OSAKA TEENAGE BLUE 1980~vol.13■ 西城秀樹『ラストシーン』
作詞:阿久悠
作曲:三木たかし
編曲:三木たかし
発売:1976年12月20日
ジャンボ鶴田とミル・マスカラスのせい? またなってしまった「自家中毒」
1977年、小5の夏、僕はまた見慣れた場所にいた。
何の装飾もない殺風景な金属製のベッド。左側にはカーテン。カーテンの向こう側にはかかりつけの先生。そして右側に広がるのは、医療器具が雑然と並べられた、病院の倉庫のような部屋。
病院のような、ではない。ここは病院なのだ。
僕はまた、家の中で気分が悪くなり、嘔吐を繰り返して、近くの町医者にかつぎこまれたのだ。まぁ、慣れたもので、1日も経てば治ることは分かっている。それでも、この殺風景な空間に閉じ込められるのは、いい気持ちはしない。
ジカチュードク――。
のちにそれを「自家中毒」と書くことを知るのだが、子供のころから長らく、「ジカチュードク」という、「ジ」と「ド」の濁点が、何とも不気味な雰囲気を漂わせる文字列だけで記憶していた。
僕はまた自家中毒となったのだ。
自家中毒症。別名「ケトン血性嘔吐症」。風邪や疲労、過度の緊張などが原因で、急に顔色が悪くなり、吐き気が頻繁に襲ってくるようになる病気。
問題は、僕が小5にもなって、この病気にかかっていることだ。
かなり前、記憶にもない頃から、僕は自家中毒になっていたのだが、その度に、ここの病院の先生は、
「こんなん、せやな、小3とかになったら、必ずかからんようになるから。心配せんで、ええで」
と繰り返したのだ。しかし、予測を通り越して、小4でも、さらに小5になってもかかってしまった。
小5にもなって、自宅の和式トイレにうずくまって、嘔吐を繰り返す。そんな自分が情けなくって涙が出てくる――。口から目から、身体全体の水分が失われるように感じた。
今回、また自家中毒になった理由は分かっている。それは、ジャンボ鶴田とミル・マスカラスのせいだ。これは冗談ではない。
昨夜、土曜20時から始まる全日本プロレスの中継を見た。画面に映ったのは、1977年8月25日、田園コロシアムで行われたジャンボ鶴田対ミル・マスカラスだった。
もう見事な、見事な試合だった。華麗な空中殺法で攻める「千の顔を持つ男」ミル・マスカラスに対して、若きジャンボ鶴田がしっかりと応戦をする。
新日本プロレスに対して、全日本プロレスに比較的強かったが鈍重な印象がまるでない、それはもう息を呑む戦いだった。もちろん当時の僕はプロレスが、シナリオのないガチンコの戦い、純粋なスポーツだと、心から信じていた。
ジャンボ鶴田とミル・マスカラスの一糸乱れぬ戦いをテレビの前で見て、異常に興奮した翌日曜の朝、クラッときて、吐き気を催した。そして今、このベッドの上にぐったりと寝ている。
「先生、小5になっても自家中毒って、うちの息子、どこか悪いんやろか」
「せやなぁ、心の線が細いんやろな。ちょっとこれからも苦労するかもな」
母親と先生の会話が、カーテン越しに聞こえてくる。
「心の線が細い」
―― 普通だったら小3くらいで卒業できる自家中毒に、小5になってもかかっている僕は、心の線が細いんだそうだ。もし本当に心の線が細かったら、家庭科の授業で触るような裁縫の糸みたいに細くてやわなものなら、中学生や高校生になっても、永遠に自家中毒が続くんじゃないか?
そう考えると、言いようのない不安が襲ってきた。壁にかかっている薬品会社のカレンダーにデザインされたモナリザが、そんな僕に向かって不気味な微笑みを見せている。
不安から逃げるように、僕は目を閉じた。
半睡眠状態のときに必ず流れる、西城秀樹「ラストシーン」
病気になったときにありがちな半睡眠状態、半分だけ寝ていて、半分だけ意識があるような中途半端な状態になったとき、西城秀樹の『ラストシーン』という歌が聴こえてきた。
半年ほど前にも、同じように自家中毒になって、ここで寝ていたときにも頭に響いてきたのも『ラストシーン』だった。
前年1976年の暮れにリリースされた曲で、僕はとても気に入って、近所に住んでいて、いつも僕にレコードを買ってくれる通称「レコードのおばちゃん」にお願いして、シングル盤を手に入れたのだ(
『渡辺真知子「ブルー」:スージー鈴木の OSAKA TEENAGE BLUE 1980 vol.9』参照)。
曲全体の雰囲気が、何か宙に浮いている感じがして、また歌詞も白日夢のようなことを歌っていて、とにかく、そんな全体的にフワーッとした感じが、半睡眠状態にぴったりなのだ。
歌詞は、大人の女性との別れをテーマにしている。不倫なのか何なのか、一緒になれない事情があって、相手である大人の女性が、自分を振って、去っていく。そして自分は一人取り残される――。
―― ♪あたたかい春の陽ざしの中で 熱があるように ぼくはふるえてた
このあたりが、妙な言い方だが、病院のベッドにぴったりだった。
また、シンセサイザーのような音が全体的に広がり続けているようなアレンジも、無重力空間の上でフワフワしているような印象を与えてくれる。このあたりも半睡眠状態にぴったり。
でも、小5の僕が、そんな小理屈を完璧に理解しているわけがない。ただ何となく、この曲のフワーッとした感じに包まれて、うつらうつらとしていただけなのだが。
1977年「世界オープンタッグ選手権」がやってきた!
全日本プロレスで「世界オープンタッグ選手権」なるものが開催されることを知ったのは、その1977年の秋口だった。全日本ファンの多い僕のクラスのプロレス好きは興奮していた。
「ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクのザ・ファンクスが優勝やろ」
「いや、ビル・ロビンソンとホースト・ホフマンは絶対強いって」
「まぁ、日本でやるんやから、八百長で、ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の勝ちやで」
中には、プロレスがガチンコの戦いではないことを、薄々気付き始めた友だちもいたのだが、それでも全日本プロレスの年末目玉興行「世界オープンタッグ選手権」への話題は尽きなかった。
もちろん僕も興味津々なのだが、どうしても自家中毒のことが気がかりでしょうがない。また興奮し過ぎて、また倒れたらどうしようと思うと、プロレスを観る気がしないのだ。
どうせ、僕の心の線は、裁縫の糸みたいに細くてやわなものなのだから。
出場タッグはこの9組
■ ジャイアント馬場&ジャンボ鶴田
■ ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク(ザ・ファンクス)
■ アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク
■ 大木金太郎&キム・ドク
■ ラッシャー木村&グレート草津
■ ビル・ロビンソン&ホースト・ホフマン
■ ザ・デストロイヤー&テキサス・レッド
■ 高千穂明久&マイティ井上
■ 天龍&ロッキー羽田
12月に入って、その「世界オープンタッグ選手権」は、たいそう盛り上がった。ただ、個々の戦いについては、具体的な記憶がない。
個人的には、清潔感溢れるビル・ロビンソン&ホースト・ホフマンのタッグを応援していたのだが、それでも自家中毒が怖くて、中継を遠巻きに眺めていただけだったので、彼らのタッグが、それほどでもなかったことをぼんやりと憶えているくらい。
ということは、企画としては盛り上がったものの、個々の戦いについては、数ヶ月前のジャンボ鶴田対ミル・マスカラスのような圧倒的な印象を与えるほどのものはなかったのだろう。
ただ、あの一戦だけを除いては――。
1977年12月15日、蔵前国技館で繰り広げられた伝説の試合
12月15日の蔵前国技館は、日本プロレス界にとって一つの歴史となった。
「世界オープンタッグ選手権」の優勝がかかった形で、ザ・ファンクス対ブッチャー&ザ・シーク組が、選手権における得点が同点のまま戦うことになったのだ。
その伝説的な試合は、数日後にテレビ中継されたのだが、もう壮絶、いや凄絶な展開で、僕ら大阪の下町含めて、全国のプロレス・キッズが、テレビの前に釘付けとなった。
アブドーラ・ザ・ブッチャーとザ・シークは「凶悪コンビ」「史上最悪コンビ」などと呼ばれるヒール(悪玉)のタッグで、次から次へと反則技を繰り出すことで知られていた。
逆に、ドリー・ファンク・ジュニアとテリー・ファンクの兄弟コンビ=ザ・ファンクスは、典型的なベビー・フェイス(善玉)で人気が高く、特に端正な顔立ちで清潔感溢れる、弟のテリー・ファンクは絶大な人気があった。
クリエイション『スピニング・トー・ホールド』というテーマソングに乗って、先にリング上に現れたのはザ・ファンクス。そして、凶悪コンビが、ピンク・フロイド『吹けよ風、呼べよ嵐』に乗って現れる。
カンカンカーン!
ザ・ファンクスが凶悪コンビに、いきなり襲いかかっている間にゴング。試合が始まる。始まった当初は、ザ・ファンクスが一気呵成に攻撃していて、この試合、案外早く決着が付いて、彼らが優勝するんじゃないかと、僕は思った。
しかし凶悪コンビは、強烈な反則攻撃に転じて、ザ・ファンクスは防戦一方となり始める。
ムードが決定的に変わったのが中盤、凶悪コンビは、五寸釘やフォークによる凶器攻撃を繰り出し、テリー・ファンクの右腕をめった刺しにして、大流血させるのだ。
テリー・ファンクの右腕から、真っ赤な血がしたたり落ちて、リングを赤く染める。
「ブッチャー、シーク、最悪やなぁ」
野次と怒号が飛び交う蔵前国技館。どう見ても、観客のほとんどがザ・ファンクスの応援をしている。しかし、そんなことを意に介さず、凶悪コンビはテリー・ファンクの右腕を攻め続ける。テリーがリングから一度出て、応急処置を受けざるを得なくなるほどに。
テレビの前に座って見始めては、興奮してはいけないとトイレに行ったり、自分の学習机に戻ったりとウロウロしながら、それでもやっぱり見たいとテレビの前に戻り…… を繰り返しているうちに、ザ・ファンクスがみるみる劣勢となり、テリー・ファンクの右腕が、みるみる真っ赤に染まっていく。
僕は意を決した―― テレビの前に座って、ザ・ファンクスを応援しよう!
テキサスブロンコ、テリー・ファンク!
するとその瞬間、テリー・ファンクが復活する。
リングの外から、両腕に包帯を巻いて再度リングに上がり、凶悪コンビに対して、テリー・ファンクが大反撃。それを盛り上げるかのように実況が「テキサスブロンコ!」「テキサスブロンコ!」と絶叫する。
「テキサスブロンコ」の8文字がどういう意味なのかは分からないのだが、それでもその言葉は、僕を興奮させ、鼓動や血圧を高める呪文になった。
「いてまえ! テキサスブロンコ! テキサスブロンコ!」
僕はテレビの前で叫ぶ。
右腕が傷ついたテリー・ファンクが、左腕でアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークにパンチの連打。
「テキサスブロンコ! テキサスブロンコ!」
遠く離れた大阪から、僕は応援の連打。
パンチ、応援、パンチ、応援――。
カンカンカーン! ゴングが鳴る。
試合結果は、凶悪コンビがレフェリーのジョー樋口に、苦し紛れの暴行を加えて反則負け。ザ・ファンクスの勝利。ふと気が付けば僕は、自家中毒のことなど忘れて大興奮していた。
「テキサスブロンコ、テリー・ファンク!」
「テキサスなんちゃらもええけど、あんた、大丈夫か? そんなに足バタンバタンしながらプロレス見て、また自家中毒になるで」
興奮する僕を心配した母親が声をかけてきた。僕は我に返った。我に返って、怖くなった。またあの自家中毒、あの吐き気が押し寄せてくるのかと思うと、ゾッとした。
カンカンカーン!
母親の言葉を聞いて、自家中毒へのゴングが心の中で鳴ったような気がした。ゾッとして僕は、早めに寝ることにした。
過去の僕にさよなら。自分自身の幼いころのラストシーン
22時過ぎ。二段ベッドの上で眠ることにしたのだが、「テキサスブロンコ!」の興奮がまだ残っていて、ちゃんと眠ることができない。
まだ吐き気は催していない。それでも眠気と興奮が中和したのか、自家中毒のときのような半睡眠状態に陥った。すると、また聴こえてきたのだ―― 西城秀樹『ラストシーン』が。
あのフワーッとしたイントロが頭の中に響いてくる。そして、そのイントロは、テリー・ファンクやアブドーラ・ザ・ブッチャーの残像をかき消して、身体を無重力空間の中に浮かび上がらせる。
「この曲が始まったということは、また自家中毒にかかってしもたんかな?」
と、うっすらとした意識の中で思いながら、心の中に響く『ラストシーン』に耳を澄ました。すると、病院のベッドの上よりも、西城秀樹の歌う歌詞がクリアに響いてくる。
―― ♪ありがとう 幸せだったわ 一緒に歩けなくってごめんなさい
―― ♪ありがとう 幸せだったわ 出来ればもっと早く逢いたかった
目の前に広がるのは強い陽ざしの下の舗道だ。どう見ても東大阪ではない。見たこともない東京、もしくはどこか無国籍な都市にあるアスファルトの上――。
大人の女性の姿は見えない。ただ、ぼんやりとした影が、少しずつ僕の目の前から遠ざかっていって、小さくなっていく。
「ありがとう」とだけ言い残して、僕の前から去っていくのか。
無性に淋しくなって、僕はその影に目を凝らして、影を振り払って、大人の女性の姿を捉えようとした。
すると、そこに見えてきたのは、大人の女性の姿ではなかった。そこにいたのは―― 僕だった。
幼稚園時代だろうか、小学校に入ったあたりだろうか。とにかく今よりは幼い僕。そして、その僕は、感情のおもむくままに、笑って、怒って、そして、興奮してギャーギャーと泣き叫んでいる。
そんな幼い僕の姿が、どんどん小さくなっていく。僕に「ありがとう」とだけ言い残して。
『ラストシーン』の歌詞に出てくる「あなた」は、どこかにいるであろう、見たことのない「大人の女性」ではなく、幼いころの僕だったのか!
幼い自分へのさよなら。自分の中の幼さへのさよなら。僕の中にいる過去の僕との決別。
僕の中にいる過去の僕、今よりもっと子どもだったころの僕のラストシーン――。
翌朝、日曜日、目が覚めた。爽やかな朝だった。吐き気はまったく感じなかった。
家族は何事もなかったように、すでに起きて、いつもの日曜日を過ごしている。もうすぐお正月なんだ。みんな忙しい。
あれほど興奮したのに、僕は自家中毒にならなかった。直感だが、もう自家中毒にはならない気がした。自家中毒を乗り越えた感じがした。
事実、それから僕は自家中毒にならなくなったどころか、その夜を境に、旅行などでいつも僕を悩ませていた乗り物酔いをすることもなくなった。
過去の僕にさよならをしたからだろうか。もしかしたら、西城秀樹が乗り越えさせてくれたのか。もしかしたら僕は、西城秀樹のような大人の男になれるのか。
そして、もしかしたら、細いと言われた心の線も、ちょっとは太くなったのかもしれない。テリー・ファンクの腕ほどじゃないにしても。
僕は、今まで一度たりとも流血なんてしたことのない細い右腕をさすりながら小さくつぶやいた。
「テキサスブロンコ!」
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2022.04.30