爽快な “ギャグ” をカマしてくれた「君に、胸キュン。」 YMOって、もしかして “お笑い” に行こうとしてない?
1983年元日、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の正月特番を観ていた15歳の私は、つい余計な心配をしてしまった。侍の格好で登場し、「三匹の用心棒」という時代劇コントを演じたYMO。その前年、1982年には、同じく横澤彪氏がプロデュースするフジテレビ系の『THE MANZAI』に「トリオ・ザ・テクノ」として出演。漫才というか、一発芸を披露して話題になっていた。
もちろん、シャレで出ているのはわかっていたけれど、1982年は各自ソロ活動に打ち込み、音楽活動は実質的に休止していたし、常に想像のナナメ上を行くことばかりやってきた3人だったので、ついそう思ってしまったのだ。実際は、お笑いトリオにこそならなかったものの、YMOは音楽のフィールドで爽快な “ギャグ” をカマしてくれた。そう、1983年3月にリリースしたシングル「君に、胸キュン。」である。
異例の “日本語ボーカル曲” であり “超売れ線の歌謡曲” カネボウ化粧品、春のキャンペーンソングとしてタイアップが決まっていたこの曲は、YMOにしては異例の “日本語ボーカル曲” であり “超売れ線の歌謡曲” だった。細野から作詞を依頼された松本隆が “本当にこんな歌詞でいいの?” と何度も念押ししたほどだ。3人が振り付け込みで歌って踊り、モデル風の美女を追いかけ回す立花ハジメ監督のプロモーションビデオも衝撃的だったけれど、彼らはさらに『ザ・ベストテン』(TBS系)などの歌番組や、なんと『クイズ・ドレミファドン!』(フジテレビ系)にも出演。30代のオッさん3人が、まるで売れっ子のアイドル歌手のように振る舞った。
“いい年して何やってんだ?” を敢えてやる。スタイリスティックで先端を行くそれまでの活動と真逆の、過去の名声を破壊していくような「君に、胸キュン。」はCM効果も手伝ってオリコン2位まで上昇、YMO最大のヒット曲になった。彼らの “大人の悪ふざけ” は結果的に、セールス面でも大成功をもたらしたわけだ。
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松本隆と組んで、日本語の曲を作った ところで、これまでYMOのボーカル曲は、高橋幸宏がモゴモゴと英語で歌っていたのに、なぜ突然日本語で歌うことになったのか? 細野はこう語っている。
「前から日本語でやりたかったんですけど、イマイチ吹っ切れなかったみたいなところがあって。日本語ってムズかしいから」
『WEEKLYオリコン』1983年4月8日号より
つまり、“YMOのシングルで松本隆と組んで、日本語の曲を作った” ことが細野にとっては重要だった。なぜ日本語でやるのは “ムズかしい” のか? 幸宏の言葉を借りると、こういうことだ。
「YMOの歌詞は、すごくシビアだったでしょ? それは英語だったから、できたの。同じような内容を日本語で歌うのには無理がある。混乱とか混沌とかいう言葉を歌にできる?」
『キーボード・マガジン』1983年3月号より
たしかに。でも幸いなことに、タイアップ曲の「君に、胸キュン。」はもともと歌謡曲路線で行くことが決まっていて、小難しい言葉を使わずに済むラブソングだ。また細野には、はっぴいえんど時代 “日本語でロックを演る” という難題に向き合ってきた盟友・松本隆という強い味方がいた。こうして “YMOの曲を日本語で” という細野の念願が叶うことになったのである。
松本は日本のウェットな雰囲気とは真逆の “ヨーロッパの避暑地” をイメージして詞を書き上げた。
「『胸キュン』も、本質的な曲の作り方は、全然歌謡曲じゃないですから。このころはまだ、日本独特の湿っぽい風土が、歌謡界にもまだありましたからね」
YMO読本『OMOYDE』より / 細野談
YMOが半分シャレで歌謡曲をやっているように見えた「君に、胸キュン。」は細野にとって、盟友の手を借り、日本語という大きなハードルを越えた曲でもあった。
全曲歌モノのアルバム「浮気なぼくら」 日本語の歌モノをヒットさせるという大きな成果を手にしたYMOは、「君に、胸キュン。」発売から2ヵ月後の1983年5月、全曲歌モノのアルバムをリリースした。『浮気なぼくら』である。もちろん、オリコンアルバムチャート1位に輝いた。
作詞はメンバー3人と松本隆、ピーター・バラカンが担当。これまでのアルバムは細野がプロデューサーとしてクレジットされていたが、本作のプロデュースは “Y.M.O.” に変更されている。3人の方向性が明確に分かれてきたからだ。このアルバムで注目は、坂本が作詞・作曲したA面4曲目「ONGAKU / 音楽」。娘の坂本美雨のために書いた曲で、美雨は当時3歳だった。
ぼくは地図帳拡げてオンガク
きみはピアノに登ってオンガクハハ
待ってる一緒に歌う時
坂本は当時、幼い美雨にさまざまなジャンルの曲を聴かせていた。英才教育だったのかもしれないが、実は自分のためでもあって、幼児が曲を聴いてどんな反応を示すかを見ていたのだ。3歳児は曲の背景とか、曲を書いた人が誰かなんて知らないので、曲に対してバイアスなしで純粋に反応する。もし踊りだしたり口ずさんだりしたら、それは掛け値なしで “いい曲” ということだ。“音楽とは何か?” をあらためて問う曲で、教授はこの時点ですでに “YMOの次に進むべき道” を模索していたことが窺える。
NHKが毎日オンエアしていた「以心電信」 もう1曲注目したいのはB面1曲目(CDでは6曲目)、国連が制定する『世界コミュニケーション年』のキャンペーンソングとして、1983年元日からNHKが毎日オンエアしていた「YOU'VE GOT TO HELP YOURSELF / 以心電信(予告編)」だ。“予告編” とあるのは、この時点ではフルで完成していなかったからで、このアルバムに収録されているのは30秒のインストバージョンだ。完成版は9月にシングルとして発売された。作詞は細野とピーター・バラカンの共作で、幸宏も手伝った。作曲は幸宏と坂本で、後期YMOでは珍しい3人の合作である。
幸宏のビートルズ愛を感じる曲で、ボーカルも最高。タイトル通り、くどくど説明しなくても内なるメッセージが伝わってくる曲だ。だがこの曲、細野はNHKから “歌詞の意味がわからない” と言われたという。“自分自身を助けよう” というコンセプトが伝わらなかったそうだ。
「実はこの『自助』っていう言葉は、当時アメリカでやっと芽生えたばかりの思想でね。幼児虐待とか、そういう社会現象の中から出てきた考え方なんですけど、子供たちに自分を助ける術を教育しなくちゃいけないというのがあったんですね。僕はコミュニケーション年なら、テーマはそれだろうと思って」
『YMO GO HOME』ブックレットより / 細野談
これは非常に今日的なテーマであり、YMOがいかに時代の先の先を行っていたかがよくわかる。だが残念なことに、当時の日本では真意はあまり伝わらなかった。そしてこの “伝わらないもどかしさ” を、細野はこの1983年、たびたび感じるようになっていた。「胸キュン」のヒットでYMOはよりメジャーになったけれど、そのことで “世間の人たちが、YMOの隠れた魅力に目を向けてくれなくなった" と細野は嘆く。
「YMOが冗談やってる部分も面白いかもしれないけど、そういうところばかり見ないで、目に見えない部分のパワーっていうのは、YMOを分析すればかなりわかると思うんだ。でも、それを感じてくれる人があまりにも少ない。感じてくれない人とは、僕はコミュニケーションとろうとは思ってないわけ」
(1983年10月『高橋幸宏のオールナイトニッポン』より / 細野談)
もうYMOでやりたいことはあらかたやり尽くし、3人の方向性の違いがハッキリしてきたことも理由だったのだろう。1983年10月、YMOは “散開” という独特の言い回しで、事実上の解散を宣言。11月から最後の全国ツアーを始め、12月22日、日本武道館で行われた最終公演をもって音楽活動を終了、“散開” した。「君に、胸キュン。」とアルバム『浮気なぼくら』は、世間と彼らの距離を縮めた一方で、3人にYMOを終わらせる決断をさせた2枚だったように思う。
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2025.05.15