2001年 10月24日

【佐橋佳幸の40曲】松たか子「花のように」その音楽的才能にサハシは何度もびっくり!

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連載【佐橋佳幸の40曲】vol.39
花のように / ​​松たか子
作詞:Sunplaza
作曲:吉田美智子
編曲:佐橋佳幸

佐橋佳幸にとっては公私にわたる良きパートナーでもある松たか子


松たか子。今さら何の説明も必要ないだろう。1994年にNHK大河ドラマ『花の乱』でドラマデビューして以来、映画、舞台、テレビドラマとオールラウンドな活躍を続けてきた日本を代表する俳優。とともに、1997年3月にはシングル「明日、春が来たら」で歌手としてもデビュー。これまで10枚のオリジナルアルバム、3枚のベストアルバムを発表している。ディズニー映画『アナと雪の女王』の日本語版でエルサ役の声優を務め、「レット・イット・ゴー〜ありのままで〜」などの劇中歌も歌っていることでもおなじみだろう。世界中の “エルサ” が大集合した第92回アカデミー賞授賞式(2020年)でのパフォーマンスも忘れられない。

そして、言うまでもなく、佐橋佳幸にとっては公私にわたる良きパートナーでもある。佐橋が松たか子と出会ったのは2001年。旧知のプロデューサー / ディレクターからのオファーで、13枚目のシングル「花のように」のアレンジを手がけることになったのがひとつのきっかけだった。

「ところが、ここで不思議なくらい偶然が重なるんです。ちょうど同じ時期、山下達郎さんのツアーでご一緒していた、昔からずーっと達郎さんの舞台制作をやっている方からも連絡がありまして。“ちょっと相談がある、でも飲み屋で一杯やりながら話すような話じゃないんだよ” と。何やらヒミツめいた様子で、自由が丘にあった僕の仕事場にやってきたんです。で、“お前に音楽監督をやってほしい仕事があるんだ” って言うから、“誰のですか?” って聞いたら、“松たか子って知ってる?” って。びっくりした。また松たか子だよ、と。レコーディングとライブ、本当に偶然なんだけど、まったく違うルートからほぼ同時期に話が来たんです」

ライブアレンジを考えて、ギタリストとしてバンドを仕切って欲しい


この時、さて、佐橋が松たか子という存在そのものを知っていたのかどうか、ちょっと気になるところだが… 。

「いや、さすがに知ってましたよ(笑)。そりゃ僕だって知らないわけがない。日本人ならみんな知ってるでしょ。紅白の司会やってる人なんだし。でも、正直、彼女の音楽については、歌手でもあるってことは認識していたものの、あまりよく知らなかった」

当時、すでに歌手として4年で6枚のアルバムをリリース。スタンダードソングとなりつつあった「明日、春が来たら」をはじめ、ヒット曲も数多くあった。が、多忙な俳優業の合間を縫っての音楽活動だっただけに、意外なことに本格的な単独コンサートはそれまでやったことがなかった。

「で、当時の事務所の社長さんから、ここで全国ツアーみたいなものをやらせてあげたいんだけどって相談されたと言うんです。それで当時、達郎さんのツアーでも一緒だった僕に手伝ってほしいと頼みに来たと。で、いきなりカバンからCDを出してきて僕に聴かせ始めたの(笑)。どうせサハシは忙しいだろうから、だいたいのセットリストは自分が考えるので、それを元にライブアレンジを考えて、ギタリストとしてバンドを仕切って欲しいと。まぁ、そういう仕事は僕、苦手じゃないしね。それで、わかりました、ということになってね」

まずは新曲「花のように」のレコーディングが始まった。

「あの、なんだろ、いちばん最初に会った時からすごく自然な感じでやりやすい現場だったのね。まず、現場に行ってみたらマネージャーが、松さんと同じ事務所だった江口洋介くんのマネージャーだった人でね。僕、洋介とはすでに仕事してたでしょ。そういう流れで僕に話が来たっていうのもわかったし。ただ、事前に打ち合わせで聴かせてもらったCDだと、なんとなくアイドルポップスっぽいイメージだったからね。正直、“アイドルの仕事って久しぶりだなぁ、できるかなぁ…” くらいの感じだったの」

僕は松たか子という人を全然わかってなかった


が、いざ蓋を開けてみたら、佐橋にとっては驚きの連続。以降、レコーディングでもライブでも、佐橋はしばしば松の素養に驚かされ、その音楽的バックグラウンドの豊かさを実感して感嘆してゆくことになる。

「日々、“え、そうなの!? そういうことなの!?” って。僕は松たか子という人を全然わかってなかったな、と。よくよく考えてみたら、伝統芸能のお家といっても、お父さん(二代目松本白鸚)はブロードウェイミュージカルもばりばりやってらっしゃる方でしょ。『ラ・マンチャの男』とか『王様と私』とか。だから松さんもその流れで、いつも家の中に流れている古いスタンダード曲を聴いて育っているような人で。確かに僕も、そういう認識がなかったわけではないんだけど。ただ歌手としての松さんとなると、さっきも言ったように、特に最初の頃のアイドルのレコードみたいなイメージがあったからね。だから、最初にライブを手伝って欲しいと言われて曲を聴かされた時も、正直なところ “なんで俺なんだろう?” というのはあった。でも、よくよく話を聞いてみたら、そういう路線を変えたいから僕に頼んでいるんだ、と。ライブのスタッフからも、レコーディングのスタッフからも、まったく同じことを言われたの」

「花のように」は作詞がSunplaza(サンプラザ中野くん)、作曲が日本のボイストレーナーの先駆者にして第一人者としても有名な吉田美智子。そして、アレンジが佐橋。多忙な中、松たか子もレコーディング作業の最初からスタジオに同席し、仮歌を歌い、リズム録りに立ち会った。

「確かもう、サンちゃん(サンプラザ中野くん)の歌詞も先に出来上がっていたと思う。それでまず、おなじみ石やん(石川鉄男)と僕とでベーシックを作って。仮歌は松さん本人が歌ってくれて。で、その後でツアーにも参加してもらうことになるからちょうどいいやってことで、(山本)拓夫くんのソプラノサックス入れたりして、とりあえずオケが完成したんです。そしたらね、オケができたところで松さんが僕に、“これで完パケですね” って言ったの。それまで松さんと仕事をしてきたアレンジャーさんはたいてい、オケを録るところで仕事終了だったんだろうね。で、ようするに “お疲れ様でした” みたいな意味でそう言われたんだけど。ご承知のように、僕のアレンジっていうのは限りなくサウンドプロデュースに近いから、 “いやいや、僕はふだんから歌入れもコーラスも全部やるんだよ” って言ったら、“え、そうなんですか!?” って驚かれたの」



うわっ! この人、めちゃめちゃ歌うまいんだ!!


ちなみに佐橋が経験してきた “アイドル” の仕事では、本人がスタジオにやって来るのは最後の歌入れの時のみ。仮歌もプロのセッション・シンガーが代わりに歌うことがほとんどだったし、ましてやオケ録り作業にまで立ち会うことなどなかった。が、松たか子は違った。

「で、ディレクターと僕とで歌入れのディレクションをやることになったんです。その時ですよ、僕が最初の衝撃を受けたのは。“うわっ! この人、めちゃめちゃ歌うまいんだ!!” と(笑)。実際に目の前で歌うのを聴いた瞬間、大袈裟でなく “なんだこれ!? えーっ!?” って思った。なんで誰も教えてくれなかったんだ、と。でね、その歌入れが終わった後に、僕はコーラスの人を呼ぶつもりだったんです。でも、これだけ歌えるんだから松さん本人にやらせてみようと考えたの。それで本人に “どう思う?” って聞いたら、“できるかも” と。ディレクターはちょっと心配して、“どんなコーラス入れるの?難しいんじゃないの?” って。そう聞かれたから、“もちろん、めちゃめちゃ難しいですよ”って(笑)。そりゃ、コーラス好きの僕だから、もうプロのコーラスの人でも初見では難しい、かなり面倒くさいラインを書いてたんです。でも、歌ってみてもらったら、第二の衝撃。最初から難なくやってのけた。松さん、譜面もばっちりだから、ふつうにすらすら譜面を読みながら歌っているわけですよ」

松たか子はミュージカルの舞台でも歌ってきた。音楽的な下地もしっかりある。それはスタッフの誰もがわかっていたはず。が、意外なことに、それまで自分の曲で自らコーラスを入れたことがなかったのだという。

「コーラスを入れている途中、1カ所、僕が譜面に ♯(シャープ)を書き忘れていた個所があったのに気づいて。“ごめんなさい、そこは僕の間違いだ” って言ったら、“あ、やっぱり。おかしいと思った” って。おかしいってわかっていながら、♯付けないで歌ってたんですよ。そういえばマネージャーも “譜面はばりばりですよ” って言ってたもんなぁ、と。それまで、本当にイメージだけで誤解していたけど、とんでもなかった。そういう音楽的な人なんだ、ちゃんとしたボーカリストなんだっていうことが、ふだんテレビなんかで見ているだけの僕らにはまったく伝わってきてなかったんだなって思い知ったね。たまたま呼ばれた仕事で、ものすごい才能の人と出会えた。レコーディングやってよかった。そう思いました」

松たか子にとっても忘れられないツアーになった concert tour vol.1 “a piece of life”


そして、ほぼ同時期にツアーのリハーサルも始まった。彼女の初ツアーにふさわしい音世界を… と考えた結果、塩谷哲(キーボード)、柴田俊文(キーボード)、アマゾンズの大滝裕子(コーラス)、そしてすでに松のレコーディングにも参加したことがあった金子飛鳥(ストリングス)らを招集。ここでまた、佐橋は3度4度とえんえん衝撃を受け続けることになる。

「ライブのリハーサルが始まっても素晴らしかった。バンドをバックにしてここまで歌えて、ヒット曲だってたくさんある人なのに、自分のコンサートをやったことがないって…。素朴な疑問として、なぜ?って思うよね。で、聞いたら、やっぱり女優さんの仕事が忙しいから、と。それでね、あらためて “あ、これ、全然アイドルの仕事じゃないじゃん” と。これだけの人ならば、こっちにだってやりたいことはたくさんある。というわけで、完全にまかせてもらって、やりたい放題やらせていただきました」

こうして2001年に開催された初の全国ツアー『concert tour vol.1“a piece of life”』は各地満員の大盛況。デビュー5年目にして初の本格的ライブを待ち焦がれたファンにとってはもちろん、松たか子にとっても忘れられないツアーになったに違いない。ツアー最終日のラスト、観客に向かって感謝の思いを告げた後、彼女は客席に背を向けて後ろにいるバンドの面々に小さくぺこりと頭を下げた。ほんの一瞬のことだったけれど、その自然な仕草がとても印象的だった。歌手としての大きな冒険を共に歩んでくれた音楽仲間たちへの感謝が、その背中にあふれていた。



「そんなわけでシングルが出て、ファーストツアーが終わって。この勢いで、そのままアルバムを作ろうっていう話になりました。どんなのを作ろうかって話をしていたら、マネージャーから “松が作り溜めているモチーフを曲にしてあげてほしいんですけど… ” と相談されたんです」

本人も僕もスタッフもみんな盛り上がって作り上げたのが「home grown」


もちろん、それまでも松たか子は自身のアルバムで多くの作詞・作曲を自ら手がけてきた。が、本人はもっともっと自分の言葉を、自分のメロディを、自分で歌いたいと思っていたということだろう。

「ようするに、松さん、めちゃめちゃ忙しくて時間がなくて。思うようにならなかったんだよね。ただ、完成していないモチーフみたいなのはいっぱい持ってたの。だから、それをまとめよう、と。で、移動日とかに僕もつきあって曲書きを手伝うことになった。松さんの隣で僕がギターを弾いて。で、その頃はまだスマホとかないからマネージャーが横でカセットで録音して…。表立ってバンド活動をしているとか、洋介みたいに俳優だけどギターもばりばり弾きますよ、みたいなタイプではないんだけど。でも、もともと音楽的なセンスはすごい人だから」

「一緒に曲を作ってると、“でも私、コードがわかんないんですよねぇ。ピアノはちっちゃい時に習ってたけど、やめちゃったんで” と。だけど、コードネームがわからないだけで、“えーと、右手がドミソなんだけど、下がミのやつ…” “あ、E分のC!?” みたいな(笑)。コードはわからなくても、頭の中で鳴ってるのは分数コードだったりするわけですよ。“上はファラド… あ、ラはフラットしてるかも? でも、左手はソ” “松さん、それはたぶんG分のFマイナーだと思います” “あ、そうなんですね” …みたいに、僕がコード名を当てるという(笑)。懐かしいな。とにかく、こりゃすごいな、と思った。それで、本人も僕もスタッフもみんな盛り上がって作り上げたアルバムが『home grown』でした」

松たか子と新しい音楽の世界とをつなぐ橋渡しの役割


前作『a piece of life』以来2年ぶりとなる5作目のオリジナルアルバム『home grown』(2003年)。佐橋がプロデュース / 編曲で全面参加した初のアルバム。佐橋はいわば “通訳”として、松たか子と新しい音楽の世界とをつなぐ橋渡しの役割を果たした。俳優業の忙しい合間を縫って曲を作り、佐橋をはじめとするミュージシャンたちと音楽というコトバで会話をして…。そんな環境の中、内に秘めた新しい音楽への思いがあふれだした。そんな、まさに自家栽培(= home grown)の、あたたかなアルバム。



「ツアーをやったときのメンバーもばりばり参加しているし。レコーディングも本当に楽しかった。松さんにとっては、すごい新鮮でもあったと思う。僕は僕で、アルバムを作る作業の中で、彼女のそういうところを引き出せたしね。よかったなと思う」

その後も松は佐橋プロデュースのもとで音楽活動を続けてきた。時にはソングライター・コンビとして、佐橋との共作で数々の名曲も生み出してきた。それだけに、松たか子作品におけるフェバリットソングは多すぎてとても1曲には絞れない… と悩みながら、佐橋が選んだのは出会いのきっかけともなった「花のように」。

「うん。これがベストかな。松さんはどう思うかわからないけど(笑)、僕の仕事としてはこれでいいんじゃないかな。いちばん最初の曲だからね」

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カタリベ
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