8月1日

松田聖子を発掘した若松宗雄が語る!運命のカセットテープと神メロディ「青い珊瑚礁」の秘密

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連載【ザ・プロデューサーズ】vol.1
若松宗雄 / 松田聖子

新たなステージへと移行した音楽の世界


「黄金の6年間」とは、1978年から83年に至る6年間である。

その時代―― 音楽・テレビ・映画・広告・出版等々、あらゆるエンタメの分野の境界線が曖昧になり、そんなクロスオーバーから新しい才能が次々に生まれた。メインステージである東京は、最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった。

『ザ・プロデューサーズ』―― これは、そんな6年間を駆け抜けた、時代の証言者たちの物語である。新しいスターが生まれる時、そのバックステージにこそ、真のドラマがある。当時、プロデューサーたちは何を考え、仕掛けたのか。その軌跡を辿ることは、決して昔話ではない。

今、音楽の世界は “サブスク” なる新たなステージへと移行し、人々はあらゆる時代の音楽に等距離でアクセスできるようになった。音楽は、時間という制約から解放され、自由を手に入れた。もはや “懐メロ” は死語である。

80年代アイドルの象徴、松田聖子をプロデュースした若松宗雄


さて、記念すべき『ザ・プロデューサーズ』第1回は、80年代アイドルの象徴、松田聖子さんをプロデュースした、CBS・ソニー(当時)の若松宗雄さんを取り上げる。稀代のアイドルは、いかにして誕生したのか。その貴重な証言を、前・後編の2回に渡ってお届けする。まずは前編―― 福岡・久留米の高校2年生、蒲池法子が若松さんに見つかり、デビュー1年目に花開くまでのバックステージである。

なお、本記事はSpotifyのポッドキャストで独占配信された「Re:mind80’s 黄金の6年間 1978-1983」を編集したものである(聞き手:太田秀樹 / 構成:指南役)。



いくら探しても、こんな凄い声を出せるコはいないから


―― 松田聖子さんのカセットテープを最初に聞かれたのは、いつですか。

1978年… ですかね。当時、私は体調があまりすぐれなくて、仕事も今ひとつイメージが湧かなくて、そうだ、今度全国大会(CBS・ソニーと集英社主催のミス・セブンティーンコンテスト)があるから、地区大会の音源でも聴いておこうかって。まぁ、積極的に聴こうと思ったんじゃなくて……

――何となく?

そう。大体1フレーズ、一声聴けば分かるので。当時はカセットテープだったので、どんどん早送りして、こりゃよくないなとか、どんどん送って。その中で、福岡(九州地区大会)や北海道は、比較的スターが出やすいとか言われてて、福岡のテープを聞くときは、少し期待しながら聴いたんですけど、まあ、彼女の声を聞いたときはショックでしたね。

―― ショック?

歌っていうのは、素人の場合は上手いかどうかが基準になるんですけど、プロの場合は、やっぱり聴く人にどう伝わるか… なんです。彼女の歌はストレートで、強くて、伸びやかで、聴きやすくて、ピュアな感じで、「えーこんな風に歌うコいるんだ」って。そりゃ、そこ(地区大会本選)に残った人たちは、みんな上手いですよ。でもね、一番大事なのは人間の生理的な部分。そういうところで、ショックを受けました。

―― インパクトありましたか?

もう、凄いですよ。それでね、ソニーの他のプロデューサーやディレクターにも、このコいいと思うんだけど、聴いてくれる?って、みんなに聴いてもらったんだけど、「まぁ、いいかもしれないね~」くらいの反応でした。

―― そうでもなかったと。

「凄い」と言った人は1人もいなかった。それで、オーディションのスタッフに、「俺、このコ、気に入ってるんだけど、どんなコ?」って聞いたの。その時は写真もなく、プロフィールもなく。そしたら「うん、可愛いよ」と。凄くいい、という感じではなくて。ただ、「いいコだけど、学校とか家族が反対してるから難しいですよ」と、割とあっさり。

―― ちょっと意外ですね。

私1人ですよ、ショックを受けたのは。声がパーと張り裂けた感じの声質。やっぱり大事なのは、ストレートに叫ぶ。それが歌の生理的な原点だから。そこが一番すごいと思った。

―― それでスカウトしようと。

だから、こんなコは滅多にいないから、もう何が何でも突き進みたいなっていう、そこから一途になりましたね。声だけです。いくら探しても、こんな凄い声を出せるコはいないから。

誰に聴いてもらえるか… ここが運命の分かれ目


―― それで久留米に?

久留米じゃなくて、まずはCBS・ソニーの福岡営業所に。本人に電話をして、かくかくこういうものなんだけれども、近々、ぜひお会いしたいんで、福岡の営業所まで来てくれますかって。そしたら向こうは二つ返事で、ハイハイわかりましたみたいな感じでね。それで、福岡の営業所で初めてお会いして、お母さんと一緒に来られてて。一目見て、品はいいし、清楚な感じだし、可愛いし。ああ、このコは絶対いけるんじゃないかと、思いを更に強くしました。

―― その前に写真は当然。

いや、写真も見ないで、会うまで、どんなコか全然わからず(笑)。紺のワンピースを着ていて、可愛かったですよ。オーディションのスタッフの「うん、可愛いよ」があったので、まぁ大丈夫だろうと信じて。

―― そこでいろいろ話を。

私は制作部の責任者なので、その場でデビューさせたいと、はっきり意思表示をしました。向こうは、もう興奮して喜んでいる。そのうち、営業に出ていたスタッフたちがみんな帰って来て、事務所はオーディオ設備とか全部あったから、そこで、当時は本名の蒲池法子だから「法子ちゃん、なんか歌ってくれる?」ってお願いして、2、3曲くらい、スタッフたちの前で歌ってもらって。もちろん、未完成な部分はたくさんあるんだけど、それよりもメッセージの強さと、ピュアな感じと、歌のテイスト。これは図抜けてたね。

―― 若松さんが見つけなかったら、埋もれていた?

彼女、このコンテストに出る前も、いくつかオーディションを受けていたようですね。でも、ことごとく上手くいかなかったみたい。だから、やっぱり聴く人、審査員との相性ですね。誰に聴いてもらえるか… ここが運命の分かれ目ですよ。



とにかくお父さんを説得してほしい


―― でも、お父さんは反対だった。

大反対。私なんか電話で怒鳴られてね。もう、電話しちゃダメ!ダメなものはダメ!って、取り付く島もない。まぁ公務員の方だったから、余計ね。1 + 1は2!みたいな厳格な方だったので、大変でした。

―― どうやって口説いたのですか?

当時、聖子本人から、しょっちゅう手紙が来るわけです。「とにかく歌手になりたい。一生懸命やります」って。その文字を見ても、相当思いを強くして書いたのが分かる。それで、何度かやり取りするうち、これはお父さんを説得しないと話が進まないなと思い、一度聖子を東京に呼んだんです。とにかくお父さんを説得してほしいと。そこから聖子自身も開き直ったんじゃないですかね。そんなところから、段々とお父さんの考え方も変わっていった。

―― お父さんが軟化した?

多分、「お父さんが反対するんだったら、私はもう家出します」みたいな、そんなやりとりもあったんじゃないですか。決心っていうのか、そういうのは強いコだから。それで、お父さんも慌てふためいて、これはもう反対しきれないと思ったんでしょう。急遽、電話がかかってきて、会いたいから久留米まで来てくれないかと。それで飛んで行って、駅前のレストランに入って、2階の和風の個室に案内されて。お父さんとお母さんと聖子と、私の4人。そこで、お父さんから「いくら反対しても、本人は聞かない。だから私に預けるから、責任持って預かってほしい」と。

―― お母さんは、その時どんな感じ?

お母さんは、元々反対ではなかったね。できれば、娘の気持ちを叶えてあげたいと。かといって、お父さんが反対してるから、表立って娘の言うことを聞いてくださいとも言えない。だから、お母さんは、お父さんの気持ちを受け止めつつも、内心では何とかしてあげたいって思われていましたね。

急遽、プロダクションを探して1979年の夏に上京


―― そして上京ですか。

その時点では、高校を卒業したら、という話でした。まだ1年以上先の話です。しかし、5月くらいかな、お母さんから電話があって、風水じゃないけど、ある方に娘のことを相談したら、運がとても強い子だと。ただ、来年の春になると、運気が下がるから、行動するなら早いほうがいいと。それで、お母さんから、できれば早く上京させたい、と突然言われて。それで急遽、プロダクションを探して、いろいろ当たる中でサンミュージックに預かってもらうことになり、1979年の夏に上京させたんです。

―― プロダクションが決まるまでも大変だった。

大変でした。やっとお父さんに賛成してもらい、ひと山超えたと思ったら、今度はプロダクションという山が前に。ソニーもプロダクションあったんだけど、あまり強くなくて、やっぱり強いところに預けないと、と。それで、色々な方に声をかけたんだけど、「この子はいいね」って言う人はまずいなかった。いくら私が推薦しても、「うーん、ちょっと難しいんじゃないの」とか。ある人は、「若松さん、ああいう子は売れないんだよ。目がどうで、脚がどうで、こういうスタイルはアイドルとしては……」とかね。もう、きつく言われましたよ。

―― 今見ると、すごく可愛いのに。

結局、本人が潜在的に持ってる資質。そこを見抜けるか見抜けないかっていう話なんです。歌声一つでも、この人の性格はどうだとか、感受性が強いとか、僭越ですけど、私はなんとなく分かるんですね。聖子の場合、歌が上手か下手かで言ったら、芸大の方から見たら、まだ素人だし、特別うまくもないかもしれない。ただ、それは一つの見方でしかなくて、そういう表面的な部分よりも、やっぱり彼女が持ってる本質ですよね。

―― 本質?

デビューして、どんどん売れ始めた頃、ラジオやテレビのプロデューサーの方々から「若松さん、最近、聖子ちゃん、歌がうまくなったねー」とかよく言われて、「そうですか、ありがとうございます」って返してたんだけど、私は違うのね。というのは、自然か不自然かっていう部分で見てるから。一番はじめ、コンテストのテープを聴いたときは、もう本当に自然だったし、初めのころの歌も自然だった。ただ、そこから世の中の人が上手くなったね〜って言い始めたあたりは、私からすると、若干不自然なんです。

――不自然。

心まで着飾っちゃうと、やっぱり駄目なんです。売れた後も、心はいつまでも素朴さを保たないと。だから、私は今でもそうですけど、そういう基準で全部、判断するんですね。写真の選び方もそう。そうなると、大体本人は、私が選んだやつは気に食わないね。

――そうなんですね(笑)

曲も、これがいいんじゃないのって言うと、大体、着飾って、派手に見えて、自分が上手く歌える曲を歌いたいと言ってくる。でも、上手く聴こえる曲を歌って、派手に着飾って、ステージでいくら頑張っても、お客さんは半分くらいしか反応しない。それはもう当たり前なんですよ。

来年4月に俺がデビューさせるから


―― そして、1980年の4月1日にデビュー。これは若松さんの希望ですか?

79年の夏に聖子が上京して、それで毎週レッスンに通わせて、終わると近くの喫茶店であれこれ彼女と話してると、時々聖子の方から事務所(プロダクション)内の情報とかを話してくれるんですよ。どうも事務所は、来年秋くらいにデビューさせたいらしいですって。普通、新人は春デビューなんだけど、どうも、そこまで推されてないらしいと。それを聴いて私は、いや、ちゃんと来年4月に俺がデビューさせるからって。もちろん、サンミュージックの都合もあるだろうけど、こっちはこっちで、自分のセクションの責任者だから。それで私の一存で、半ば押し切る形で4月1日のデビューになったんです。

―― 事務所はそこまで期待してなかった。

そもそも、サンミュージック側としては、私がしつこく頼むから、半ば義理で預かったような形でした。「ソニーがしつこく言うから、ソニーとの関係もあるし、まぁ預かろうか」って。だから、最初のころはそこまで熱意はなかった。ただ、聖子をちょこちょこ、他の歌手のプロモーションとかに連れて歩くようになると、方々から「このコ、いいんじゃないの」と声をかけられるようになった。そのあたりから、サンミュージックも目が覚めたって感じじゃないですかね。

―― 事務所の期待値も上がった。

結構ね。もちろん、聖子本人の魅力だけど。それでサンミュージックもどんどん本気になってきて、色々なテレビ番組にプロモーションで出すようになって、中には、松田聖子という役名でドラマ出演が決まって、評判の輪もどんどん広がって、流れが加速していった感じですね。その勢いに乗って4月1日のデビューだから、当初は時期尚早と反対してた人たちも、その頃にはいなくなっていました。結果的に、私のイメージ通りに船出できたという感じです。



メロディーと言葉が一緒に出てきちゃった「青い珊瑚礁」


―― デビュー曲は「裸足の季節」。

実は初め、やっぱりデビュー曲なら、大御所の筒美京平さんだろうと思って、話に行ったんです。そしたら、いろいろご事情があったんだと思うんですけど、なかなか忙しくて、できないっていう。まぁ、今思えば、これが分かれ目だったね。あの時、京平さんの曲でやってたら、おそらく聖子はここまで音楽寄りになっていなかった。

―― その話、初めて聞きました。

結局、デビュー曲は作曲が小田裕一郎さん、作詞が三浦徳子さんと、比較的キャリアの浅い、若い2人になるんだけど、結果的にそれが功を奏して、以後、彼女のアイドル人生は、財津和夫さんだとか、大滝詠一さんだとか、ユーミンだとか、細野晴臣さんだとか、ニューミュージックの世界へ軸足を移していくんです。

――デビューの時点で、次の「青い珊瑚礁」は用意されていたんですか。

いえ、次はどうするか、全く決まってなかった。発売して、じゃあ次どうしようかとなって、たまたま映画を見てたら、ブルック・シールズの予告編がパッと出てきて、『青い珊瑚礁』。あぁ、このタイトルぴったりだと思って、それで小田裕一郎さんに、次は「青い珊瑚礁」ってタイトルで行きますからと話をしたら、「いいねー。じゃあ俺、ちょっとやってみるから」って、「♪あー私の恋はー」って、もうその場で、即興でやってくれて。だから、作詞は三浦徳子さんなんだけど、サビのあたりは小田さんが即興で歌った詞を尊重してるんですよ。

―― 面白いですね。

小田さん、タイトルからパッとイメージが沸いて、メロディーと言葉が一緒に出てきちゃったんだろうね。こういうふうにパッと出てきた言葉とかメロディーというのは、もう大体伝わるんですよ。それが、あの頭のインパクトです。



山口百恵「謝肉祭」に聖子の張り裂ける声質と同じ匂いを感じた


―― 編曲の大村雅朗さんも、ここで初参加。

これはね、私、全然、彼を知らなかったんだけど、百恵さんの「謝肉祭」を聴いた時に、そのサウンドにショックを受けて。凄いサウンドだと思って。なんというか、聖子の張り裂ける声質と同じ匂いを感じて。こんなに張り裂けて、すごい音を作れる人がいるんだと。それで、大村君を訪ねて話をしたら、彼も当時はまだキャリアが浅く、仕事もそこまで立て込んでなくて、すぐ了解してくれました。そこから、彼との付き合いが始まったんですね。

―― あのイントロは胸が弾みます。

そうそう。それと、1番と2番の間奏も素晴らしかった。あれ、今でも覚えてるけど、スタジオでね、大村君が「じゃあ、音を出しますから」ってオケが始まって、いい感じだな~と思って聴いてて、それで1番と2番の間奏に入った瞬間、私はひっくり返ったね。この人は凄いなって。作品のイメージ、メッセージってありますよね。それをガーッと増幅させて、世界観を広げた感じ。この間奏を聴いた瞬間、私は勝ったと思いましたね。

―― 完璧な夏曲。あの1曲で80年代の視界が開けた気がします。

なんていうのかな、私もそういう春夏秋冬とか、季節の移り変わりとかが大好きで。昔から、よく休みの日は1人でいろんなところへ、あてもなく出かけてね。上野駅まで行って、さぁ、今日はどこ行こうかと。そういうのが好きで、その延長線で、聖子の歌も作っていた気がします。だから春夏秋冬とか、そういうのが比較的、聖子の歌ははっきりしているんです。

松田聖子の魅力は “夏”


―― デビューアルバムの『SQUALL』も夏の名盤です。ジャケットのアイデアは誰が?

私です。このね、まだ原石っていうのかな。私はこれが一番好きです。このジャケットに勝るものはないかな。今まで何十枚も出してきたけど、今でもこれが一番好きです。

―― レコーディングは大変でしたか。

アルバムは曲数が多いから、新曲を覚える大変さはあるんだけど、聖子自身、すごく勘がいいんだよね、だから、2、3回やると、ほぼ覚えてしまう。だから、そんなに時間もかからなかった。あと、全タイトルを作曲した小田裕一郎さん、彼なんか「裸足の季節」でイメージをつかんで、次の「青い珊瑚礁」でガーッと跳ねたもんだから、アルバムもそのスタイルのまま、そんなに苦労なく、次から次へアウトプットしてましたね。それを三浦徳子さんが全曲、瑞々しい世界観で詞をつけてくれて。アルバムのタイトルこそ私が考えましたが、中の曲は全て、三浦さんがタイトルをつけました。

―― アルバムのトータルのイメージは若松さんが?

我ながら意外と言ったらなんだけど、全体のイメージとか、曲順とか、最終的な作品の仕上がりとか、そういうのはなんか見えるというか、分かるんだよね。分かるから苦労しない。たまに、イメージが出てこないことがあっても、時間が経てば自然と解決する。

――『SQUALL』もそうですが、松田聖子さんの魅力は ”夏” だと思います。

やっぱり、彼女には突き抜けた魅力がありますよ。特に初期の楽曲、小田さんと三浦さんのコンビの楽曲には、スカーっと抜ける感じがあった。だから、今思えば、途中から松本隆さんにやってもらったけど、あるところで一つ、三浦さんと小田さんを挟んでもよかったかなぁって感じはします。

レコーディングが難航した「チェリーブラッサム」


―― 2年目以降は、ニューミュージック系の人たちが入ってきます。

これは、色々な人が私にアドバイスをくれて。当時、「青い珊瑚礁」とかアルバムの『SQUALL』を聴いた宣伝マンとか作家のマネージャーたちが「若松さん、ユーミンなんかいいんじゃないの」とか、「チューリップの財津サンなんかどう」とか言ってきて。ほんと、たくさんの人たちがアドバイスをくれました。ただ、私は全然こだわりがなくて、やってもらえるんだったら財津さんもいいなぁってね。それで、財津さんの事務所を訪ねていって、オファーすると、マネージャーがとってもいい人でね。「はい、わかりました、財津に話します」と言ってね。すんなりと、財津さんに決まったんですよ。

―― それで、聖子さんの2年目は財津さんから。

やっぱり、財津さんのメロディーってね、品があるんだよね。小田さんはパーッと突き抜けて、洋楽的な明るい感じだけど、財津さんはなんていうか、一見地味だけど、そこに閉塞感はなくて、解放されている。それでいて、品があるメロディーだから、聖子も財津メロディーを歌うとプラスになるかなって思いはありました。

―― でも、「チェリーブラッサム」は当初、レコーディングが難航したという話も。

これは、当事者の私は苦労しましたよ、だって「歌わない」と言うんだもん。

――歌わない?

大体、いつもオケをレコーディングの直前に聖子に渡して、そこからレコーディングに入るんだけど、その日も、そろそろやろうかって言ったら、ノラリクラリして、どうも様子がおかしい。もうやるよと急かしたら、「いやぁ、あんまりこの歌好きじゃない」とか言い出した。「好きじゃない? どういうことなんだ? 具体的にどう好きじゃないんだ?」と問い詰めると、「いや、何となく……」。何となく? 「そんな何となく好きじゃないって、どうなってんだ」と、まぁ私も大人げなく怒鳴ってしまってね。そうなると、聖子も意外と意固地だから、動かない。結局、スタッフも大勢いたんですが、その日は私の一存で、今日は終わり!と。

――レコーディングはバラし?

そう、解散。


かくして、そんな不穏な空気から始まった、松田聖子さんの2年目へと向かう船出。後編は、稀代のアイドルが、やがてアーティストへと深化していく、その軌跡を若松プロデューサーの証言と共に振り返る。


vol.2【松田聖子を発掘した若松宗雄が語る!稀代のアイドルはいかにしてアーティストへ深化したのか】へつづく

若松宗雄:1940(昭和15)年生まれ。音楽プロデューサー。CBS・ソニーに在籍中、一本のカセットテープから松田聖子を発掘した。1980年代後期までのシングルとアルバムを全てプロデュース。ソニー・ミュージックアーティスツ社長、会長を経てエスプロレコーズ代表。著書に新潮社『松田聖子の誕生』がある。



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2024.02.19
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カタリベ
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