中森明菜には異色のカバーシングル「難破船」作詞・作曲は加藤登紀子
「難破船」は中森明菜の19枚目のシングルとして1987年9月に発売された。この曲は、もともと加藤登紀子が1984年12月に発表したアルバム『最後のダンスパーティー』に収められていたもの。作詞・作曲は加藤登紀子自身で、「20歳の時の失恋を反映させている」という。この時点までで中森明菜がカバー曲をシングルとしてリリースするのはきわめて異色であり、それだけに彼女の強い “想い” が込められた曲と言えるのではないかと思う。
加藤登紀子はシャンソンコンクールでの優勝をきっかけに、1966年に「誰も誰も知らない」でデビュー。同年のセカンドシングル「赤い風船」のヒットでフォークテイストのシンガーとして脚光を浴びた。その後「ひとり寝の子守唄」(1969年)「時代おくれの酒場」(1977年)などでソンガーソングライターとしてヒット曲を生み出すとともに、「知床旅情」(1970年)「リリー・マルレーン」(1975年)「ANAK(息子)」(1978年)など、国内外の埋もれていた名曲の発掘でも定評があった。
80年代初頭、フォーク、ニューミュージックの勢いに陰り…
しかし、フォーク、ニューミュージックの勢いに陰りが見えてきた80年代初頭、加藤登紀子も困難な状況におかれることになった。この時期、個人的にも夫との離婚の危機に直面するなど問題を抱えていた彼女は、突破口を切り拓くことを意図して1982年3月に日比谷公会堂で、YMOの坂本龍一、現代音楽作曲家の高橋悠治という異色のコラボレーションによるコンサート『オン・ザ・ボーダー』を行った。
さらに、翌年には坂本龍一をプロデューサーに迎え、ブレヒト・ソングなどの1930年代ヨーロッパを彩った名曲をカバーしたアルバム『愛はすべてを赦す』(1982年)を発表。翌年には、太平洋戦争以前の日本歌謡をカバーしたアルバム『夢の人魚』(1983年)を、やはり坂本龍一と上野耕路のプロデュースにより発表するなどの大胆な音楽アプローチで注目を浴びた。
続く1984年、自作曲によるミニアルバム『デ・ラ・シ・ネ』に続き、オリジナルフルアルバム『最後のダンスパーティー』を発表。このアルバムは白井良明、武川雅寛などムーンライダーズのメンバーが全面参加したサウンドづくりでも注目された。この『最後のダンスパーティー』に収められていた楽曲のひとつが「難破船」だったのだ。
加藤登紀子から中森明菜へ渡された「難破船」のカセットテープ
加藤登紀子が「難破船」を中森明菜に提供することになったいきさつについては、すでに本人も語っている。22歳の誕生日を祝う言葉に対して、中森明菜が屈折した反応をするのを加藤登紀子がテレビで見た。その姿に共感した加藤は、仕事で一緒になった時に「よければ歌ってみませんか」と、「難破船」のカセットテープを明菜に渡した。その時の中森明菜に、加藤登紀子はこの曲をつくった時の自分に通じるなにかを感じたのだろう。
加藤登紀子の申し出に対するオフィシャルな返事は無かったが、地方の小さな町で行われた加藤の次のコンサートに中森明菜からの花が届いたという。そして1987年9月に、中森明菜の「難破船」が発売された。加藤登紀子はしばらくの間、この曲を自分が歌わないことで中森明菜をバックアップする姿勢を示した。
「難破船」が中森明菜にとって大きなエポックとなった作品であることは間違いないだろう。1982年のデビュー曲「スローモーション」以降、彼女は年間3~4枚のペースでシングルをリリースしている。それは、テレビの歌番組を主戦場にヒット曲レースを行っていた当時の歌謡界の人気歌手としては珍しいことではなかった。
けれど、やはり3~4か月で次々と新曲を出していかなければならないというのは、歌手本人だけでなく制作スタッフにとっても大きな負荷だったし、そこでどのように新鮮な “個性” や “魅力” を打ち出していくのかが、各陣営の腕の見せ所でもあった。とくに、タレントイメージが大きく人気を左右したアイドル歌手の世界では、新曲をどう展開していくかが大きなポイントだった。
シンガーとして向き合った多彩な作家陣の楽曲と、探り続けた表現の可能性
デビュー当初から中森明菜は、いわゆる女性アイドル歌手的な華やかさやかわいらしさよりも、どこか陰のある不良少女的存在感を打ち出していた。それは彼女の音域や歌唱スタイルを生かしながら、ライバルとされていた歌手たちとの差別化を図る意図の現れだったし、楽曲にもその方向性にそって作られるものが多かった。
そうした方向性はありつつも中森明菜のスタッフは、意識的に作家を固定せずにさまざまな作風の作家を起用しながら、彼女ならではの表現の可能性を探ろうとしているかのようだった。実際に楽曲を提供する作家陣も多彩で、大澤誉志幸「1/2の神話」、細野晴臣「禁区」、玉置浩二「サザン・ウインド」、高中正義「十戒」など、いわゆる歌謡曲シーンの作家とは一味違う顔ぶれも少なくなかった。
こうした多彩な作家陣による楽曲と、シンガーとして中森明菜がどう向き合っていったのかを見ていくのも非常に興味深い。けれど一方では、けっして器用に曲をこなしていったり、力技で自分のキャラクターに曲を引き寄せるのではなく、その曲の世界に自分を入れ込もうとしながら歌っているかのように見えた彼女には、次々と “新曲” を消費させていく形で曲と向き合わなければならないのは、なかなか辛いことなのかもしれないとも感じられた。もちろん、そんな風に感じてしまったのには、彼女の歌に漂っていた暗さのイメージも影響していたのだと思うけれど。
そのことを特に強く感じたのが「飾りじゃないのよ涙は」(1984年)を聴いた時だった。本当の個性をもったシンガーソングライターの曲の多くがそうであるように、井上陽水の曲も、“井上陽水が歌ってこそ伝わる” というツボがあって、他の歌手には歌いにくいというか、曲の神髄を伝えにくい側面がある。だから、これはかなりの冒険だったはずだ。けれど、中森明菜は見事にこの難曲を自分の歌として表現し切った。とくに、今でも “伝説” となっている、井上陽水、玉置浩二と共演した『夜のヒットスタジオ』はリアルタイムで観たけれど、まさに圧巻だった。失礼な言い方になるけれど「ああ、中森明菜が本気を出した」と感じたのを覚えている。
怖さを感じる? 中森明菜が歌う「難破船」の世界観
中森明菜が、曲の世界と自分をシンクロさせることで、シンガーソングライターの表現にひけをとらないリアリティある表現ができる、いわば “反応力” に優れた歌手であることは「飾りじゃないのよ涙は」でわかっていた。だから、彼女が「難破船」を歌った時にも、その表現力に対してはなんの疑いも無かった。それよりも、この曲の世界を、彼女がどう自分とシンクロさせたのか、この曲と同勝負したのかが、聴きどころなのだと思った。
その意味で、これは傑作であると同時に、ちょっと危険な歌なんじゃないかという気もする。なぜなら、中森明菜はこの曲が秘めている “絶望感” に尋常じゃない深さで入り込んでいると感じられるからだ。
「飾りじゃないのよ涙は」も失恋の歌だけれど、その歌には、悲しみに打ち勝とうとする強い覚悟が感じられた。だから聴いていてもどこか爽快感があった。けれど、「難破船」を聴いていると、その悲しみの深さにひたすら圧倒されてしまう。それだけでなく、その悲しみの世界から、こっちも抜け出せなくなりそうな怖さすら感じるのだ。
加藤登紀子が歌う「難破船」にはそこまでの怖さは感じないのに中森明菜の歌により怖さを感じてしまうのは、加藤登紀子が、かつての失恋という、すでに自分の中ではけりをつけているテーマで世界を構築しているのに対して、中森明菜が「難破船」の世界観を自分のリアリティに置き換えて表現し切っているからなのじゃないだろうか。
もちろん、それは中森明菜という歌手の力量の証明でもある。「難破船」の中森明菜は、彼女が楽曲の本質的な力を引き出すことができる表現者であることを示している。
けれどもしかしたらこの曲は、彼女が流行歌の歌手としての一線を越えようとしていることを暗示する曲でもあったのかもしれないとも思うのだ。
※2021年5月21日、2021年6月27日に掲載された記事をアップデート
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2022.09.30