2月3日

時代を読んだリッチー・ブラックモア、レインボーが80年代を乗り越えるための方法論

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HM/HRシーンで見る1981年、アメリカを本気で目指したレインボー


「エイティーズの本格稼働は、1980年ではなく1981年だった」という論調を、リマインダーのコラムのいくつかで拝見して、なかなか面白い考察だなあと思った。リマインダー主宰の太田秀樹さんの提唱が元になっているのだけど、これを80年代のHM/HRシーンに当てはめるとどうなのだろうか、とふと考えてみた。

ジャパメタでいうと、レイジーが解散してラウドネスが結成デビューしたのが、まさに1981年だった。バウワウも1981年にHM/HR路線に完全回帰した会心作『ハード・ドッグ』をリリースしており、ここから80sのジャパメタブームに繋がる流れが本格稼働した、という意味合いとしてはドンピシャだろう。

これが洋楽のHM/HRでは、そう簡単にいかない。以前、 『NWOBHM「ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル」日本上陸40周年!』でも書いたように、日本では1980年を起点とするNWOBHMのムーブメントこそが、新世代80sメタルの夜明けと考えられるからだ。

けれども、NWOBHMがあくまでイギリス発のムーブメントだと考えると、少々事情が変わってくる。というのも、80sのHM/HRシーン全般を総括して振り返ると、その主戦場はイギリスではなく、アメリカの巨大なマーケットを中心とする一大ムーブメントだったからだ。即ち、アメリカでの成功こそが、アーティストにとって最大の果実だったのは間違いない。

そうした視点で見れば、イギリスの大物ハードロックバンドのレインボーまでもが、アメリカを本気で目指し始めた『アイ・サレンダー(Difficult to Cure)』を発表した1981年は、HM/HRにとってのエイティーズが本格稼働し始めた年、といっても差し支えないだろう。

70年代レインボーの象徴、リッチー、ロニー、コージーの3頭体制の終焉


70年代半ば、ディープ・パープル脱退後にレインボーを結成したリッチー・ブラックモアが、ロニー・ジェイムズ・ディオ、コージー・パウエルとともに、ハードロック史上最強の3頭体制で、様式美ハードロックの全てを確立したことは、誰もが知るところだ。

僕のレインボーとの出会いも、3頭体制時代の最後を飾る『バビロンの城門(Long Live Rock 'n' Roll)』の頃だったけど、程なくして3頭の一角、ロニーが脱退してしまう。リッチーはロニーの後任ヴォーカルにグラハム・ボネット起用し、1979年7月に『ダウン・トゥ・アース』を発表した。従来の大作主義から、よりコンパクトな作風へと変化した象徴が、シングル「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」だった。

イギリスのアーティスト、ラス・バラードの楽曲のリメイクでポップな曲調は、従来のレインボーのイメージを大幅に覆した。全米チャート57位とスマッシュヒットした一方、ファンからは賛否を巻き起こした。さらにはコージーがこの曲を演奏したくないと公言するなど火種を生み、80年の『モンスターズ・オブ・ロック』を最後に、コージーも脱退してしまう。

無名の逸材ジョー・リン・ターナーが輝かせた80年代のレインボー


賛否といえば、新加入のグラハムに対しても同様だった。今でこそレジェンダリーな存在として語られるグラハムだが、加入当時は、およそロックミュージシャンらしからぬ髪型やコスチュームへの、否定的な見方が大半だった。

御大リッチーが見初めただけに、その力量は一目を置かれたものの、パワフルなヴォーカルスタイルは、ハードロック色の強い楽曲でこそ、さらに威力を発揮した。それだけに、「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」のような楽曲に、よりフィットしているとは言い難かった。

グラハムとともに次作の制作に入ったレインボーだったが、レコーディング半ばでコージーの後を追うように、グラハムも脱退してしまう。この局面でリッチーが白羽の矢を立てたのが、ジョー・リン・ターナーだった。ファンダンゴで活動していたジョーは、HM/HRシーンで無名の存在だったものの、その決断こそがレインボーを80年代に輝かせ、新たなステージへと誘う決定打となった。

80sモードに完全シフト! 万人の心を掴んだ名曲「アイ・サレンダー」


ジョーを迎えたレインボーを僕が初めて聴いたのは、渋谷陽一さんのNHK-FM『サウンドストリート』を通じてだった。以前、対象となる文言『爆走ロックンロール! スピードの魔力を教えてくれたモーターヘッド』で書いたように、渋谷さんのイメージから意外だが、HM/HR系の新作も選曲してくれたこの番組は、当時の貴重な情報源だった。

その日は、ニューアルバムがリリースされるタイミングで、新作『アイ・サレンダー』から、何曲かオンエアされた。番組の冒頭に渋谷さんの曲紹介で「アイ・サレンダー」が流れたのを、40年も前なのにはっきりと覚えている。それは聴いた瞬間に「何て良い曲なんだろう!」と心の琴線に強く触れたからだ。

クセのない万人の心を捉える声質を持つジョーが歌う、キャッチーで哀愁を漂わせた美しいメロディと、1度聴けば忘れられない強烈なフックのあるサビのコーラス。そして、あくまでも曲を引き立たせて、浮遊するようにメランコリックに奏でられる御大リッチーのギターワーク。ラス・バラードの楽曲を再び採用した「アイ・サレンダー」は、80sモードに完全シフトした、新生レインボーを高らかに宣言するかのようだった。

絶大なインパクトを放った「アイ・サレンダー」だけに、かつてのロニー、コージー時代を愛する旧来のファンからは、賛否の声が巻き起こった。けれども、アルバムには、様式美ハードロックの教科書的な名曲「スポットライト・キッド」や、リッチーのギターの真髄を堪能できるインスト「メイビー・ネクスト・タイム」、第九をモチーフにした「治療不可(Difficult To Cure)」など、ロニー時代のファンを納得させる楽曲も揃えた。

一方で、当時ヒットを連発していたフォリナーを意識したようなテイストの、外部ライターによる「マジック」も収められ、振り幅の大きい収録曲は、レインボーの全米マーケットでの可能性の広がりを示すことになった。

アメリカでの確かな成功を手中に収めた新生レインボー


『アイ・サレンダー』は、全米マーケットで一定の成功を収めたものの、人気の中心は「アイ・サレンダー」が全英チャート3位の最高位を獲得した本国イギリスと日本であり、リッチーが期待する結果が得られなかったのも事実だ。

それでも、『アイ・サレンダー』で確立した新たな方向性は、80年代のレインボーが進むべき確たる礎となった。1981年末には12インチEP「ジェラス・ラヴァー」でラジオオンエアを稼ぎ勢いをつけ、1982年には『闇からの一撃(Straight Between the Eyes)』をリリース。ライヴも本国イギリスをスキップして全米をツアーする徹底ぶりで、アルバムはビルボード30位を獲得。シングル「ストーン・コールド」もMTVでヘビーローテーション入りする中でビルボードのHOT100でTOP40入り、また、同トップ・ロック・トラックスで1位を獲得するなど、遂にアメリカでの確かな成功を手中に収めた。

1983年には、アメリカ制覇に向けた集大成『ストリート・オブ・ドリームズ』をリリースするも、ディープ・パープルの再結成に伴い、レインボーはその活動を休止した。80年代中後期も活動を継続していたなら、アメリカでさらなる成功を収めたかもしれない。

アメリカの重要性を先読み、柔軟に時代を捉えたリッチー・ブラックモア


振り返ると新生レインボーは、HM/HRシーンにおけるアメリカのマーケットの重要性を先読みしたかのように、のちに必要とされるセオリーを実践していったようにみえる。

まず、リッチーほどの有能なソングライターが、あくまでもラジオフレンドリーな楽曲にこだわり、外部ライターの楽曲を積極的に採用。結果として、全米の最重要メディアであるラジオでの強力なプロモーションを推進できた。前述の「ストーン・コールド」こそ、バンド自身の楽曲だったが、ラジオを狙う感覚を投影したはずだ。

さらに、グラハム期にも実践していたが、MTV時代の到来を先読みするかのように、当時HM/HR系ではまだ限られていた、ミュージックビデオを積極的に制作した。日本では小林克也さんの『ベストヒットUSA』でいち早くオンエアされたのを記憶している。

そして、どんなタイプの楽曲もこなせるヴォーカル力に加え、ルックスにも恵まれたジョーの才能を見出した、リッチーの判断は見事だった。もしグラハムのままでは、アメリカでの快進撃は叶わなかったかもしれない。

こうして挙げていくと、かつて頑固な天才ギタリストに見えたリッチーが、いかに柔軟で、時代を捉える自在性を持つアーティストであるか、容易に理解できる。

HM/HRシーンにおける1981年に、意味を持たせた「アイ・サレンダー」


レインボーは、オールドウェイヴと揶揄された70年代のアーティストが、80年代を乗り越えるための方法論に加え、ブリティッシュのHM/HRバンドが、80年代の全米マーケットへ進出するための、大いなるヒントと道筋を与えたのだ。

『アイ・サレンダー』は、ここ日本においてもゴールドディスクに輝いたように、HM/HRファンの裾野を広げる、多大な貢献を果たした作品になったと思う。タイトル曲を耳にして、アルバムを入口にHM/HRを好きになった人は多いはずだ。

1981年、HM/HRシーンが、まさにアメリカのマーケットに向けて本格的に展開していく先陣となった『アイ・サレンダー』。これからもHM/HR史上の重要な作品として、燦然と輝き続けるであろう。



2021.02.03
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