2023年 7月26日

【鈴木蘭々 最新インタビュー】① 世の中すべてみんな 全部ウソツキ!疾風怒濤の90年代

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鈴木蘭々のアルバム「All Time Best Yesterday & Today」発売日
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1988年に芸能界入りし、CMやドラマ、バラエティ番組で大活躍。1995年に筒美京平作曲の「泣かないぞェ」で歌手デビューを果たした鈴木蘭々の芸能活動35周年を記念した『All Time Best Yesterday & Today』が7月26日にリリースされた。本人監修による初のベストアルバムで、既発シングル7曲に加え、近年リリースした配信楽曲や、歌手デビュー時に関係者のみに配布されたプロモーションCDに収められたレア音源、さらに筒美京平から提供された曲など新録音源3曲を含む全16曲で構成されている。

現在、化粧品の開発・販売を行う会社の社長を務める鈴木は長らく音楽から遠ざかっていたが、ひょんなことから活動を再開。2018年以降、新曲の配信やライブなどを着実に重ねてきた。2021年に配信を開始した「Just Do it, Do it over」のSpotify再生回数が200万回を突破、1998年のシングル曲「キミとボク」(フジテレビ系『ポンキッキーズ』エンディングテーマ)のアナログ盤が発売されるなど、歌手・鈴木蘭々への注目が高まるなかで行なわれた今回のインタビュー。前篇は活動再開の経緯と、疾風怒濤の90年代について話を聞いた。

鈴木蘭々、音楽活動を再開。そのきっかけは?


――『All Time Best Yesterday & Today』の発売、おめでとうございます!

鈴木蘭々(以下、鈴木):ありがとうございます。実を言うと、個人で歌うことなど、もうないだろうと思っていたのですが、ここ5〜6年の間に、かつてお世話になった方たちとのご縁が次々と繋がりまして。それがなければ音楽活動を再開することも、このようなアルバムをリリースすることもなかったでしょうから、私にとっては奇跡のような出来事です(笑)。



―― キャリアを振り返ると、2001年にLANLAN名義でシングル「Be With You」をリリース。そこから2018年の活動再開まで17年のブランクがあります。その間、「いつかまた機会があれば」とは思っていなかったのでしょうか。

鈴木:想像もしていませんでした。特にメジャーレーベルの場合、ヒットを出さないと活動を続けていけないという現実問題があるじゃないですか。そういう意味で私は数字を残せなかったので、ミュージカルとか舞台で歌うことはあっても、鈴木蘭々単独で歌う機会は二度と訪れないだろうと思っていたんです。

―― そんな蘭々さんの気持ちを動かしたのが、かつて音楽活動をともにした方たちだったわけですね。

鈴木:そうなんです。2017年だったかな? 『ポンキッキーズ』の作家だった舘川(範雄)さんから、「キミとボク」が大好きだとおっしゃるベーシスト&プロデューサーの立川(智也)さんを紹介されて。その後、立川さんのライブにゲスト出演したりするなかで新曲の話が持ち上がり、「迷宮輪舞曲」という曲を作りました。

―― 作曲・編曲が立川さんで、作詞は蘭々さん。2018年リリースの立川さんのアルバムに収録されて、翌年から配信も開始されました。2018年の11月には東京・渋谷のJZ Bratで、芸能生活30周年ライブ『SINGER SONG LAN LAN』も開催されています。

鈴木:そのライブにavex時代のディレクター・恩田(康彦)さんと、マネージャーだった衣川(悟)さんが来てくださって。お二人は2013年に開催した演劇ライブもお忍びで観ていたらしいのですが、このときは終演後、お客様全員と握手をしたので、来場が判明したという(笑)。その後、久しぶりに食事をしたら、当時、現場で盛り上がりながらも大人の事情でお蔵入りになった楽曲を二人ともいまだに大好きで聴いているって言うんです。それで「あのときの曲を出そうよ」という話になりまして。

―― それが2019年に配信を開始した「ビュリホー ビュリホー」でしょうか?

鈴木:ええ。2000年にヒットしたAQUAの「Cartoon Heroes」のカバーです。衣川さんは今、映像制作会社の社長で、インディーズレーベル(BOLSTAR MUSIC)もお持ちなので、そこから配信して、MVも制作しました。

―― 2019年8月に再びJZ Bratでライブを開催。そこで初披露した「Mother」は、かつて蘭々さんのプロデューサーだった川原伸司さん(作曲家名:平井夏美)が書き下ろした新曲でした。

鈴木:前年と同じようなライブになっちゃったらつまらないので、まず曲を増やそうと考えたんです。それで川原さんにお願いをしたら、ありがたいことに快諾してくださって。

―― 担当を離れて長い年月が流れても、蘭々さんの周りに人が集まってきて力を貸してくれる。お人柄の為せる業というか、一緒に何かをやりたい! と思わせる存在なのでしょうね。

鈴木:いや~、どうなんでしょう(笑)。皆さんには感謝の言葉しかありませんが、思いがけない展開に自分がいちばん驚いています。



2022年には「キミとボク」の7インチアナログ盤が発売


―― コロナ禍のため、しばらくライブは休止となりますが、2020年以降も「Mother」や「Just Do it, Do it over」を配信リリース。2022年には古巣のソニーから「キミとボク」の7インチアナログ盤が発売されました。

鈴木:自分でもよく分からない流れができてきて、ある日ソニーさんから「キミとボク」をレコードにしませんか? というお話をいただいたんです。思わず「誰が買うんですか?」って言ったんですけど(笑)、「今、アナログレコードの人気が再燃しているんです」と。それは既定のリクエスト数に達したら発売されるという企画だったのですが、ソニーさんによると史上最速で商品化が決定したそうで、そのことにも驚きました。

―― CDデビューの蘭々さんにとっては初のアナログ盤ですね。

鈴木:もちろん嬉しかったんですけど、それで終わるのではなく、できれば次に繋げたいなと思いました。数年間インディーズで活動して、配信数とかからおおよその数字の上限が分かるようになっていましたから、このままでは手弁当で参加してくださっている皆さんに申し訳ないなと。みんなが「関わってよかった」と喜び合える道を開くにはどうしたらいいだろうと思って川原さんに相談したら、ソニーと話をしてくださって、今回の『All Time Best』が実現したんです。私は当初「ソニーで何曲か作れたら…」くらいの心づもりだったので、いきなりベストアルバム、しかも新曲をそこに入れましょうという話になって、「人生、何が起きるか分からないな」と、不思議な感覚を味わいました。

芸能活動35周年、鈴木蘭々デビューのきっかけは?


―― その『All Time Best』は90年代に発表したシングルから7曲、近年配信リリースした作品が4曲、デビュー前に関係者のみに配られたCD『what’s up!!』から洋楽カバー2曲、そして新曲3曲+ボーナストラックの全16曲という構成です。芸能活動35周年記念とのことですが、芸能界入りは歌手デビューの7年前、1988年ということですね?

鈴木:はい、スカウトされてモデル事務所に所属した年が起点です。中学1年のときでした。

―― もともと芸能界を目指していたのでしょうか。

鈴木:松田聖子さんに憧れて、小学校の卒業文集には「アイドルになりたい」って書きました(笑)。当時のアイドルは必ず歌を歌っていましたから、そこから歌手を志すようになって。家ではいつも聖子ちゃんやミポリンの歌を外に聴こえるくらいの大声で歌っていました。母からは「あなたに聖子ちゃんの歌は合わない」とダメ出しされていましたけど(笑)。

―― モデル事務所にスカウトされたきっかけは。

鈴木:オーディションだと参加費用がかかるので、どうしようかなと迷っていたら、たまたま手にしたオーディション雑誌に「原宿でスカウトされました」という人が掲載されていたんです。「これだ!」と思って原宿に行ったら、運よく声を掛けられて。何日か通ううちに20社ほど名刺が集まったので、その中から安心できそうな事務所を選びました。

―― 中1とは思えぬ行動力と判断力(笑)。その後の活動は順調でしたか。

鈴木:全然(笑)。その事務所に入る条件が「ミスチャンピオン」というコンテストで入賞することで、準グランプリの私は『週刊少年チャンピオン』の巻頭グラビアに載せていただいたんですけど、その後のオーディションは落ちまくりで。当時の私はたとえば “森の妖精” とか、自分で決めたテーマに合う、コスプレのような恰好でオーディションを受けていたので、今思うと落ちるのは当然なんですけどね(笑)。

―― でも腐らなかった。

鈴木:ラッキーだったのは強烈に変わっている監督さんたちに好かれたことです(笑)。初めて合格したのは資生堂のティーン向け商品のCMだったのですが、その監督さんは業界で有名な演出家で、賞もたくさん獲られていて。その方に気に入られて、ずいぶん長いこと使っていただきました。それからもう1人、別の監督さんにもマクドナルドやソニーのディスクマンのCMなどで、たびたびお世話になって。

―― お二人とも強烈な個性を持ったクリエイターだったと。

鈴木:そうです。ディスクマンのCMは『ザ・テレビジョン』(KADOKAWA)の「今話題のCM少女」というコーナーで紹介されたのですが、その小さな記事に目を留めた方がいて、私に転機が訪れました。

―― どういうことでしょう。

鈴木:その方はある芸能事務所から独立されたばかりで、女性タレントを探していたらしいんです。それまで男性しか担当したことがなかったので、これからは女性をマネジメントしたいと。で、その記事の切り抜きを持ち歩いていて、あるとき友人にそれを見せたら、その友人が私の通っていた中学の後輩のお父さんだったという。

―― なんたる偶然!

鈴木:でしょう?(笑)。そんなご縁もあって熱心に口説かれまして、ものすごく悩んだ末、ミナクル・カンパニーという芸能事務所に移籍することを決めたんです。お世話になったモデル事務所には申し訳なかったんですけれども、新しい事務所の社長さんは個性を尊重してくれるような気がして。実際、移籍後は「僕は女の子のことは分からないから」と言って、髪形もファッションも自由にさせてくれました。

―― それはいつ頃のことでしょう。

鈴木:1993年だったと思います。最初はオフィスもなくて、社長と私の二人三脚。やがてローソンのCMや『ポンキッキーズ』への出演が決まり、休む間もなく忙しくなりました。社長は「歌をやりたい」という私の意向も汲んでくれて、その合間を縫ってデモテープを吹き込んで。それが当時ダブル・オーレコードにいらっしゃった川原さんの耳にとまったらしく、歌手デビューが決定したわけです。



声に惚れ込んで、筒美京平に作曲を依頼


―― ダブル・オーレコードは1994年に設立されたソニー系列の新興レーベル。川原さんと大瀧詠一さんが取締役を務めていました。当時、筒美京平さんのマネジメントも担当されていた川原さんは蘭々さんの声に惚れ込んで、筒美さんに作曲を依頼。それだけの逸材だと確信していたことが分かります。デビュー曲「泣かないぞェ」(1995年8月)は作曲が筒美さんで、作詞は蘭々さん。アイドル系の新人がシングルA面の作詞を手がけるのは異例中の異例でした。

鈴木:私は芸能系の生徒が多い高校に通っていたのですが、デビューが近い同級生たちは事務所に詞を提出するのが課題になっていたんです。私自身は誰からも要請されていなかったんですけど(笑)、彼らを真似て自主的に書いていました。でも、なぜデビュー時から詞を書くことになったかは分かりません。

―― 川原さんによると、筒美さんも蘭々さんのことを気に入って、相当力を入れていたとか。「泣かないぞェ」は曲先(あとから詞をはめる手法)ですよね?

鈴木:そうです。初めてメロディを聴いたとき、丘を一生懸命登っているイメージが浮かんだので、そこから詞を書きました。

―― 自分を鼓舞するような内容なのは、そのためですね。「世の中すべてみんな 全部ウソツキ」は強烈なフレーズでした。

鈴木:そこは当時のディレクターさんから「ネガティブすぎない?」って言われたんですけど、「本当にそうだと思っているから、絶対に変えたくない」と。

「泣かないぞェ」に込められた鈴木蘭々の人生観


―― 当時19歳の蘭々さんにそう思わせる何かがそれまでの人生にあったのでしょうか。

鈴木:私には兄が2人いるのですが、1993年に若くして亡くなった8歳上の兄が影響しているかもしれません。兄は生まれつき身体が弱くて、軽度の障がいがあったのですが、障がい者を取り巻く社会って、身内にしか分からない世界があるんですよ。人の優しささえも偽善に思えることがあるし、見えてる世界が独特なんですよね。表面的には理解があるような感じの人でも、裏では全く違うことを言ってるとか、そういう体験を子供の頃からしていましたので、それが全部あのフレーズに詰まっていたんだと思います。

2番の「うちのママ ずっと見てれば どんな事がおこっても パンチでいける!」という歌詞も障がい者を育てる親の大変さを知っていたからでした。今よりも守られていない時代だったし、そういう母親の姿を見て感じたことも反映されているというか。

―― そうだったんですね…。ということは、歌詞はほぼそのまま採用されたということでしょうか。

鈴木:サビの「泣かないぞェ」の「ェ」は当初ありませんでした。最初は「泣かないぞ 泣かないぞ」だったんですけど、レコーディングで歌い終えてブースから出てきたら、譜面に小さく「ェ」って書き加えられていて。びっくりして「えっ、誰が書いたの?」って訊いたら、筒美さんだったという(笑)。まだ10代だったし、正直「『ぞェ』ってなんだよ!」って思ったのですが、とりあえず歌ってみたらハマりがよかったんですよね。



―― 私は蘭々さんの新人離れした歌唱力とリズム感にも驚かされました。だからこそ筒美さんや川原さんが惚れ込んだのだと思いますが、本格的なボイストレーニングを受けていたのでしょうか。

鈴木:歌を習ったのは、小学2年から5年まで、少年少女合唱団でソプラノを担当していたときと、高校時代、デビューが決まっている同級生にボイトレの先生を紹介してもらって、少しだけレッスンを受けたくらいです。

―― では天賦の才ということですね。

鈴木:うちの家族はみんな歌好きで、そこそこ上手いんですよね。祖母は民謡をやっていたし、母親は絵描きなんですが、越路吹雪さんの歌とかを好んでよく歌っていました。



筒美京平の立ち会いで完成したファーストアルバム「Bottomless Witch」


―― 話をデビュー当時の制作に戻します。筒美さんはセカンドシングルの「なんで なんで ナンデ?」(1996年1月)も提供、ファーストアルバム『Bottomless Witch』(1996年3月)はカバーを含めて全曲が筒美作品になるなど、初期のメインライターとなります。当時、レコーディングに立ち会うことは稀だったようですが、蘭々さんのスタジオには頻繁に顔を出されていたとか。

鈴木:それが珍しいことだったというのはあとになって知ったんですけど、なぜか普通に来られていました。歌詞を一緒に考えることもありましたし、ちょっとバトったことも(笑)。「ここが気になる」みたいなことを言われて、「でも自分はこれがいいんです」「歌ったら分かるから聴いてください」って言って歌ったら、「だんだん耳が慣れてきて、気にならなくなってきた」って言われたこともありました(笑)。

インタビュー後篇【鈴木蘭々 最新インタビュー】② 座右の銘は「負けないぞェ」底力くんに会うために!につづく

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