3月6日

音楽が聴こえてきた街:タワーレコード渋谷の衝撃!黄色と赤のレコードバッグ

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レコードショップ「タワーレコード渋谷店」が渋谷区宇田川町で開店した日
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1981年3月、渋谷の宇田川町に「タワーレコード」オープン!


黄色地に赤いロゴの入ったヴィニール袋を学生カバンと一緒に脇に抱えて通学するのがカッコいいなって思った。考えてみれば、これが僕にとってのファッションの初期衝動だったのかもしれない。赤いロゴとはもちろん “TOWER RECORDS”。

81年の3月6日に渋谷区宇田川町にタワーレコード渋谷店(以下タワーレコード)はオープンした。もちろん、オープン時よりこの店の存在を知っていたわけでなく、おそらく、街でこの袋を小脇に抱える大学生なんかを見てカッコいいな!と思ったのが第一印象だと思う。

80年代のはじめ、流行を作っていたのは大学生?


思い返してみれば、80年代はじめの大学生というのは、ある種の憧れだった。ファッション、音楽の流行はすべて彼らが作っているものだと信じていた。この年の10月には文化放送で『ミスDJリクエストパレード』なども始まるから、その思いはなおさらだ。70年代終わりから始まるサーファーブームはより進化し、そこに BGM としてかかる音楽もライフスタイルの一部として提唱されていた。

渋谷のハチ公の眼前のビルにはシャワーズというカフェがあって、そこは雑誌『ポパイ』が提唱するカリフォルニア・カルチャーをそのままインテリアとして体現したような店だった。客層は大学生がほとんどだったと記憶しているが、高校生になると、僕は背伸びをして、デートの時など、この店を待ち合わせ場所として使うようになった。店の BGM は確か、テレビ朝日系の『ベストヒットUSA』でオンエアされていたものと大差なかったと思う。

3つの情報発信基地「タワーレコード ~ ベストヒットUSA ~ ミスDJリクエストパレード」


『ベストヒットUSA』の放送スタートが81年の4月4日だから、『タワーレコード ~ ベストヒットUSA ~ ミスDJリクエストパレード』この3つの情報発信基地が整って僕らのライフスタイルは大きく変わっていったと思う。街とテレビとラジオが連動して新しい文化を作っていたのだ。だからというか、マイノリティなサブカルチャーは、それほど派生しなかったのだと思う。

『ベストヒットUSA』のMTV文化が生活に大きく密着し、レコードの購買意欲をそそった。『ミスDJリクエストパレード』で女子大生のキャンディボイスで紹介される佐野元春や浜田省吾のナンバーは、ロックンロールのゴツゴツとした輪郭を緩め、深夜の凛とした空気に染みわたっていったのもこの時代ならではだ。

個人的には月曜担当、当時ブラディ・メリーというバンドをやっていた加藤エミさんのオトナっぽさと、これに相反する水曜日担当、「やるっきゃないわよ!」のキュートな掛け声でお馴染みだった千倉真理さんの大ファンで翌朝は眠い目を擦って学校にいったのを思い出す。

革命的だった「タワーレコード」まさにカルチャーショックそのもの!


閑話休題。『ミスDJリクエストパレード』は今思い出してみると邦楽主体で聴いていたような気がするのだが、『ベストヒットUSA』で手に入れた音楽ネタを仕入れるのに地元のレコード屋じゃ、なんかカッコ悪い。生活に密着してこその音楽だから、あの黄色地に赤いロゴの TOWER RECORDS で。というのは当時東京に住む若者の共通見解だったのもしれない。

そんな流れで僕も宇田川町のタワーレコードに足を運んだものだ。当時のタワーレコードといえば、東急ハンズの坂をおりたちょうど “谷” の部分にあった。向かいは牛丼の吉野家で、ジーンズメイトが階下にあるビルの2階だった。確か中学2年の春に初めてこの場所に訪れた。その時の衝撃は今も自分の中に鮮明に残っている。

流行の発信基地といった風の想像とは相反した倉庫のような店内に、A~Zと区分けされたレコードが雑然と並ぶ。この無機質さこそが、街のレコード屋にはない “革命的” といっても過言ではないほどの衝撃だった。店内には、あのヴィニール盤のツンとした匂いが充満している。まさにカルチャーショックそのものだった。

そして、僕はここで輸入盤という存在を初めて知ったのだ。帯がない!レコードはシュリンクされているだけ!そしてとにかく安い!レコードと言えば82年当時国内盤が2,800円だった。それを予約して特典のポスターをもらうというのが常だったが、そういう常識がすべてここで打ち破られてしまったのだ。

黄色と赤のレコード袋、これが最先端の音楽ライフ!


LP盤が1,000円台で買えたことがとにかく嬉しくて。そこで音楽がグッと身近になってきた。帯なしも特典なしも、すべてあの黄色地に赤いロゴが入った袋に入れてくれることで、それを凌駕してしまうぐらいの価値観が当時中学生の僕にはあった。確か一番初めに買ったのはバディ・ホリーのベストアルバムで1,000円前後だったと思う。

少し前の誕生日に祖父から買ってもらった映画『アメリカン・グラフィティ』のサントラ(当時はフィフティーズのリバイバルでオールディーズも大流行していた)のなかでお気に入りの一曲のアーティストがバディ・ホリーだった。ヒットチャートを賑わせているアーティストではなかったが、だからこそ、初めて自分で音楽を “開拓” したのが嬉しくて仕方がなかったことを思い出す。あの袋を抱えて公園通りから渋谷駅に向かっている自分は、東京のど真ん中にいて、最先端の音楽ライフを楽しんでいるような感覚に陥り、意気揚々としていたのだった。

このように僕の音楽ファン歴の幕開けにはこのタワーレコードがあった。その後、渋谷の街はディープに、そして華やかになっていくのだが、僕の中では、なにか物足りなさを感じる。あの “倉庫” のようなタワーレコードの店内を凌ぐ衝撃には出会えていないからだ。タワーレコードが僕に与えたもの。それは、あまりにも先駆的だったと今さらながら実感する。


※2019年6月6日に掲載された記事をアップデート

2020.03.06
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カタリベ
1968年生まれ
本田隆
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