シングル「愛が勝つ」を聴いてド肝を抜かれ、KANとは何者ぞやと、先行リリースされていた「愛は勝つ」収録のアルバム『野球選手が夢だった。』を聴く――。そうしてKANの底なし沼に入った方は多いのではないだろうか。
私もこの王道ルートを踏んだ1人。しかも1990年当時、彼のことを何かのコンテストでグランプリを獲ってデビューしたばかりの新人だと思っていた。ところが「愛は勝つ」の時点でシングルはすでに8枚目、『野球選手が夢だった。』はアルバムは5枚目、ということに驚いたものである。
小さな小さなKANの泣き声 日本中で歌われた「愛は勝つ」は魔法のような曲だった。1990年代は「どんなときも。」(槇原敬之)や、「それが大事」(大事MANブラザーズバンド)など、自己肯定を歌う楽曲が増えていった時期だ。「愛は勝つ」は、シングルだけ聴くと、その幕開けの1曲だったように感じる。
どれだけ斜に構えようとも、心に入り込んでくる、力強いピアノの “♪タン!タラタン タン ターン ターン!” というイントロ。「♪必ず最後に愛は勝つ」という純度100%なインパクト大の歌詞。私はこの歌が大好きになった。ああ、KAN、あまりにも励まし上手! 累計売上約201万枚、ダブルミリオンも納得である。
ところが、アルバム『野球選手が夢だった。』を通して聴くと、なんだか違う。人を励ます余裕などまったくない青年が、もうもう必死で己を奮い立たせている曲に聴こえてきたのだ。「♪心配ないからね 君の勇気が 誰かにとどく 明日はきっとある」の “君” は、きっと自分自身に向けての呼びかけ。ラストの「♪必ず最後に愛は勝つ」のあと、耳を澄ますと “頼む、そうであってくれよ~(泣)” という小さな小さなKANの泣き声が聴こえてくるよう―― 。
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遠距離恋愛を歌った「恋する二人の834㎞」 なぜそう思うのか。とりあえず順に、アルバムの曲のストーリーと主人公を追っていこう。1曲目「愛は勝つ」に続き、2曲目は、遠距離恋愛を歌った「恋する二人の834㎞」。主人公は、寂しさのあまりにスネまくる彼女のために、長電話につきあい、ご機嫌を取るのに必死である。田舎と都会に住み分かれた恋人を、距離感と価値観がWで邪魔をする。思わず “ガンバ!” と、聴いているこちらが励ましたくなるような楽曲である。
続いて、「けやき通りがいろづく頃」。“男女5人秋物語” 的なラブストーリーが展開される。主人公は友人の三角関係を通して、“告白をしたことが災いして友達でもいられなくなる” という残酷な恋の現実を知る。そして己も臆病になる。「愛は勝つ」にも登場するが、KANのシャウト「♪オーオオオ!」の破壊力はすごい。
4曲目が「青春国道202」。故郷に帰ってきた際の同級生との会話。思い出されるのは、全員が同じ女の子に告白し玉砕したという、こっぱずかしい黒歴史。そしてそれぞれ、今が幸せかを探り合う。続いて、彼女との最もつらい鉢合わせを描いた5曲目「千歳」。ラブラブな誕生日祝いの歌かと思いきや、よくよく聞けば、主人公は彼女を祝う大勢の1人である6曲目「Happy Birthday」。
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ビリー・ジョエルの影響を受けた8分半の大作「1989(A Ballade of Bobby & Olivia)」 7曲目の「ぼくたちのEaster」は恋の復活を歌っているが、反省と後悔が強く強く浮き出てくる。そして8曲目「健全 安全 好青年」では、このアルバムの主人公のパーソナルデータがずばり! エエカッコしいの空回り、自意識過剰、被害妄想、やさしすぎるーー 。それを自覚しながらも笑うしかない不器用さ。ああそうか、このアルバムの主人公たちはみな、私と同じ、恋愛こっぱみじん族!
そして、8分半の大作「1989(A Ballade of Bobby & Olivia)」。ビリー・ジョエルの楽曲「イタリアン・レストランで」(Scenes from an Italian Restaurant)に強く影響を受けた楽曲というのは有名な話だ。また歌詞は、KAN自身の実体験を色濃く反映しているという。そのせいか、恋の始まりも終わりもリアルで、8ミリを回すように画を想像しながら聴く体感時間は4分くらいだ。
とにかく、全曲、切なさの分量がハンパない。詳しい地名や数字が織り込まれた楽曲タイトルからは、執着や深い心の傷が浮かびあがる。故郷にたくさんの思い出を置いてきたまま都会に出てきて、居場所も価値観もまだ確立できない主人公が見えてくる! そんな愛しくてもどかしい9曲を過ぎ、ラストの曲が「君が好き胸が痛い」。この歌から、最後の最後に“好きになればなるほど動けない” という一番厄介な孤独がなだれ込んでくるからたまらない!
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シングル版とは違う人だった「愛は勝つ」の主人公 まさに、情緒不安定な青年の右往左往を、アルバムを通して見守る感覚。「君が好き胸が痛い」でツンと痛くなった目頭をふきながら、もう1度アルバムの頭に戻り「愛は勝つ」を聴く。すると、「♪信じることさ 必ず最後に 愛は勝つ」が、あまりにも不器用な祈りのように響き、なんだか泣き笑いしてしまうのだ。
野球選手が夢だった少年が大人になり、次に望んだ夢は、ただただ “あなたの隣にいたい”。けれどそれは、野球選手を目指すのと同じくらい難しいことなのかも…。私が『野球選手が夢だった。』を通して出会った「愛は勝つ」の主人公は、シングル版で感じた励まし上手な「愛は勝つ」とは違う、不器用で愛しい人だった。アルバムとは、長いひとつの物語だとつくづく思う。
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2025.09.24