名物プロデューサー柳井満が掘り当てた役者たち
かつて、TBSに柳井満というドラマプロデューサーがいた。
――「ドラマのTBS」と呼ばれていた時代(ころ)の話である。1970年代から80年代にかけて、同局には名物プロデューサーが群雄割拠のごとく存在した。脚本家・橋田壽賀子を発掘した「ホームドラマ」の旗手・石井ふく子を始め、山田太一脚本ドラマを数多く手掛けた巨匠・大山勝美、『時間ですよ』や『ムー一族』など “攻め” の作風で知られた奇才・久世光彦、そしてミュージシャンを役者として起用した開拓者・柳井満―― 等々。
そう、柳井プロデューサーは、音楽畑から未来の役者を発掘する名手だった。最初の試みは1979年―― 同局「木曜座」の『愛と喝采と』である。当時、知名度の低かったミュージシャンの岸田智史(現・岸田敏志)サンを、劇中でも新人歌手の役で起用。そこで歌った番組挿入歌(劇中タイトルは「モーニング」)が、リアルでもオリコン1位と大ヒット――。そう、「きみの朝」である。
柳井Pのミュージシャン起用作戦は当たった。そこで同年秋、再度同じ手法に挑んだのが、かの『3年B組金八先生』である。ご存知、海援隊の武田鉄矢サンを主人公・坂本金八に起用したところ、最高視聴率39.9%。以後、32年間にも渡る大ヒットシリーズとなったのは承知の通りである。主題歌も海援隊が歌い、「贈る言葉」はオリコン1位と、こちらも大ヒット。
柳井Pの作戦は続いた。翌80年の『1年B組新八先生』では、前述の岸田智史サンを主人公・新田八郎太に起用。更に81年には『2年B組仙八先生』の主人公・伊達仙八郎の役に、ミュージシャンのさとう宗幸サンを抜擢――。今思えば、演技経験のほとんどないミュージシャンをドラマの主役に起用するなど正気の沙汰ではないが、それを軽々とやるのが柳井流だった。
長渕剛、ドラマ出演2作目にして主役に抜擢された「家族ゲーム」
そして1983年―― 彼は『金八先生』以来の大鉱脈を掘り当てる。ドラマ『家族ゲーム』の主人公、三流大学に7年通う家庭教師・吉本を演じたのは、ミュージシャンの長渕剛サンだった。
ドラマ出演2作目にして主役抜擢。しかし、どこかひょうひょうとして、時に暴力的ながら、人間味あふれる吉本は、2ヶ月半前に封切られた映画版で松田優作が演じた吉本とも異なり、お茶の間の人気を博した。更に、長渕自身が歌う主題歌「GOOD-BYE青春」もオリコン5位のスマッシュヒット。演技者・長渕剛の歴史は、ここに始まる。
そして以降―― プロデュース:柳井満と主演:長渕剛の座組の連続ドラマは本作を含めて5作を数えた。
『家族ゲーム』(1983年 主題歌:長渕剛「GOOD-BYE青春」 / 共演:松田洋治)
『家族ゲームⅡ』(1984年 主題歌:長渕剛「孤独なハート」 / 共演:二谷友里恵)
『親子ゲーム』(1986年 主題歌:長渕剛「SUPER STAR」 / 共演:志穂美悦子)
『親子ジグザグ』(1987年 主題歌:長渕剛「ろくなもんじゃねえ」 / 共演:安田成美)
『とんぼ』(1988年 主題歌:長渕剛「とんぼ」 / 共演:哀川翔)
―― こうして見ると、『家族ゲームⅡ』を除けば、どれも爪あとを残しているのが分かる。作品本体に加えて主題歌、時には共演者との関係性において、今も80年代の名作ドラマとして僕らは記憶する。
中でも、最も印象に残るのが―― やはり、1988年の『とんぼ』だろう。出所したヤクザが家族や仲間との絆を守りつつ、真っすぐに生きようと奮闘する姿を描いた骨太の人間ドラマ。同ドラマを起点に、主人公・英二と演技者・長渕剛が以後、人生をシンクロさせるターニングポイントとなった作品とも言われる。最終回の視聴率は21.8%と盛り上がり、内容面も評価されて向田邦子賞を受賞した。同名主題歌はミリオンセラーとなり、ミュージシャン・長渕剛の生き方を投影しており、代表作の1つとなった。
コツコツとアスファルトに刻む足音を踏みしめるたびに
俺は俺で在り続けたい そう願った
裏腹な心たちが見えて やりきれない夜を数え
のがれられない闇の中で今日も眠ったふりをする
奇しくも今日、10月26日は、今から34年前に同曲がリリースされた日にあたる。本コラムは、ドラマ『とんぼ』と同名主題歌を柱としつつ、演技者・長渕剛の生き方に光を当てたいと思う。
名曲「とんぼ」の伏線になった “最初のデビュー”
話は少しばかり、さかのぼる。
長渕剛――。1956年、鹿児島県出身。同世代に桑田佳祐や佐野元春、大友康平らがいる。ギターを始めたのは中学3年の時。同郷の吉田拓郎に憧れ、高校時代はよくコピーして歌っていたそう。大学は福岡の九州産業大学へ進学。当時、場末のバーで歌っていると、毎晩のように酔った客からビール瓶や灰皿が飛び、演歌を歌えと罵声を浴びる日々だったという。
そんな長渕サンは、やがてチューリップや海援隊を生んだ博多の伝説のライブハウス「照和」のステージに立つ。だが、既にフォークは時代遅れになりつつあり、他の出演者の多くがロックを演奏する中、フォークを熱唱する彼は悪目立ちして、客受けはあまりよくなかったらしい。この頃、吉田拓郎らが設立したフォーライフ・レコードにデモテープを送るが、なしのつぶてだった。
運命を変えるキッカケは、ポプコン(ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト)だった。1976年10月、自作した『雨の嵐山』で入賞を果たすと、翌77年2月、ビクター・レコードよりデビュー。だが、そのアレンジはレコード会社主導で歌謡曲のごとく改変され、名前も(ながぶち・ごう)と、芸名の読みに改められた。要はフォークシンガーではなく、歌謡曲の歌手として売り出され、プロモーションもデパートの屋上等でアイドル歌手の前座を務める有様だった。
長渕ファンには有名な話だが、この最初のデビューは失敗に終わる。レコードも売れず、スタッフとの信頼関係も築けず、半年後、夢破れて長渕サンは福岡へ帰る。当時の心境を「東京のすべてが敵に見えた」と語ったとも――。この経験が11年後、あの「とんぼ」の伏線となる。
2度目のデビュー。オリコンで8週連続1位「順子」
死にたいくらいに憧れた花の都 “大東京”
薄っぺらのボストン・バッグ北へ北へ向かった
ざらついたにがい砂を噛むと ねじふせられた正直さが
今ごろになってやけに骨身にしみる
長渕サンは、再び「照和」でライブに精を出す日常に戻った。だが、ここで終わらないのが、天才の天才たる所以。彼は再び曲作りに励んだ。そして―― 今度こそ自身も納得する完璧な曲が仕上がった。「巡恋歌」である。
1978年5月、2年ぶりに挑んだポプコンで、「巡恋歌」は本選へと進み、見事入賞。ヤマハ関係者の高い評価を得て、同年10月、今度は東芝EMIから2度目のデビューを飾る。今日、僕らがよく知る長渕剛物語はここから始まる。
その後のサクセスストーリーは、ご承知の通り。自身の希望でユイ音楽工房に所属した彼は、ギター1本を抱えて全国のライブツアーに明け暮れ、着実に爪あとを残す。そして1980年6月、セカンドアルバム『逆流』からファンの要望で「順子」がシングルカットされると、オリコン8週連続1位の大ヒット。名実ともにスターになった。
長渕剛を形作ったエピソード
当時の長渕サンを語る上で、興味深い2つのエピソードがある。
1つは、まだ無名時代の1979年7月の「伝説の篠島帰れコール事件」。愛知県篠島(しのじま)にて行われた「吉田拓郎 アイランドコンサート in 篠島」に、長渕サンは拓郎サンから声をかけてもらい、出演する。「長渕、お前のことを一切紹介しないから、どこまでできるかやってみるか?」。しかし、ギターをかき鳴らして歌う無名の男に、客席から非情にも「帰れコール」。そんなアゲインストの中、長渕サンは堂々と歌い続け、最後は弦を切らしながらも拍手喝さいを受けた。曰く、「あのステージが無かったら、今の僕は無かったかも知れない」――。
もう1つは、「順子」が大ヒットして、TBS『ザ・ベストテン』にランクインした1980年8月の「手拍子歌い直し事件」である。静岡県日本平で行われた『HOT JAM'80』から中継出演した際、歌い始めて20秒ほど経ったところで突然演奏をやめ、他の出演歌手たちに「これは失恋の歌なんで、手拍子は勘弁願いたい」とたしなめ、もう一度初めから演奏し直したのだ。当時、この言動が波紋を呼んで、業界関係者から「生意気だ」と陰口を叩かれることもあったという。
いずれも、初期・長渕剛を語る上で欠かせないエピソードである。今となっては微笑ましいが、これらの逸話が、人々の抱く長渕剛という人物像に少なからず影響を与えたのは事実だろう。いつしか、その一挙手一投足がニュースになる男に―― 彼は、敬愛する吉田拓郎になりたかったのかもしれない。1981年8月、アイドル歌手・石野真子と結婚。しかし、2年も経たない1983年5月―― 2人は離婚する。
ミュージシャン・長渕剛がドラマと出会うのは、その直後のことである。
キャスティングで悩んでいた柳井満のひらめき
運命とは実に面白い。その頃、TBSの柳井満プロデューサーは、次のドラマの主役のキャスティングに頭を悩ませていた。タイムリミットまで1週間を切ったある日―― 通勤電車で、ふと隣の人が読んでいる新聞記事が目に入った。それが、長渕剛・石野真子夫妻の離婚記事だった。その時、痩身で長髪の長渕サンの写真に、柳井Pはピンとくるものを感じたという。「ひょっとすると、彼は面白いかもしれない」――。
突然のドラマのオファー、それも主演の話に長渕サンは驚いた。当初は、演技経験の未熟さを理由に渋ったという。だが、柳井Pの「全6話と短い。失敗しても傷付かない」の言葉に、心が揺れる。最終的には、自らの可能性を試してみたい気持ちが勝った。
前述の通り、ドラマ『家族ゲーム』は放送されるや、主人公・吉本を演じた長渕剛の評判はうなぎ上り。視聴率も右肩上がりで、最終回は20%を超えた。長渕サンは自らの賭けに勝った。“演技者・長渕剛”の新しいキャリアが華々しくスタートしたと思われた。
だが―― 自分が作りたいものを作る音楽と違い、ドラマにおける役者は、仕事をもらう “受け身” の立場。必ずしも自分のやりたい役が来るとは限らない。翌84年、『家族ゲームⅡ』が放映されるが、原作のある前作と異なり、今作はTBSのオリジナル。コメディ色が強く、劇中の設定も変えられ、視聴率は苦戦する。結局、2クールの予定が1クールで打ち切られた。
「親子ゲーム」を通じた出逢い
「もう、ドラマはやらない」―― 放映後、そう公言した長渕サンだったが、2年後の1986年、再び柳井プロデューサーの元を訪れる。「俺じゃなきゃ出来ないドラマをやらせて欲しい」――。一度火の着いた役者魂は、そう簡単に消えるものではないらしい。
柳井Pは快諾した。そして作られたドラマが、『親子ゲーム』だった。下町のラーメン屋を舞台に、暴走族出身の一組の男女と、親に見捨てられた少年との “疑似家族” が織りなす人間愛の物語。気の置けない常連たちとの絆も描かれ、いわゆる長渕ドラマの原型とも言える作品に仕上がった。平均視聴率18.1%。数字、内容とも上々の評判だった。
それだけじゃない。同ドラマで、長渕サンは人生を変える2つの運命的な出会いを果たす。
1つは、後に新たな伴侶となる志穂美悦子サンとの共演――。そして、もう1つが、演技者・長渕剛の物語を紡いでくれる脚本家・黒土三男サンとの初仕事である。
この2人との出会いが、長渕史上最盛期とも言われる80年代後半のクリエイティブワークの土台となったのは言うまでもない。その頂点の1つが、1988年10月に始まった主演ドラマ『とんぼ』であり、その同名主題歌であることに異を唱える人はいないだろう。
アウトローの不器用な生き様を描いたドラマ「とんぼ」
ああしあわせのとんぼよ どこへ
お前はどこへ飛んで行く
ああしあわせのとんぼが ほら
舌を出して 笑ってらあ
TBSの連続ドラマ『とんぼ』がスタートしたのは、1988年10月7日である。枠は金曜日の夜9時。主演:長渕剛、脚本:黒土三男、プロデュース:柳井満の座組は、『親子ゲーム』、『親子ジグザグ』と同じである。いわば、三部作とも――。だが、本作が前2作と大きく異なる点が1つあった。
それは―― 演技者・長渕剛の “キャラ変” である。それまでの近所の兄貴的なコミカルな役から、時に暴力もいとわぬドスの効いたクールな男へ。まるで本物のヤクザが憑依したかのような完璧なキャラ変だった。
ドラマは、ヤクザの主人公・英二が2年の刑期を終えて出所するところから始まる。出迎えるのは、哀川翔演ずる舎弟の常吉のみ――。物語は、バブルに浮かれる日本社会で、アウトローたる主人公の不器用な生き様を通じて、人として本当に大切なものが問われていく。怒り、悲しみ、喜び、絆―― ストレートな感情の奥に見える英二のやさしさに、お茶の間は心酔した。
自身の原点を歌ったドラマ主題歌
死にたいくらいに憧れた 東京のバカヤローが
知らん顔して黙ったまま 突っ立てる
ケツの座りの悪い都会で憤りの 酒をたらせば
半端な俺の骨身にしみる
先にも触れたが、同名主題歌の「とんぼ」は、幻のデビューと言われる長渕サンの最初の上京と、その時の挫折を描いたものと言われる。いわば、ミュージシャン・長渕剛の原点。それを同ドラマの主題歌に持ってきたのは、2度目のデビューから10年目となる節目に当てることで、ある意味、アンサーソングの意味合いもあったのではないか。
ドラマ『とんぼ』は、長渕サンと、脚本家・黒土三男サンの雑談からアイデアが生まれたという。ヤクザの主人公は、地方から上京した、いわばアウトローな長渕サンを投影しているのは容易に推察できる。英二の不器用な生き方も、同様に芸能界で度々衝突を起こす長渕サンの生き写しにも見える。
昭和・平成に名を馳せたスラッガー・清原和博のテーマソングとして
時は過ぎて、2008年10月1日――。
この日、もう一人の不器用な男が引退した。プロ野球選手、清原和博である。彼もまた、少年時代から憧れ続けた “東京” の球団・読売ジャイアンツへの挫折を一度は味わいつつ、その後努力を重ね、夢を実現した一人だった。そんな彼がジャイアンツ時代に使用した登場曲が、長渕剛サンの「とんぼ」だった。
試合後、23年間のプロ野球人生に別れを告げる引退セレモニーが始まる。ピッチャーマウンド付近に立つ清原のもとへ、場内アナウンスでコールされたあの男が一塁側ダグアウトから颯爽と登場する。ギターを一本抱えた、タンクトップ姿の長渕剛サンだ。その瞬間、泣き伏す清原――。
ああしあわせのとんぼよ どこへ
お前はどこへ飛んで行く
ああしあわせのとんぼが ほら
舌を出して 笑ってらあ
長渕サンの熱唱に続き、場内の観客も大合唱する。壮観だ。それを直立不動で聴きつつ、何度もタオルで涙をぬぐう清原――。
あの日、京セラドーム大阪で、2匹のとんぼが舞う姿を目撃した観客は、3万152人と記録される。
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2022.10.26