8月20日

ヴァネッサ・ウィリアムス、生まれ持った美貌と背負わされた運命の旅路

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ヴァネッサ・ウィリアムスのセカンドアルバム「コンフォート・ゾーン」がリリースされた日
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日本人と人種問題の距離感


我々日本人は “ほぼ” 単一民族で構成されているせいか、“異質なもの” に触れたとき、どこで生まれたとか、気質がどうだとか、むしろわかりにくい部分を気にする傾向がある。その分人種差別の問題には疎く、識者とされる方であっても、不用意にメディアで発言したことで、しばしば炎上騒ぎを起こしてしまう。

諸事情により今や廃版となった童話の「ちびくろ・さんぼ」や、おもちゃの「ダッコちゃん」に触れて育った我々は、欧米では “アウト” なことも「えっ、何がいけないの?」と思ってしまうことがあるのだ。

近年のグローバリゼーションから対応を迫られると、安易に “黒人” という言葉すら使えず、おそるおそる “アフリカ系〇〇人” という言葉に置き換えてみるようになった。時に最近、日本人の中でもスポーツ界で目覚ましい活躍を見せる一部のアスリートたちに対しても、我々も意識を変える必要があるのだが、陸上競技のサニブラウン、バスケットボール(NBA)の八村塁というならまだしも、ラグビーの松島幸太朗やテニスの大坂なおみ… と、純和風の名前でいわれると彼らの風貌を咄嗟にイメージすることができないことがある。こちらのグローバル化の方はまだまだである。

黒人初のミス・アメリカ、ヴァネッサ・ウィリアムス


あえて当時の言葉で言わせていただくと、黒人初のアメリカ大統領はバラク・オバマであった。スポーツ界ならメジャーリーガーのジャッキー・ロビンソン。ゴルフのタイガー・ウッズならいくつもの “黒人初” の快挙を達成しているだろう。だがなぜか今だにこの称号が有効だという現実に何となく違和感を覚えてしまう。一体アメリカ社会には、あとどれぐらいの “黒人初” が隠れているのだろう。やはり我々は、それがどれほど重みがあることなのかの実感を持ち合わせていない。

思えば35年前、ある新たな黒人初の快挙が成された時も同じであった。1983年9月、ニューヨーク出身の女子大生ヴァネッサ・ウィリアムスが、黒人初のミス・アメリカに選出されたというニュースが、世界中を駆け巡った。自由の国アメリカといえどアフリカ系やヒスパニック系、アジア系などに対する差別が根強い保守的な側面を持っていることは、歴史が示す通りである。まして1920年代から続いているという伝統的なイベントで、WASP(White Anglo-Saxon Protestant)以外の優勝者が出たことは、社会的にも大きなインパクトがあった。

もちろんショービジネスやファッションの世界では、既に多くのアフリカ系の女優やモデルたちが当然のように活躍していたし、その中では美しいと言われてきた人たちは大勢いたはずだが、人種を超えてすべてのアメリカ女性の中で最も美しいという女性になるわけだから、それはもうアメリカ人の価値観の変化を意味していることになる。もっともミス〇〇〇というのは、あくまでその人は選ばれる立場に過ぎず、彼女自身がどうというより、選んだ人たちがより進歩的であったという事になるのだが…。

ただ写真で見る彼女を見て、少なからず納得したのは、彼女の容姿が我々が考える典型的なアフリカ系女性とは少し違っていたことだった。鼻筋はマイケル・ジャクソンならば直す必要がなかったぐらい、額からの鼻筋が通っていて、何より瞳の色がブルーともグレーともつかないような神秘的な色をしていた。専門家によれば遺伝的にそういう人はまれにいるということだが、彼女の場合は、それほど色濃くない褐色の肌色と相まって、そのギャップが一層美しさを際立たせているように思えた。人種的な壁を超越して美しいとは、きっとこういう事なのだろうと感慨深く見た覚えがある。

後年、彼女は一般に販売される DNA検査キットの商品 PR の一環として、自らの検査データを公表した。それによると彼女の DNA の約4割にヨーロッパ系の血筋が含まれているという。彼女の知る限り数代に亘って思い当たる人物はないという話ではあるが、それが彼女の容姿に影響を与えた可能性の一つかもしれない。

先駆者ゆえの試練と栄誉はく奪のスキャンダル


彼女は一躍、時代の寵児となり、それから約10か月もの間、各地のイベントに出演して、ミス・アメリカとしての務めを果たし続けていた。彼女の肌の色に対する心無い反応は少なくなかったし、脅迫や嫌がらせにもあったが、その態度はまさに模範的なものであったという。

やがて任期があと2か月足らずという時に事件は起きた。男性誌『PENTHOUSE』より1984年9月号(7月売)に彼女のヌードが掲載される旨の事前通告があり、これに反応したミス・アメリカの運営団体は彼女に対し、72時間以内の辞任を促す圧力をかけたのである。写真は確かに彼女のものであったが、それは他の女性モデルのシルエットになるように、誰かはわからないように扱われるという約束で、コンテスト前年の1982年に撮影されたものであった。だが団体は彼女の立場を守るより、掲載が強行される現実を恐れ、権威と品格を保つ道を選んだ。

結局、彼女は緊急に辞任の会見を開き、団体からは準ミスの昇格が発表された。雑誌は予定通り発行され同誌史上最高の販売を記録したという。もちろん昨今の “文春砲” よろしく、出版社の行為に対する批判もあったが、撮影があくまで彼女の同意のもとに行われたことを盾にペントハウス側は、「これは知らせるべき事実」であるとし、その正当性を訴えた。ヴァネッサは撮影時の経緯を明らかにし、この下衆なカメラマンと、出版社を相手取り訴訟を起こすが、世間から更なる非難にさらされた彼女は翌年、過去と決別するため訴えを取り下げる決断をする。こうして “黒人初” のミス・アメリカは幻と消え、誰もがショービズ界における彼女のキャリアは終わったと思った。

センセーショナルだったヴァネッサのカムバック


いわゆるグラビア無修正版の男性誌の日本国内への持込みは、ご法度ながら当時、海外旅行の手土産として利用されたものである… という話は“あくまで知人から聞いた話”である(笑)。同様にお馴染みの男性誌『PLAYBOY』にも、例の写真の掲載が持ち掛けられたというが、彼女の将来を思った創業者のヒュー・ヘフナー氏は、その話を断ったことを明らかにした。もちろんスキャンダルは彼女の将来に少なからずダメージを与えたが、同時に彼女のことを忘れがたい存在にもしていた。

音楽教師を務めていた両親のもとで育った彼女は、元々シンガーソングライターを目指しており、コンテストでもその歌声を披露して以来、研鑽を重ねながらデビューの機会をうかがっていた。そして事実上のタイトル剥奪から間もなく4年という1988年6月、スタジオアルバム『ライト・スタッフ』をリリースする。タイトル曲はヒップホップ色が強いダンサブルなナンバーで、R&Bチャートを席巻。サードシングルの美しいバラード「ドリーミン」はビルボードHOT100で8位まで上昇。華々しいデビューを飾り、翌年のグラミー賞では新人部門にノミネートされる成功を収めた。

その後の彼女の動静を知る術もなかった我々は、MTV で彼女が歌う姿を目にして「ヴァネッサ・ウィリアムスって、あの?」と目を疑い、そしてよくぞここまで… と彼女の鮮やかな表舞台への復帰を、賞賛せずにはいられなかった。

彼女の歩みを彷彿とさせる名曲「セイヴ・ザ・ベスト・フォー・ラスト」


以前たまたまヴァネッサと学生時代に同級生だったという人から話を聞く機会があった。敬虔なカトリックの教育者の家庭で育ったヴァネッサは、音楽の才能もさることながら学業成績も優秀で、当然ながら魅力的な瞳が印象的な美人として評判だったが、真面目で、進んでミスコンに出るようなタイプの子ではなく、例のスキャンダル発覚の折も、とても信じられなかったという話だった。

確かに彼女は過去のインタビューの中で、例の撮影も学費やレッスンのためのアルバイトのつもりだったし、ミスに応募したのも大学の奨学金を得るためであったことを語っている。1991年リリースのセカンドアルバム『コンフォート・ゾーン』は、そんな彼女の苦難に報いるような成功をもたらすことになる。

代表曲ともいえるアルバムからのセカンドシングル「セイヴ・ザ・ベスト・フォー・ラスト」は、日本でもシオノギ製薬のCMにも起用されたお馴染みの曲だ。ビルボードHOT100では5週連続で1位を獲得。1993年のグラミー賞の最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞の2部門にノミネートされるほどのヒットとなった。MTVで雪景色の中に立つ彼女が唄うこの曲は、冬の季節に相応しい温かみのあるバラードで、その内容は他の女性に心を奪われていた彼が、やがて自分の元に帰ってくるというストーリーが歌われている。「一番素敵なものを最後に残しておいてくれた」と唄われるこの曲は、まさしく彼女が歩んできた道をそのまま表しているようで、心に響く名曲である。

成功と名誉回復、スキャンダルを乗り越えたヴァネッサ・ウィリアムス


ミュージックシーンで成功し、夢をかなえたヴァネッサは、その後は女優としても数々の映画でヒロイン役を務めることになる。劇中歌を歌い、2000年代にかけてミュージカルの舞台やコメディーにも出演。トニー賞やエミー賞にもノミネートされるほど、活躍の領域を広げていった。また多くの人が知る過去のスキャンダルを克服して成功し、稀有な経験を持つ人物として彼女は大きな存在感を発揮している。

近年のリベンジポルノやクラウド画像の流出、パワハラなど人権やプライバシーに関わる問題が噴出すると、引き合いに出されることも多い。そんな中、2016年のミス・アメリカのページェントに審査員として招かれ、観衆の見守る中、運営団体の代表者は、かつて彼女に辞任を促した運営側の対応と、にも拘わらず、さも栄誉をはく奪されたかのような印象を与え続けていたことを公式に謝罪し、改めて1984年のミス・アメリカとして公認することを発表した。

彼女の長い回り道のストーリーは一見すると、タイトルはく奪などマイナスになっていないようにも思える。なぜなら、それがどういう形で奪われたとしても、その時彼女が全米No.1の美女だったという事は、ゆるぎない事実として人々の記憶に残ったからである。少なくともメジャーデビューの時に“あの”という言葉で思い起こされることが、どれほどプラスに働いたことだろう。

しかし思い直せば、それはあくまで彼女が自らのプラス思考で、ようやく克服してきた視点であって、当事者でもない我々が評することはできない。我々がセンシティブな問題に疎いのは、まさにそういう点なのだろう。1984年9月号の雑誌『PENTHOUSE』は、歴史に残る一冊となってしまった。だがそこにはもう一つのとてつもないスキャンダルが潜んでいたことを、当時は誰も気付かなかった。


つづく

2019.12.19
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  YouTube / VanessaWilliamsVEVO
 

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カタリベ
1965年生まれ
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