中野サンプラザとサンプラザ中野。切っても切れない関係
JR中野駅前の複合施設 “中野サンプラザ” は、2023年7月2日をもって閉館した。1973年の開館以来、コンサートホールでは洋邦問わず幅広い音楽ジャンルの名演が繰り広げられてきた。リマインダーで取り上げられる20世紀に活躍した多くのアーティストとそのファンにとっては、歴史の重要な1ページを飾ってきた有名ホールだけに感慨もひとしおだろう。
個人的には、1983年にラウドネスがリリースした2枚組ライブアルバム『LIVE-LOUD-ALIVE LOUDNESS IN TOKYO』の裏ジャケットに写った、中野サンプラザのステージ全景が印象的で “いつかここでライヴを観たい!” と思った記憶がある。
のちに上京して数多くのライブを目撃したが、約2,200キャパの座席はどこからでも観やすく、アーティストとオーディエンスの一体感も抜群だった。僕ら世代(1968年生まれ)はスタンディングのホールではなく、1,000〜3,000キャパ程の座席付きホールに愛着を感じている方が多いだろう。
そんな音楽ファンなら誰もが知るコンサートホールの名称を、逆さにして自らに冠してしまった前代未聞のアーティスト、“サンプラザ中野” のユニークさは際立っている。もともと爆風スランプの前身バンドであったSUPER SLUMPが、アマチュアバンドコンテストに出場した際の会場が中野サンプラザで、本名が “中野” だったことから名付けられたという由来が何とも面白い。もし本名が “渋谷” だったら、“公会堂渋谷” と名付けるようなものだ(笑)。
あまりにアーティスト名が強烈すぎるゆえに、中野サンプラザに行くとサンプラザ中野が思い浮かんでくるし、サンプラザ中野の姿を見ると、中野サンプラザをふと思い出してしまう…。それは冗談としても、そのくらい密接なものとして世に認知されたのは間違いないだろう。
後年、爆風スランプが放った大ヒット曲「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる想い」。そのユニークなタイトルが “日本武道館” の屋根の上に乗る擬宝珠(ぎぼし)を指しているのは、ファンならずとも知られるところだ。アーティスト名のみならず、今度はサンプラザ中野自身が作詞した楽曲を通じ、再びライヴ会場に絡めて、日本武道館を一層親しみある存在に浸透させてみせた。今でも武道館に行くたびに、「大きな玉ねぎの下」のメロディが自然と脳内に流れてしまうのは言うまでもない。
ちなみに、7,000キャパになるという新バージョンの中野サンプラザがお目見えするのは2028年ごろ。こけら落とし公演はサンプラザ中野くんで如何だろうか。
最高の褒め言葉? ソニー3大色物バンドの一角を担う爆風スランプ
誰が言い始めたのか “ソニー3大色物バンド” とは上手く言ったものだ。80年代のソニー系レーベルを彩った、聖飢魔Ⅱ、米米CLUB、そして爆風スランプをひと括りにした俗称は、一見ディスっているようで、その実はポジティヴな意味合いも持ち合わせた、言い得て妙な表現になっていると思う。
どのバンドもとりわけデビュー前後の初期は、超個性的でイロモノ度合いが際立っていた。そもそもバンド名、各メンバーのアーティスト名や風貌からして、今時のバンドではありえないインパクトだ。音楽性こそ違えど、それぞれ既存ジャンルの枠に収まらない多様性を持ち、それを表現する確かな歌唱力と技巧をベースにユニークで質の高いライブパフォーマンスを展開した点など、共通する部分は多い。
中でも、コミックバンドすれすれの線をついた爆風スランプのキャラの突き抜け具合は、一歩抜きん出ていたように思える。サンプラザ中野に負けじとパッパラー河合、江川ほーじん、ファンキー末吉と名づけた4人は、ファンク、ロック、J-POPをはじめ、あらゆるジャンルを貪欲に取り入れごちゃ混ぜにして、ボーダレスなサウンドと楽曲を繰り出した。そこにサンプラザ中野の野太くアクの強い声質と歌唱で、ユニークかつ過激な言葉を巧みに綴った歌詞を乗っければ、もはや爆風スランプというジャンルと言える個性的な音楽が完成した。
スラップベースの達人である江川ほーじんをはじめ、各メンバーのバカテクぶりは相当なもので、それを包み隠さず武器にして主張しつつも、ライブでは消火器をぶち撒け花火をぶっ放すなど過激なパフォーマンスを展開。今時のスマートなバンドにはない振り切れたバンドキャラで、聴く者、観る者を魅了し続けた。
3バンドともキャリアを重ねる中でいい意味の落ち着きを見せて、アーティストとしての成長を遂げながらヒットやセールスを積み重ね、ライブの動員を増やし、メジャーバンドとして広く成功を収めた点でも共通している。それは色物であることの裏返しとしての圧倒的な個性、確たる実力を秘めていたからであるのはいうまでもない。
爆風スランプに関しては、より売れるための商業主義的な方向性に疑問を感じた江川ほーじんの離脱という残念な事態を招いてしまったけど、「Runner」などの大ヒットを生み出すに到る道程には、破天荒にどこまでも自由なスタンスで音楽をクリエイトし続けた、アーティストとしての礎があってこそなのだろう。
ジャパメタブームに向けた絶妙なイジリの産物「たいやきやいた」
そんな爆風スランプならではの “センス・オブ・ユーモア” を爆発させた1曲が、「たいやきやいた」だ。左右どちらから読んでも「たいやきやいた」という人を食ったようなタイトルで、デビューアルバム『よい』と、デビューシングル「週刊東京『少女A』」のB面にも収録されている。
この曲が生まれた当時、日本のロックシーンでムーブメントを起こしていたのが、ジャパニーズメタルの波だ。次々と送り出されるメタル系バンドは、そのシーンに夢中なファンにとってそれぞれ違っていても、興味のない外野から見れば、どれも似たり寄ったりだと辟易されるのも無理はない。ジャパメタシーンの外堀からその様子を眺めていた爆風スランプは、次から次に登場する “ジャパメタバンド" たちを、同じようなカタチで次々に作られる “たい焼き” に例えたのだ。
「たいやきやいた」は、ヘヴィメタルにありがちなギャロップのリズムを、ほーじんによる強烈なエッジのスラップベースと、パッパラーのディストーションギターで刻んだギターリフで始まる。“まさか、爆風がジャパメタの軍門に下ったのか!?” ―― と思いきや、メタルの様式美をぶち壊すに相応しいサンプラザ中野の歌声が入った瞬間、それは大きな勘違いだったことがわかる。マジなのかふざけているのか、ジャパメタをおちょくっているようでいて、純粋にジャパメタとして聴くと完成度が高い。まさに痛快無比な爆風ワールド全開の楽曲に仕上がった。
ジャパメタの珍名曲? 面白さを突き詰めるならミュージックビデオを観るべし!
楽曲が持つ面白さの本質を理解するには、ミュージックビデオ(MV)を観るべきだろう。僕も当時このMVを音楽番組で偶然に観て、色んな意味で衝撃を受けた。マーシャルの壁とド派手なライティング、おびただしく炊かれたスモークと繰り返し炸裂するパイロ。ヘヴィメタ色丸出しのライブセットの中で、4人の珍妙なパフォーマンスが繰り広げられる。
サンプラザ中野は珍しくサングラスを外しロン毛のカツラまで着用(笑)。変形ベース&ギターを持ったほーじんとパッパラーは、メタルバンドをおちょくるようにネックを合わせたノリノリのアクションを見せ、ツーバスのドラムセットに囲まれ銅鑼を打ち鳴らすファンキーの過剰なアクションも、どこから見てもメタルドラマー風情だ。
実際のライブではその悪ノリぶりがさらに加速し、ファンキーが曲前の煽りで、“アクションはオジンだ!ラウドネスは天狗だ!44マグナムはバカだ!” “史上最悪のヘヴィメタルナンバー!”などと煽ってから曲を演奏していた。サンプラザ中野が着用した旭日旗のTシャツは、ラウドネスの二井原実をパロったのが明らかだ。
流行りのジャパメタを題材にパロディにしたことで、メタルファンや人気バンドのファンから非難されそうなものだが、それなりに予算をかけたと思われるMVをはじめ、徹底してイジっているからこそ、むしろ潔くてひたすら笑い飛ばせる。ユーモアとマジの境界線を、のらりくらりと行ったり来たりしつつ、自らの音楽を表現した爆風スランプ。その本領がフルに発揮されたバンド史上に残る珍名曲と言って良いだろう。
ファンキーは周知の通り、のちに「たいやきやいた」のMCで挑発したラウドネスの二井原実とハードロックバンド “X.Y.Z.→A” を結成。「たいやきやいた」を、まさかの二井原歌唱バージョンでカバーしており、ファンキーは爆風時代のMCまで再現した。そんな遊び心を持った二井原やファンキーのアーティストとしての振る舞いも素敵に思えるのだ。
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2024.08.25