10月8日

もし久保田利伸が日本の音楽界にいなかったなら? J-POPにおけるクボタの功績

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久保田利伸1986年デビュー。デモ盤はカセットからCDへ、消化効率も大きく向上


久保田利伸のメジャーデビューは1986年。僕らの世代が就職活動を経てようやく社会人として歩み始めた時期と時を同じくしているせいで、誠に勝手な話、彼に対して同期意識のような感情を持ち合わせている。もちろん早くも頭角を現わそうとしていたバリバリのミュージシャンと、片やヨチヨチ歩きのサラリーマン1年生ではあるけれど、それでも彼の音楽家としての歩みは僕らの社会人としての歴史と重なり、彼のどの楽曲が流れていた頃、何をしていたか、紐付けて記憶している事柄が少なくない。

たまたま広告業界に入っていたおかげで、テレビCMのクリエイティブというビジネスの一側面から、ミュージシャンの存在を感じる機会もあったからその影響もあるだろう。入社間もないころある企画の打ち合わせの席で演出を担当する先輩ディレクターからこんな発言があった。

「ねえ、クボタ使おうよ。久保田利伸!… カッコいいよ~」

これには個人的に賛同したいと思ったが、やけに熱いその先輩を他所に、結局その話はそれで終わってしまい、数日後ライバル会社がCMに起用した彼の楽曲をテレビで聴く羽目になった。そら見たことかと先輩が苦々しいセリフを吐いたのは言うまでもない。

… と、このように久保田利伸は活動の早い時期からテレビCMやドラマなどの番組主題歌を手掛けることが多く、マネージメントもタイアップには非常に熱心に取り組んでいた。おそらくかの先輩の元にも彼のデモ用のサンプルCDが届いていたことだろう。折しも記録メディアがアナログ(カセットテープ)からデジタル(CD)へと変わる過渡期にあり、検討する側にとっても扱いやすいデモ盤の消化効率は大いに向上したことだろう。クリエイター達はその恩恵を受け、さらにアンテナを広げることが容易になった。

CMやドラマとのタイアップ戦略の成功、そしてヒットチャートの常連に!


久保田利伸の初期のCMタイアップ曲については以前のコラム『80年代タイヤメーカーCMの充実 〜 洋楽もどきのブリヂストン』に書いたことがある。その際デビューアルバム『SHAKE IT PARADISE』に収録曲された「流星のサドル」を採用し、玉置浩二「ブルーが泣いている」と併用したブリヂストンタイヤのCM曲を “洋楽もどき” と一括りに片づけてしまったが、両名に共通していたのはキティミュージックの所属アーティストだったこと。積極的に有望アーティストのタイアップを獲得して露出を稼ぎ、他の歌手への楽曲提供で実績を積む… キャリアで先行した玉置にしても活動当初から楽曲提供の件数は多かった。同じキティのアーティストとして、かつて来生たかおも辿った道である。久保田もまずは作家として契約し、音楽活動をスタートさせているのである。

アーティストが存分に創作活動を行うためにも、経済的な基盤を確立させることは重要だ。食えなければそれもままならないからである。やがてソロアーティストとしての道を拓くというマネジメント方針は、キティのアーティストオリエンティドな姿勢のあらわれであろう。

実効面でもこうした戦略は功を奏し、デビュー翌年には彼はヒットチャートの常連といえる存在となる。4thシングル「Cry On Your Smile」は初のTOP10ヒットとなり、続いてリリースされた「You were mine」はフジテレビのドラマ「君の瞳をタイホする」の主題歌としてオリコン3位の大ヒットを記録する。

深めるブラックミュージックへの傾倒、ニュー・ジャック・スウィングを標榜した「Such A Funky Thang!」


ヒットメーカーとして盤石の地位を手に入れた彼は、もはや誰に何を言われることもなく、本来志向してきたブラックミュージックへの傾倒を一層深めていくことになる。それはアルバム制作において顕著であり、特に1988年9月にリリースされた3枚目となるオリジナルアルバム『Such A Funky Thang!』では、やや売れ線狙いでJ-POPのメインストリームに寄せた前作に比べ、その色が一層濃いものになった。リズムセクションが強調されて目指す方向性がより明確になっている。まさに “日本一黒いミュージシャン” と言われた久保田利伸の本領発揮である。

80年代に入るとアメリカを中心とするブラックミュージックシーンは、大きな転換点にあった。それまでモータウンに代表される黒人ミュージシャンたちがリードしてきたソウル、ファンクといった類の音楽だけでなくディスコブームを背景としたダンスミュージックの興隆や白人にも親しみやすい “ブルーアイドソウル”、AORなどの影響を受けて、メロウで耳当たりのよいサウンドが好まれるようになった。と同時にそれまでこれらのジャンルの総称とされていたR&Bに代わって “ブラックコンテンポラリー” との呼称が用いられるようになる。

また作曲アレンジにおいてもいわゆる “打ち込み系” と言われるDTMのはしりで、久保田も多用したといわれる「シンクラヴィア」という電子楽器を用いた楽曲が数多く制作された。こうして生み出された音楽は、ビートが強調されてノリがよくダンサブルで、これらは“ニュー・ジャック・スウィング(NJS)”と呼ばれるようになる。この『Such A Funky Thang!』はNJSを標榜した国内初のアルバムとして、音楽ファンの間では周知されている。

伝えきれないブラックミュージックシーンのリアル。和製R&Bの課題とは


J-POPにおける彼の功績というなら、このように最新のブラックミュージックシーンからエッセンスを切り出し、国内で再現したかと思うと、リアルタイムでヒットにつなげ大衆化に成功したことだろう。その取り組みは特に同業者の間でも高い注目を集めていたといえる。

いつだったか「クボタってすっげー黒いよなぁ。あいつ絶対日本人じゃないよ。あいつの親父、ボブって名前なんじゃないか…?」などとステージから冗談を飛ばしていたのは、バブルガム・ブラザーズのBro.KORNだった。もちろん彼が登場する以前にもいわゆるオールドスクール… 70年代以前からのブラックミュージックに影響を受けた楽曲は、国内にも数多く存在していた。

例えば “ソウルダイナマイト” 和田アキ子の代表曲「古い日記」でも、お馴染みの「HAッ!」という掛け声は、彼女がスティービー・ワンダーにインスパイアされたものだ。聴けばその様はファンク・ソウルそのものでしかないが、音楽的な知見無しに聴いても、それは歌謡曲という許容度の高いゆる~い括りの概念に飲み込まれてしまう。またラッツ&スターもビジュアル的には明確な主張を伴って登場したけれど「キングトーンズの後継者!?」とばかりに危うく聴き流してしまうところだった。

要するにJ-POPの懐が深すぎて輪郭がつかめないのだ。なぜならこれらの楽曲は視覚的にも聴覚的にもリスペクトの色合いが強く、その距離感からブラックミュージックシーンのリアルを伝えられていなかったのだと思う。

正しくない言葉でも時としてそれはCool! 和製R&Bの課題と久保田利伸の功績


久保田利伸はその意に任せてNYに向かい、母国に向かって現地の空気感を送り続けた。こうした試みが世界との時差を解消し、それまでボヤっとしていた輪郭をはっきりと浮かび上がらせてくれた。J-POPが世界の潮流から置き去りにされぬよう教え導く。まさに彼がR&Bの伝道師たる所以だ。

彼のアルバムタイトルにはその片鱗がうかがえる。『Such A Funky Thang!』のThangはブラックコミュニティ独特のアクセントに由来するThingのスラングである。“Cool” なものを教示すれば、より親近感を感じるようになる。

間もなくリリースされた初期の活動の集大成となる初のベストアルバム『the BADDEST』のタイトルももちろんブロークンなスラングの一種だ。「え、そこはWORSTでしょ?」とはグラマー重視の日本の英語教育の賜物だが、それはCoolじゃない。たとえBADでもそれが意味するところは “BEST” だ。文法に疎い移民の末裔たちによる一種のジョークである。さしづめ “最狂” とか “最凶” といったところだろうか、正しくない言葉が、時としてCoolなのは万国共通なのだ。

BADだがBEST。初のベストアルバム「the BADDEST」


『the BADDEST』はそれまでアルバムに収録されなかったシングル曲を中心に構成されている。音楽家久保田利伸の序章を支えた思い入れのあるヒット曲の集合体、まさに “BEST of the BEST=BADDEST” というわけである。この呼称は彼のベストアルバムを表すキーワードとなり、その後も『Ⅱ』『Ⅲ』と『~HitParade』『~Collaboration』と計5枚ものアルバムにその名が冠されている。

ところで、リスナーたちの中では彼のアメリカ進出をあまりよく思っていないという声が漏れ聞こえてくることがある。その理由はたいがい商業的な成功を前提としたものであることが多いのだが、それは彼の現在の立ち位置からすると少し的外れな気がしている。

久保田利伸のアメリカでの活躍ぶりを思う時、以前アメリカからやってきたヒップホップのマインドを持った演歌歌手ジェロのことを思い出す。祖父の母国とはいえ、遠い異国のソウルミュージックを生業にするということは半端な覚悟でできる話ではない。だが彼には歌唱力はもちろんのこと、“出雲崎” や “日本海” と歌っても全く違和感を感じない美しい日本語と、演歌に対する深いリスペクトを持っていた。はじめのうちは珍しさ半分で歌を聴いていた僕らも次第に引き込まれ、一人の新人演歌歌手として認めざるを得なくなっていった。彼の紅白出場はアメリカにおけるトシ・クボタの『ソウル・トレイン』出演に並ぶ快挙であった。

日本にブラックミュージック人気をもたらしたR&B伝道師 トシ・クボタの成果


アメリカにおけるトシ・クボタのCDセールスや現地メディアやイベントでの活躍ぶりは、彼の国内での実績から見れば物足りないものにも思えるだろう。しかし先に述べたように彼が国内にもたらした役割は決して小さくない。アーティスト個人としての成果はさておき、日本の音楽界においては、むしろ彼がアメリカに行かなかった場合の損失の方がはるかに大きかったように思える。

R&Bにおける国内外の時差や認識のズレも依然として大きく、同系のミュージシャン達としては後輩にあたるMISIAも宇多田ヒカルも平井堅も世に出るのにはもう少し苦労したことだろう。ブラックミュージックがこれほどまでに人々に認識されていたか、ひょっとするとその輪郭すらまだ朧げなままだったかも知れない。

静岡で生まれ育った野球少年が、ラジオから流れてくるスティーヴィー・ワンダーの歌声に啓示を受けて音楽活動を始めた頃から、彼の目標は一貫して「いつか彼らと同じステージで歌う」ということだった。果たしてそれは彼の地に身を投じ、持ち前のハートと行動力で現地に同化することで、今や創作活動においては、ほぼ思い通りになる環境を手にしたといってもよい。テクノロジーは既に距離を超える時代となったが、face to faceの交流で手に入れたコミュニティは何物にも代えがたい。

果たしてそれは失敗と呼んでいいものなのだろうか。改めて考えてみてたとしてもやっぱり、大きなお世話だといえるのは、本人のみならず我々フォロワーにとっても全く同感である。

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2022.07.24
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カタリベ
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