11月21日

筒美京平と歌謡曲黄金時代、1971年と1985年は “奇跡の年”

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1971年、時代の転換点とビッグニュースに挟まれた “谷間の年”


谷間の年がある。

例えば、1971年がそう。前年の1970年は大阪万博の年であり、また、ビートルズが解散し、女性ファッション誌の草分け『anan』が創刊されるなど、よく時代の転換点として語られる。3月によど号のハイジャック事件が起き、11月に三島由紀夫が割腹自決するなど、何かと物騒な年でもあった。

また、1972年も “今太閤” こと田中角栄が憲政史上初の小学校卒の総理大臣になった年として知られる。日本と中国が国交回復し、パンダのカンカンとランランが上野動物園へ。また、2月に札幌オリンピックとあさま山荘事件、5月に沖縄が日本に返還されるなど、この年もビッグニュースが相次いだ。

だが、その間の1971年はどうだろう。大抵、近代史でも素通りされがちだ。せいぜい、マクドナルドが日本に上陸して、銀座・三越にオープンしたエピソードくらい。“谷間の年” と言われる所以である。

その年こそ歌謡曲の起点、筒美京平にとっては “奇跡の年”


しかし、である。僕はその風潮に異を唱えたい。なぜなら、この1971年こそ、先ごろ亡くなられた不世出の作曲家、筒美京平先生の “奇跡の年” だからである。そう、かのアルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論を始め、ブラウン運動や光量子仮説など、物理史に燦然と輝く5つの重要論文を立て続けに発表した1905年を “奇跡の年” と呼ぶように――。論より証拠、かの年の筒美先生作曲の主なシングル曲を挙げてみよう。

■ また逢う日まで / 尾崎紀世彦(3月5日) 
■ さらば恋人 / 堺正章(5月1日)
■ 真夏の出来事 / 平山美紀(5月25日)
■ 17才 / 南沙織(6月1日)
■ 青いリンゴ / 野口五郎(8月10日)
■ お世話になりました / 井上順之(現・井上順 9月25日)

――いかがだろう。歌謡大賞・レコード大賞2冠の「また逢う日まで」を筆頭に、マチャアキの大ヒット曲「さらば恋人」、元祖ポップスの「真夏の出来事」、元祖アイドルソングの「17才」、野口五郎をアイドルに転向させた「青いリンゴ」、マチャアキの相棒、井上順サンの代表曲「お世話になりました」―― 等々。これらが全て同じ年に作曲されたのだ。どれも歌謡曲通でなくても、今でも普通に口ずさめる曲たちだ。

そう、歌謡曲――。
実はこの3文字こそ、筒美先生を語る時に外せない重要なキーワードになる。よく「歌謡曲はいつ始まったか?」という議論があるが、大抵、1960年代後半のグループサウンズや、その前のムード歌謡あたりが起点と語られがちだが、僕は筒美先生の奇跡の年の1971年こそ、歌謡曲の起点になると唱えたい。そして、その扉を開けたのが、同年3月5日にリリースされた尾崎紀世彦サンの「また逢う日まで」だったと――。

 また逢う日まで
 逢える時まで
 別れのそのわけは
 話したくない

いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」で初のオリコン1位


早いもので、筒美京平先生が先月の7日に亡くなられて、もう1ヶ月が過ぎる。そこで、今日は筒美先生と歌謡曲の関係性について、僕なりの解釈を講じてみたいと思う。

筒美京平―― 生まれは、東京・神楽坂である。3代続く生粋の江戸っ子で、実家は商売を営み、暮らし向きは裕福だったという。5歳でピアノを始め、小学校から大学までを青山学院で過ごす。大学時代はジャズに傾倒、新橋や銀座のキャバレーでピアノを弾いて腕を磨いたそう。

就職は、先輩のツテでポリドールへ。4年間、洋楽ディレクターとして過ごし、1965年ごろに青学の1年先輩で作詞家の橋本淳サンの紹介で、すぎやまこういちサンに師事。作曲家の道を歩む。

そして1967年、ポリドールを退社して、晴れて専業作家に。ペンネームの “筒美京平” は叔父の発案で、当初は “鼓響平” だったそう。同年、弘田三枝子の「渚のうわさ」で知名度を上げ、翌68年のオックスの「ガール・フレンド」で初のオリコントップ10入り。さらに、同年暮れにリリースした、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が初の1位に――。

かくして、筒美京平先生は職業作曲家の地位を確立する。だが、1969年、70年と順調にリリースを重ねるも、西田佐知子サンの「くれないホテル」など隠れた名曲はあるものの、まだこの時点では、あのキャッチーでメロディアスな筒美マジックは見られない。やはり―― 1971年なのだ。そう、奇跡は突然やってくる。

歌謡曲黄金時代の幕開け、尾崎紀世彦「また逢う日まで」


 なぜかさみしいだけ
 なぜかむなしいだけ
 たがいに傷つき
 すべてをなくすから

「また逢う日まで」にまつわる話は多い。やれ、もともとはサビのメロディーが「サンヨー・ルーム・エアコン」のCMソングだったとか、前年の1970年にズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」としてリリースしたけど全然ヒットしなかったとか、それを埋もれさせるには惜しいと、音楽出版社の村上司プロデューサーが尾崎紀世彦に歌わせようと、阿久悠先生にタイトルと詞の改変をお願いしたとか、レコーディングの際、イントロの「タッタータタッタタ(ドォン)」のドォンの音作りに苦労したとか――。

しかし、まあ、苦労しただけあって、「また逢う日まで」は売れた。「マイウェイ」のフランク・シナトラばりに、尾崎紀世彦サンが朗々と歌い上げた効果もあり、売れに売れた。山下達郎サンに「1曲の中に3曲分くらいのメロディーがある」と言わしめるほど、それはイントロからサビまで、どこを切り取ってもメロディアスだった。

思うに―― 僕は、同曲が歌謡曲の時代を幕開けさせたのだと思う。つまり、“メロディーの時代” の到来だ。実際、筒美先生自身、この後に続く「さらば恋人」、「真夏の出来事」、「17才」等々で、いずれも別々のアプローチでキャッチーなメロディーを作り上げている。これら一連のヒットが他のレコード会社や作曲家陣に与えた影響は決して少なくなかったろう。

現に、1972年、73年と、日本は空前の歌謡曲ブームを迎える。これらの起点が、71年の筒美京平作品にあると考えるのは、極めて自然なことじゃないだろうか。それくらい、71年を境に日本の歌謡曲シーンは激変したのである。

 ふたりでドアをしめて
 ふたりで名前消して
 その時心は何かを 話すだろう

キャッチーなメロディーをベースにヒット曲を量産!


ここから先の話は長くない。

筒美京平先生の “奇跡の年” ―― 1971年に幕開けた歌謡曲の時代は、途中、フォークや演歌、ニューミュージックなどを巻き込みながら、キャッチーなメロディーという共通の価値観のもと、70年代から80年代にかけてヒット曲を量産した。

まさに、それが可視化されたのが、TBSの『ザ・ベストテン』だった。後方のソファーにはアイドル歌手とシンガーソングライターと演歌歌手が並んで座り、一方、お茶の間も一家揃って彼らの歌を聴いた。どの曲も覚えやすく、広義の歌謡曲だった。1980年12月25日には、番組最高視聴率41.9%を記録した。

街はヒット曲であふれ、老若男女がそのタイトルを言えた。音楽がボーダレスな時代だった。筒美先生もコンスタントにヒット曲を輩出した。その間、TBSの『輝く!日本レコード大賞』は視聴率30%を越え、『NHK紅白歌合戦』は驚異の70%台の高視聴率を続けた。

消えゆく歌謡曲へのレクイエム? 1985年もまた “奇跡の年”


しかし―― その時は突然やってきた。
1985年4月、『ザ・ベストテン』から久米宏サンが降板、9月には井上順サンがフジの『夜のヒットスタジオ』から卒業した。また、同年、松田聖子サンも結婚して、活動休止へ。『紅白歌合戦』の視聴率は前年の78.1%から66.0%へ急落し、『レコード大賞』の視聴率はこの年が最後の30%台になった。

そう、歌謡曲の時代が終わろうとしていた。かつて境界線が曖昧だった音楽は差異化が進み、人々の嗜好も分散し始めた。それが可視化されたのが1985年だった。もはや歌謡曲はダサくて過去のもの――。しかし、そんな空気が蔓延し始めた矢先、2度目の奇跡が起きる。

それは、14年ぶりの “奇跡の年” だった。この年、筒美京平先生は再び伝説を残す。以下は、1985年にリリースされた、筒美先生作曲の主な楽曲である。

■ Romanticが止まらない / C-C-B(1月25日)
■ 卒業 / 斉藤由貴(2月21日)
■ あなたを・もっと・知りたくて / 薬師丸ひろ子(7月3日)
■ Temptation(誘惑) / 本田美奈子(9月28日)
■ なんてたってアイドル / 小泉今日子(11月21日)
■ 仮面舞踏会 / 少年隊(12月12日)

―― 壮観だ。歌い手は多岐に渡り、楽曲の趣向も幅広く、どれもキャッチーなメロディーを内包している。これらが同じ年に作曲されたなど、もはや奇跡でしかない。もしかしたら、それは筒美先生による、消えゆく歌謡曲へのレクイエムだったのだろうか。

灯滅(とうめつ)せんとして光を増す―― ろうそくの炎は消える直前、最も明るく輝くという。




2020.11.08
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