連載【佐橋佳幸の40曲】vol.40《最終回》
オン・ザ・バンドスタンド / ピーター・ゴールウェイ
作詞:PETER GALLWAY
作曲:PETER GALLWAY
日本の音楽シーンの基礎を作るうえで大きな役割を果たした長門芳郎
佐橋佳幸は優れたミュージシャンである以前に、とても熱心な、そして超マニアックな音楽ファンだ。だからこそ彼が作り上げる音楽には、単なる超絶演奏テクニックだけでは語りきれない豊かさがある。深みがある。子供のころからずっとラジオを聴きまくり、雑誌を読みあさり、レコード屋さんに通い詰め…。佐橋はいつも、まだ見ぬ魅力的な音楽との出会いを求め続けてきた。そんな熱心な音楽ファンである佐橋にとって、とても重要な音楽の紹介者のひとりが長門芳郎だ。
長門は、東京・南青山にあった伝説のレコード店 “パイド・パイパー・ハウス” の店主。1976年に店のスタッフに加わる以前は、あのシュガー・ベイブやティン・パン・アレーなどのマネージャーを務めていた。ヴァン・ダイク・パークス、ドクター・ジョン、ローラ・ニーロ、ダン・ヒックス、ジョン・サイモン、NRBQなど、一筋縄にはいかない顔ぶれの来日公演を実現させたり、独自のレコードレーベルを設立したり、日本の音楽シーンの基礎を作るうえで大きな役割を果たしたキーパーソンだ。それだけに多くのミュージシャン、DJ、作家、ジャーナリストなども常連客として頻繁に店を訪れていた。1989年にいったん閉店したものの、2016年、復活を熱望する声に応え、タワーレコード渋谷店内のショップ・イン・ショップとして再始動。現在も世代を超えた顧客で大いに賑わっている。そんな伝説のレコード店、パイド・パイパー・ハウスに佐橋が初めて足を踏み入れたのは高校生の時だった。
「都立松原高校時代。ノブ(清水信之)さんだったか、EPO先輩だったか、どちらかから、そういう店があるんだよってことを教えてもらって。それまでは柴田(俊文)や(松本)淳と一緒に、主に渋谷のディスクユニオンとかシスコとかに行ってたんだけど。同じ渋谷に、音楽業界人やミュージシャンも通うようなスゴい店があるってことは知らなかった。でも、ノブさんやEPOさんは高校時代からすでに音楽業界に足を踏み入れていたからね。いろいろ詳しくて。初めてお店に行った時は、んー、何を買ったんだっけな。レコードを入れてくれる紙袋のイラストが、当時、僕や柴田がよく行ってた下北沢の喫茶店の看板とそっくりのデザインだったから驚いたのをよく覚えている。今もあるイーハトーブっていう喫茶店なんだけどね。思わず “イーハトーブと何か関係あるんですか?” って聞いたら、お店の人が “同じ人が描いてくれたんだよ” って教えてくれて。あれが長門さんだったのかな。顔見知りになるのはもっと後だから、記憶にはないんだけど…」
ミュージシャンや作曲家、業界人らが足繁く通ったパイド・パイパー・ハウス
あそこに行けば、東京でいちばん洒落た音楽がわかる。そんな評判の下、前述の通りミュージシャンや作曲家、業界人らが最新サウンドを求めて足繁く通ったレコード店。当時の高校生にとってはちょっと敷居の高いオトナのスポットだった。けれど、サハシ少年にしてみれば夢のような場所。高校時代はもちろん、卒業し、UGUISSの一員としてプロデビューを飾ってからも通い続けた。レコードマニアとしての需要を満たすだけでなく、後にギタリストとして、あるいはアレンジャーとして活動を始めてからは、日々の仕事へのインスピレーションを与えてくれるショップでもあった。
「淳や柴田はロックのレコードを中心に買っていて。もちろん僕もロックは好きだけど、もうちょっとポップス寄りだったり、シンガーソングライター系も好きだったからね。パイド・パイパーに行くと、聴いたことのない新しい音楽をたくさん知ることができた。通っているうちになんとなく顔を覚えてもらうようになってくると、お店の人が “これ知ってる?” とか教えてくれるようになって。クリス・レインボーとかさ。イーグルスの新作とか、そういうお目当ての新譜を買う以外、何か面白いものないかなぁーみたいなものは全部パイドで買っていましたね。今でいうセレクトショップ。音のセレクトショップって感じのお店でしたね。だから、新譜でも他の洋盤屋さんとは一線を画していた。そういうレコード屋さんが身近にあったことは、すごく幸運だった」
佐橋がもっとも敬愛するピーター・ゴールウェイとの出会い
パイド・パイパー・ハウスで初めて出会った音楽クリエイターのひとりがピーター・ゴールウェイだ。1969年、フィフス・アベニュー・バンドの一員としてデビューを飾り、たった1枚のアルバムを残しただけで解散し、1971年にはオハイオ・ノックスというグループでさらにアルバムをリリース。が、このグループも長続きすることなく、1972年にはソロパフォーマーとしての活動を始めた。そんなゴールウェイは、佐橋がもっとも敬愛するシンガーソングライターのひとりだ。
「パイド・パイパーに行くと、えんえんレコードを選んでいるふりをしながら、お店の人が店内でかけるレコードをずっと聴いてました。いいなと思ったら “これ誰ですか?” って訊いて教えてもらう。そういうやりとりもすごく楽しかった。で、そんな中、僕はピーター・ゴールウェイというシンガーソングライターの存在を知るわけです。いちばん最初はやっぱりフィフス・アヴェニュー・バンドだったかな。そこから入って、オハイオ・ノックスやソロの作品も好きになりました。いずれにせよ、ピーターの音楽は軒並みパイドで買った記憶があるな。世代的にはリアルタイムではなかったので、廉価盤のアナログが再発された時に買ったんだと思います」
そして、1987年。佐橋はその憧れのピーター・ゴールウェイと出会うことになる。これもまた、長門がとりもった縁だった。
「長門さんとは、当時まだ顔見知りかな… くらいで。それほど親しい間柄というわけではなかったはず。でも、アーティストの招聘もやっていた長門さんが、ジョン・セバスチャンを日本に呼ぶことになった時に声をかけてくれたんです。僕はセッションの仕事を始めてまだ数年。僕と柴田と淳とで(渡辺)美里のツアーとかやってた。UGUISSのことを知っている人は別として、そういう音楽が得意だとは一般に知られてない頃だったのね。そんな僕になぜ声をかけてくれたんだろう、と不思議に思ったけど。考えてみりゃ高校生の頃からお店に通っていたわけだからね。店長の長門さんには僕の趣味もお見通しだったんだろうな(笑)。でね、長門さんが言うには、ジョンの来日公演で “ウェルカム・バンド” として演奏してくれないか、と」
セバスチャンへのリスペクトを込めたトリビュートセッションで迎えたい
記念すべきセバスチャンの初来日。だから、日本の音楽シーンにも多大な影響を与えてくれたセバスチャンへのリスペクトを込めた、日本人ミュージシャンによるトリビュートセッションで迎えたい。それが長門のアイディアだった。このバンドは、長門によって “パレード” と名付けられた。1960年代半ばに米ロサンゼルスで活動していた幻のサンシャイン・ポップ・グループ名を流用したものだった。マニアが聞けば、なるほど、とニヤリとするグループ名。間違いなく佐橋もニヤリとしたはずだ。
時は渋谷系ブームの前夜。数年後にはジョン・セバスチャンがかつて在籍したバンド、ラヴィン・スプーンフルも渋谷系のアイドル的存在になるのだが。1987年の段階でセバスチャンの音楽を日本の若い世代のバンドが演奏するというのはあまりにもマニアックな企画。しかし、それでこそ長門芳郎。パイド・パイパー・ハウスに通うような音楽オタク界隈では大きな話題となった。
「ジョンの音楽に影響を受けた若い連中で、彼の曲や、あの頃のフォークロックの曲をカバーするバンドができないかな、と。長門さんが提案してきたの。そんな夢みたいなバンド、できるに決まってるじゃないですか(笑)。やらないわけがない。大喜びで引き受けた。メンバーは、ほぼUGUISSで。山根姉妹(山根麻衣+栄子)に弟(暁)が加わった3人がボーカルとコーラス、ドラムは松本淳、キーボードは柴田俊文、ベースは青木清さん。UGUISSはデビューする前から、エレキベースが必要な時にはちょくちょく青木さんに手伝ってもらっていたんです。そして、ギターが僕。ラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティ」だったり、アソシエイションの「ウィンディー」だったり。ジョン・セバスチャンが輝いていたあの時代のフォークロックを演奏する一夜限りの臨時編成バンド。選曲する段階から楽しかったなぁ。と、そんな感じでジョンの来日を待ち構えていたんですが。これがね、なんとジョンが病気のために来られなくなっちゃったんですよ。で、その代役を引き受け、やって来たのがピーター・ゴールウェイだったというわけ」
「魔法を信じるかい」をジョン・セバスチャンに捧げる形で演奏
このコンサート、当初はジョン・セバスチャンと、当時メジャーデビュー作が大いに話題になっていた若手シンガーソングライター、ピーター・ケイスのふたりをメインに、スペシャルバンドとしてパレードが加わる… という予定だった。が、セバスチャンが来日できなくなり、急遽、代役として長門と親交の深かったゴールウェイが抜擢された。加えて、当時のケイス夫人で、まだ無名に近い新人シンガーソングライターだったヴィクトリア・ウィリアムズも参加。思いがけない変更ではあったが、代役の充実ぶりも功を奏してコンサートは大盛況となった。最後はダブルアンコールに応えて出演者たちが全員登場し、ラヴィン・スプーンフルの代表曲「魔法を信じるかい」をジョン・セバスチャンに捧げる形で演奏。出演者たちと共に観客も大合唱の感動的なフィナーレとなった。
「あの時がたぶんピーターとの初対面。うれしかったよ。憧れのピーターだけでなく、ピーター・ケイスもヴィクトリアも、彼らのレコードも聴いていたからね。そういう、自分がレコードを買って聴いていたような海外のアーティストと同じライブに出るなんてさ。僕、こんなところに交じって演奏していいのかなと思ったな…」
ピーター・ゴールウェイが再来日
この来日の2年後、1989年、ゴールウェイはフィフス・アヴェニュー・バンド時代からの仲間であるマレイ・ウェインストックと共に再来日。その際、前回に続き日本のミュージシャンたちとのコラボレーションによるスタジオライブ・セッションがFM特番として企画された。もちろん、これも仕掛人は長門だった。その時のメンバーは、ゴールウェイ(ボーカル、ギター)とウェインストック(キーボード、コーラス)のふたりに加え、佐橋(ギター)、湯川トーベン(ベース)、野口明彦(ドラム)、中山努(キーボード)、そしてコーラスがメジャーデビューしたばかりの鈴木祥子と田島貴男。さらには、スペシャルゲストにブレッド&バター。
「まさに2年前の続編、みたいな感じで。ピーターとはここで一気に仲良くなったかな。この時は、僕の記憶だとキーボードの中山努さんが譜面を起こしたりするところから全部仕切ってくれていたと思う。メンバーを集めたのは主に長門さんで。田島貴男くんがまだピチカート・ファイヴにいた時代。僕はこの時が初対面だった。田島くんも昔はマニアックな輸入レコード屋さんでバイトしていたでしょ。その頃、ピーターのレコードを売ったりもしていたわけで。だから、リハーサルの時からピーターの演奏を目を皿のようにして見ていたよ。印象的だったな。曲数もけっこう多かったから、ピーターも一緒に、たしか2日くらいみっちりリハスタで練習したと思う」
“伝説ライブ” のCD化が実現
『フィフス・アヴェニュー・バンド』『オハイオ・ノックス』『ピーター・ゴールウェイ』や『オン・ザ・バンドスタンド』など、ゴールウェイがバンド時代〜ソロ時代を通して残した代表的アルバム群から選曲されたベスト・オブ・ゴールウェイ的なセットリストを、東京の若きミュージシャンたちを従えて奏でるライブ。FM東京でオンエアされたそのライブ録音は当然、多方面から商品化が望まれていた。にもかかわらずマスターテープの所在が不明。長い間、リスナーによるエアチェック音源などが非公式に出回るのみの幻の “伝説ライブ” となっていた。が、2010年、20年の歳月を経て突如この幻の音源のCD化が実現。『ピーター・ゴールウェイ・トーキョー・セッションズ 1989』として世に出たのだが。そのCD化に大きく貢献したのは誰あろう佐橋だった。
「佐野元春さんが自分で設立したエムズファクトリー・レーベルから出すコンピレーション・アルバム『mf VARIOUS ARTISTS Vol.1』に僕を誘ってくれて。
佐野さんのプロデュースで「僕にはわからない」って曲をレコーディングしたのが1988年。このライブのちょっと前のことでしょ。「僕にはわからない」はFM東京のスタジオで録ったんだけど、そのときアシスタント・エンジニアをしてくれた人と、このピーターとの収録のときに再会したの。で、セッションが終わった後、その人が “これ、記念にあげるよ” って、こっそり、同時録音していたDATをくれたんです。その時のことをどうやら長門さんが覚えていたらしくて。ある日、“サハシくん、あの時のライブのDAT持ってたよね?” って連絡がきた(笑)。ラッキーだったのは、僕は僕で、その時にもらったDATをすでに自分でデジタルデータ化していたんだよね。テープが劣化する前に、と思ってさ。そんなこんなで、あの日の音源がめでたくCD化されたわけです」
佐橋のプレイに全幅の信頼を寄せていたゴールウェイ
この日の演奏は、ゴールウェイ自身も大いに気に入っていた模様。佐橋も全編にわたってみずみずしくも気合いが入りまくった絶品プレイを聴かせている。
「1曲目が「オン・ザ・バンド・スタンド」で。こないだ改めて聴いたらすごい演奏だったよ。自分で言うのも何だけどさ。スライドギターを弾きまくっててね。これ、俺? こんな弾けてたんだー… って(笑)。一発録りのスタジオライブだから、もちろん修正はできない。直せない。なのに、俺、これ一発で決めたんだ、と思って。若きサハシくん、いい演奏してんなーと思った(笑)。めっちゃソロ弾いてるしね。久しぶりに聴いてびっくりしちゃった」
同時期、1989年にリリースされたブレッド&バターのアルバム『ミッシング・リンク』はゴールウェイがプロデュースを手がけていた。佐橋はそこにもギタリストとして全面参加。その時もゴールウェイは佐橋のプレイに全幅の信頼を寄せていたという。
「これも同じ頃だったと思うけど、たしかヒムロック(氷室京介)のレコーディングで行ったニューヨークでぽっかり時間が空いたことがあってね。で、そうだ…! と、ピーターに連絡してみたら、会おうってことになったの。そしたらね、いきなり “僕、今日ライブなんだけど、昔一緒にやった曲、覚えてる?” って言われて。“いやー、覚えている曲もあるけどー” とか答えたら、“じゃ、とりあえずウチで練習しよう” ってことになり(笑)。ホテルから楽器持ってピーターの家に行って練習して、そのままニューヨーク郊外にあるライブハウスに行ってギター弾いたの。いきなりだよ。しかも、その夜は2マンでね。対バンの相手はリッチー・ヘイヴンズ。当然、最後はウッドストックのライブでもおなじみの「フリーダム」を一緒にやって…みたいな展開。信じられない話でしょ」
ライブ本番でもサプライズゲストを務めることになった佐橋佳幸
ゴールウェイは2023年、久々に来日。イアン・マシューズと共に公演を行い、変わらぬ歌声で日本のファンたちを歓喜させた。東京・新宿MARZで行われたライブの前日にはマシューズとふたりで渋谷タワーレコード内のパイド・パイパー・ハウスでトークライブも行った。
「来日公演のことは雑誌か何かで見て知っていたんだけど、急遽、タワーレコードでもイベントをやるというので見に行ったの。最初はイアンと長門さんがトークするコーナーだったんだけど。そのときイアンはギタリストも一緒に連れて来てくれてね。それで長門さんが “せっかくだから1曲やってもらいましょうか” とか言って。お客さんが “うぉーっ!” って感じで盛り上がって… 。それを見ていたら、僕のところにピーターが来てさ。また “前にやった曲、覚えてるか?” って(笑)。“イアンのギタリストにギター貸してくれってオレが頼んでやるから、お前が弾け” って。で、イアンの出番が終わった後、ピーターが登場して、“今日、すごく昔からの友達のサハシに会ったんだ” と紹介されて呼び出されて、僕、いきなり飛び入りでギター弾いたんだよ。それで演奏が終わったところで、今度は “明日、どうしてる?” とか聞いてきたの。 “そりゃ明日はあなたのライブ観に行きますよ” って答えたら、“観に来るぐらいなら弾いてくれ”と(笑)。当然、翌日ギターを持ってって出かけていくことになりました」
ずっと長い間会っていなくても、音を出した瞬間に時はみるみる巻き戻る。結局、ライブ本番でもサプライズゲストを務めることになった佐橋。楽屋でふたりきりで出番を待つ間、ようやくゆっくりとお互いの近況や積もる話をすることに。その時、ゴールウェイがふと、何かひらめいたような表情になり、こう言ったという。
“ふたりで何か作らないか?”
佐橋佳幸はUGUISSでデビューしてからちょうど41年目を迎える
何かが始まる瞬間。佐橋がここまで長い歩みの中、何度も経験してきたあの特別な感触がこの時もあった。誰かと出会って音楽を奏でる。お互いの気持ちが響き合って新しいハーモニーが生まれる。こんな出会いの積み重ねが、音楽家・佐橋佳幸を作ってきた。
「70年代からずっとピーターは日本との縁が深いでしょ。彼いわく、そういう日本との繋がりから生まれた未発表曲が何曲かあるらしいの。それを今、日本人の僕と一緒に作るのは面白いんじゃないか、と。そりゃもう、いくらでもお手伝いしますよって答えたけどね。とりあえず帰国したらデータを送るから、試しにやってみようよ… なんて話をして別れて。でも、そんなの絶対リップサービスに決まってるよなぁと思っていたら、すぐに何曲かデータが送られてきた。そこからやりとりが始まって、なんと、今もまだ続いてるの。そして、最初はまったく予想もしていなかったような展開に… うん、たぶん、面白いことになりそうな予感がするよ」
Photo:Koichi Morishima本稿がサイトに掲載される2024年9月21日、佐橋佳幸はUGUISSでデビューしてからちょうど41年目を迎える。佐橋佳幸の41年目。きっと誰にも予想できない、とびきり面白い何かが待っているのだろう。
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2024.09.21