれたかのような衝撃を受けました。
島田:あれは、同じものを作っていくという発想をしなかったからできた楽曲です。「世界に羽ばたく明菜」を作ったものの、全部それでずっと押していこうなんて気はなかったから、そろそろいいかなあというタイミングで、「十戒」を出した。もう本人、あんなに嫌がっていたはずあの手のアグレッシブな歌をあんなにノリノリで踊って(笑)。ものすごいノリですよ、あの歌は。
「飾りじゃないのよ涙は」の衝撃
島田:しかも「十戒」の次が「飾りじゃないのよ涙は」ですから。僕はこの曲に、すごく驚かされました。だって最初出てきた時には、悪いけど「シンガーソングライターの理屈っぽいところが出ちゃったな」って思ったんですから。井上陽水さん、大好きで尊敬できる大アーティストだけど、シンガーソングライターってどうしても曲が理屈っぽくなるんですよ。
彩:その人の色みたいな。
島田:そう。なんというか、押し付けがましいんですよ。でも、恐らく陽水さんもなにか感じていたんでしょうね。オケ録りをしてるときに、陽水さんが突然現れたんですよ。僕、事務所に教えた覚えもなかったんだけど。
しばらく聴いてたら、陽水さんが「ちょっと仮歌がイメージ違うんで、僕に歌わせてくれませんか」って言うから、「そりゃいいですけど、キー違いますよ?」っていったら、「このぐらい全然大丈夫だから」って言って、「飾りじゃないのよ涙は」をスタジオに入ってミュージシャンと一緒に歌ってくれたんです。そしたらもうアレンジャーからミュージシャンからもう、われわれ全員ひっくり返っちゃうくらいその歌唱に衝撃をうけて、「何が理屈っぽいんだよバカヤロー!」ってぐらいに、こんなにすごい歌はない、と思いました。「少女A」以来の鳥肌ですよ。何が何でもこの歌で行こうと思いましたね。
「飾りじゃないのよ涙は」はもう大スタンダード。おそらく僕がこの世からいなくなっても、明菜がいなくなっても、5年経っても10年経っても20年経っても、「飾りじゃないのよ涙は」は絶対残ってますよ。もちろん「スローモーション」も「少女A」も残ってるかもしれないけど、やっぱり「飾りじゃないのよ涙は」はすごい歌だった。そのすごい歌が「十戒」も含めてあの年に出てきて、翌年に「ミ・アモーレ」でレコード大賞。
レコード大賞には、僕は行かなかったんです。後輩に悪いから。そりゃもう嬉しかったですよ。やったと思いましたよ。でも、僕が出ていったら立場をなくすでしょう。僕はテレビで見ていました。
かなえ氏:送り出したような感じだったんですね。
島田:本人も涙ボロボロでお母さんも出てきて、もうそりゃその場に行きたかったですよ。そりゃ本人に「やったな! おめでとう!」って言ってあげたかったですよ。本当に。明菜は、いろんなドラマを作ってくれましたよ。
■ まとめ
音楽ディレクター・島田雄三さんとの座談会を全3回にわたってお届けいたしました。緊張気味の3人に対して、島田雄三さんは終始冗談交じりで楽しくお話をしてくださったこと、そして最初から最後まで、明菜さんのことを自分の子のことを語るような愛情に満ちた表情でお話されていたことがとても印象的です。
スターが多くの人の人生を変えていく、まさにその当事者として奔走した島田雄三さん。そんな島田さんを含めた明菜さんの楽曲制作陣による証言集『オマージュ〈賛歌〉 to 中森明菜』が近日発売されます。こちらもぜひチェックを。
島田さん、この度は本当にありがとうございました!
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2022.12.19