6月5日

ブレイク前夜のRCサクセション!森川欣信&宗像和男インタビュー ②

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清志郎がメイクするきっかけは?そして失敗作だった?「雨あがりの夜空に」


― その頃は清志郎さん、すでにメイクしていましたよね。化粧されたきっかけはなんだったのですか?

森川:屋根裏で観た時はうっすらとしていましたよ。それがどんどんエスカレートしていった。

宗像:清志郎が当時言っていたのは、化粧のきっかけに海外のグラムロックとかもあって、それプラス、知り合いに資生堂で働いている女の子がいたと。その子から試供品をどんどん持って来させて、それを使っていたと聞きました(笑)。

森川:化粧すると人格を変えられるじゃないですか。戦場に出陣していくみたいな気持ちになったと思います。昔の清志郎のキャラクターから脱けて、もっと雄弁になって、毒づいたりしなくなりました。ユーモアのあることは言いますが、昔3人でやっていた時の清志郎は、集まってくれたお客さんにも無遠慮で、ステージから平気でパワハラ、セクハラをやるわけですよ。そういうことはなくなっていました。なんかステージで弾けて生き生きとしていましたよ。

― 「愛しあってるかい」というのは、その頃からですか?

森川:そうですね。もう言っていましたね。「スロバラ(スローバラード)」の前煽りで言っていたのかな。しょっちゅう言っていたよね。

宗像:「スロバラ」に入る前の定番のMCが「愛しあってるかい」でしたね。



― そうすると「ステップ!」が不振で終わって「雨あがりの夜空に」のセールスもそんなになかったわけですね。

森川:そんなになかったですよ。「雨あがり」は失敗作だと思います。アレンジ含めレコーディングが良くなかった。一部歌詞とか変えていたし。りぼん(当時RCサクセションが所属していた音楽事務所)のディレクターがそういうアイディア出していたみたいだけど。「ステップ!」もRCのメンバーでは無くスタジオミュージシャンとか使っていたからね。バンドとしての面白味がない。それでも清志郎はレコーディング出来るってことがすがるような思いで嬉しかったんだろうね。当時はスタッフとかから誰にも相手にされてなかったわけだし。
多賀さんは清志郎たちを手強い相手だと言っていましたが、むしろ歯痒いくらい清志郎って自分では決められないヤツでした。特にあの頃は、世に出ていかなくてはならないって気持ちが先行していて、「そいつらが言うならいいんじゃない?」と言う感じだったと思います。
僕は、「よくないと思う」とか言っていましたが、清志郎は全然聞く気がないから。他のメンバーも遠慮気味で清志郎に流されちゃう。宗像さんも分かるでしょ(笑)。
チャボ(仲井戸麗市)とか結構思うところがあったと思います。それは、みんなともっとコミュニケーションを取りたい。でも、清志郎が何も言わない…。実際、清志郎はどうだったんだろうな? 実は清志郎って案外どうでもよかったのかもしれない(笑)。

宗像:そうなのかもしれないね。

森川:逆にチャボはインタビューでも立役者的に清志郎の言いたいことを通訳してみんなに伝える男だったから。

― では、チャボさんが加入したことはRCにとって、すごく大きなことだったんですね。

森川:大きいと思います。

宗像:僕も大きかったと思います。僕自身の印象でも、清志郎があれだけ弾けられたのも、チャボが横にいてくれたせいじゃないのかと思うこともあります。というのは、清志郎が亡くなった後、チャボがソロでやっていて、ある時、チャボとシアターブルックの佐藤タイジがジョイントするライブがあったんです。最初にチャボが出てきて30分、40分弾き語りをやって、佐藤君は舞台袖で見ていたと思いますが、その後、佐藤君が出てきて歌い始めたら、その時の佐藤タイジの歌が素晴らしく良くて。多分チャボが出しているオーラがお客さんに伝わっている。それが乗り移ったからだと思いました。要するにチャボがいることで、佐藤君も本来持っている自分を素直に出せたと…。清志郎とチャボの関係も、そういう感じなのかなぁと、その時確信しました。
チャボは清志郎をものすごくサポートしていたと思います。



― 清志郎さんは生涯自分のことを “バンドマン” と言っていたと思います。そういう風にRCではフロントマンでありながらも、メンバーに色々影響されながら進んでいったということですか?

森川:次第にメンバーともディスカッションするようになって行っていました。人の話も聞いていましたよ。聞いて、それを実行するかといえばそれは別ですが(笑)。その辺は頑固な部分も出し始めていた。それまで暗黒時代が長すぎたから耐えていた部分もあったんだろうね。だけど、僕や宗像さんがRCとやっていた頃は売れていなかったですよね。その頃は、僕たちの話をそこそこは聞いてくれたよね?

宗像:うん。宣伝なんかでも「これやろうよ」と提案して、NOと言ったことはなかったですね。

森川:先ほど、宗像さんが仰っていましたが、チャボの持つ独特の柔らかい雰囲気というのがあるんですよ。インタビューとかでも清志郎はなかなか口を開かないんだけど、チャボが上手く背中を押すっていうのかな。チャボが上手くフォローする。支える。だからステージでも以前とは違って清志郎は安心してやれていたと思う。その感じが伝わってきたのが、僕たちがやっていた頃だね。

宗像:僕は、後でびっくりしたのですが、3人の時のRCは、破廉ケンチも毒舌だった。清志郎は、それに輪をかけるようなことをやっていたらしいですが、あの5人になって清志郎は、ああいう毒舌を一切やらなくなった。ただ、話すこともおかしいし、これがロックンローラーか? みたいなMCもありましたから。屋根裏で「アンコール!」「アンコール!」の声が鳴りやまない時など「もう僕たち帰らなきゃならないんだ。銭湯が閉まっちゃうからさ...」なんて(笑)。

― 自然体に近いということですよね。

宗像:そうでしょうね。元々そういうやつだよね。

― バンドも自然体で自分を出せるメンバーに固まって、スタッフも宗像さんや森川さんが親身になってやってくれて、それでどんどん上がって行ったということですね。

宗像:それはあるかもしれませんね。

ターニングポイントだった1980年2月28日渋谷公会堂


― それで、屋根裏から久保講堂ということですよね。

森川:そうですね。

宗像:その前に1980年2月28日の渋谷公会堂というのがあって、これが素晴らしい話で。当時、「雨あがりの夜空に」は出ていますけど、『RHAPSODY』は出る前ですね。



森川:まだライブハウスからは出ていけない状況でした。つまり、それまでのRCは、大きいホールでやると、お客さんがちょっとついていけなくてしらけたり、清志郎も大きいステージだとまだどこか慣れてないから少しどぎつく見えたり。だから客もシーンとなってしまったりする時が多かったんです。いろいろなオムニバスのコンサートに出てもね。清志郎がお客さんを煽っても座って観ている状態で。屋根裏のような熱気に包まれた状況には絶対ならなかった。悔しいけど、ずっとならなかった…。それがある日突然、スイッチが入ったように変わったのが、1980年2月28日にアダンという音楽事務所主催で行われた3組のバンドが出るコンサートでした。
出演者はRCとシーナ&ロケッツとバウワウでした。その頃、バウワウが一番人気でした。シーナ&ロケッツも評価されていた。ビジュアルも良かったし、センスも良かった。鮎川さんもカッコよかったし。RCも知名度はあったけど、世間的には過去のバンドだと思われていたし、屋根裏の新しいファンがどのくらい渋公のチケットを購入していたのか、僕らも分かっていなかった。しかし、当日券が間際になって結構伸びて、上手くいくと売り切れるかもしれないというところまで行きました。それは多分、その前にRCが4日連続屋根裏を満杯にしたライブをやったりとか、テレビ出演もあったりして、ファンがつき始めた時期だったからかもしれない。でも、チケットは大方バウワウファンが購入したんじゃないかと思っていました。最初にステージに上がったのがシーナ&ロケッツだったけど、お客さんはあまり盛り上がらなかった。だから、次の出番のRCも屋根裏みたいにはならないまま終わるだろうなと思っていました。ところがRCがステージに上がると同時にドーンとお客さんが全員立ち上がりました。初めてRCを観た人もずいぶんいたと思います。

宗像:前に押しかけてきたからね。

森川:そうでしたね。それでRCが終わったら、お客さんが半分ぐらい外に出ていってしまって。バウワウは盛り上がっていましたが、出ていったお客さんは、楽屋口でRCを待ち構えていました。そこから凄いことになった。あの日がRCのブレイクポイントだったと思います。 僕や宗像さんが気付かないうちにRCの導火線に火がついていたというか。
ただ、それはまだ東京だけだったかもしれないけど。

宗像:関西は、もう後半年ぐらいかかったかな。

― 今のお話を聞いていると、バウワウは70年代からの流れの音楽をやっていたと思います。シナロケとRCは80年代の幕開けに相応しい新しいことをやろうとしていたと思います。だから、時代が変わった瞬間のようにも感じました。

森川:当時のRCは屋根裏と新宿ロフトを月に2回ずつぐらいやっていたので、そのお客さんが新しいお客さんを連れてきて、そういう草の根運動的にお客さんが増えていったんだと思います。それが少し経って地方で起こったわけですよ。大阪のバーボンハウス、京都のサーカス&サーカスなんかに行くようになって…。そこでもオムニバスでコンサートをやるんですね。だから他のバンド目当てのお客さんもRCの凄さに驚く。

宗像:森川さんが『GOTTA!忌野清志郎』(森川氏が「連野城太郎」のペンネームで書いた忌野清志郎人物伝)にも書いていたのかな。大阪でも火がついて、その時に “誰がカバやねんロックンロールショー” のダンシング義隆さんが、「日本でもこんなホンマもんのバンドが売れる時代になってきたんやな、嬉しいわ」と言ったくらいプロにとっても本物のバンドなわけですよ。それまで、格好だけロックみたいな連中が売れていた中で、全く違う形の音楽、アーティストが売れたということだと思います。

森川:そこには、清志郎が日本語を丁寧に歌った部分が大きかったと思います。それまでのロックは海外から来たものの流れであるから、巻き舌だったり、英語っぽく歌ってみたり、そういう人たちがかなりいましたよね。それはそれで素晴らしいけど、結局ステレオタイプのバンドがいっぱい出てきてしまった。その中でもRCだけは違っていました。この前も1981年の武道館のライブ(~RCサクセションデビュー50周年プロジェクトPresents~RCサクセション『FIRST BUDOHKAN DEC. 24.1981 Yeahhhhhh……….』 爆音上映会)をEXシアターで観させてもらった時も、本当に清志郎は日本語を丁寧に歌う人だと思いましたね。

― 本当の意味での日本のロックバンドが出来上がったということですよね。

森川:清志郎が日本のロックを発明したと思っています。



宗像:当時、日本語でロックは可能なのか? という大論争がありました。それは評論家だけではなく、ミュージシャンにも波及していったと思いますが、清志郎にしてみれば、ちゃんちゃらおかしいよね、というか、当たり前の話じゃないか。という風に思っていたと思いますが。あの時、清志郎にも、そういう質問が来て、「日本語だって元々リズム感あるんだよ」と。 “っ” という促音を上手く使えばリズム感が出せるんだということを明確に言っていました。

― そういう部分も考えて、自分の言葉をどのように響かせるかということにも特化していたということですね。

宗像:そうですね。

森川:清志郎は歌詞と曲をほぼ同時に作っていました。言葉を出している時にメロディをつけている感じだったと思います。例えば、「愛してる」という言葉が出たら、そこにメロディをつけながら歌う。そこからメロディも、その後の歌詞も膨らませていくという感じだったと思います。

宗像:だから聴く人にもすごく自然に入ってきて、聴きやすいというか。僕が知っている他のシンガーソングライターでも、いい曲が書けた時は必ず歌詞も一緒に出てくると言っていますね。でも、どうしてもスランプに陥るとメロディを作ってから歌詞を当てはめることになるので、出来栄えに満足できないというのはあるみたいですね。
清志郎の歌詞で、何と言っても素晴らしいのは、彼が歌う情景、登場するふたりの関係がビジュアライズできるところですね。聴く人が描く絵は清志郎が描いた絵とは違うのかもしれないけれど、それぞれの情景が見えてしまう。それが詩人として圧倒的に凄いな、という気がします。

若くて、貧しくて、無名。それがRCサクセションの歌だった


― 僕も『RHAPSODY』を13歳の時に聴いて、凄い衝撃を受けました。普段テレビから流れてくる音楽には、ああいうのがなかったから。

森川:テレビから流れる曲も夢があっていいものがありますよね。しかし、清志郎の歌にはリアリティがありました。それは、あの時代の若者の等身大の姿を歌っている。宗像さんともよく話すけど、清志郎の歌の登場人物は、若くて、貧しくて、無名な僕らの分身なんです。そういうヤツらの歌なんですよ。RCの歌は。当時は全てそうだった。だから、後期そうじゃなくなったRCの歌は僕にとって面白くなかった(笑)。

宗像:そういう者が世の中を変えるというか…。若くて、無名で、貧しい。

― 1980年に『RHAPSODY』をリリースした後は、コンスタントにアルバムが出るようになりますよね。『PLEASE』、ベスト盤の『EPLP』そして『BLUE』ですね。

宗像:あの頃はストックで持っていた曲が多かったの?

森川:そうですね。それこそ『OK』あたりまでは、3人組の頃に書いていた曲もありましたよ。僕の好きな「ぼくとあの娘」なんて、1985年にリリースされた『HEART ACE』に収録されていましたからね。「あの娘はズベ公でぼくは身なし子さ」っていう歌詞はアマチュアの頃からあったし、清志郎の歌詞って、聴けばどの時代に作ったかは、だいたい分かりますよ。清志郎がどん底の時の歌が後半になってリリースされて来たこともありました。
『BEAT POPS』に入っている「つ・き・あ・い・た・い」が出た時に、僕は宗像さんに言ったんです。「あれは俺たちのこと歌っている」と(笑)。
“オイラがむかし世話になった奴でも いくらいい奴でも付き合いたくない”
… でも、清志郎は僕たちのことを本気でそう言っているのではなく、逆説的に今近寄ってくる輩は信用出来ないと歌っているわけです。
“誰かが陰であやつろうとする だから俺はときどき手をぬく”
… で、随分経ってからそれを清志郎に質したことがあるんです。「そんなんじゃねーよ」って苦笑いしていましたけど(笑)。

― 清志郎さんはそうやって近しいところからインスピレーションを受けていたのでしょうね。

宗像:その通りだと思います。自分が見たものしか、彼は信じなかったという気がします。自分が思ってもいないことを歌詞にすることはなかったと思います。あの頃はね。

森川:「ベイビー! 逃げるんだ。」だったかな。「Rockは卒業だと あいつは髪を切るのさ… レスポールが重たすぎたんだろ」という歌詞があるのですが、それを聴いた時、RCサクセションにセッションギタリストとして参加していた春日(博文)が、「あれは俺のこと歌っているんだ」って言っていました(笑)、みんな清志郎に歌われているんじゃないかと被害妄想になって(笑)。

『RHAPSODY』、ライブレコーディングありきで押さえた久保講堂


― バウワウ、シナロケと共演した渋谷公会堂があって、その後久保講堂でライブレコーディング行った『RHAPSODY』で全国的に知れ渡ったという認識で良いですか?

宗像:『RHAPSODY』が出ても、自分たちの中でそれほど手応えがあったわけではなかった。

森川:当時、僕と宗像さんが、『RHAPSODY』の映像をビデオに落として、ビデオデッキを担いで地方のラジオ局とか周っていましたから。「RCは今こんな風になっていますよ」と。

宗像:ライブを観てもらわないと始まらないというのもあって、地方のラジオ局って、当時はビデオデッキがないんですよ。だからビデオデッキを担いで、久保講堂のライブの5、6曲を観てもらっていました。だから地方まで届いているという感覚は全くなかったですね。

― だけど、当時『RHAPSODY』がライブ音源だったことは、すごく意義があったと思います。

森川:あれはね、それまで、「ステップ!」とか「雨あがり」をスタジオ録音でやっていましたけど、思ようにいかなかったわけですよ。それで、結局レコーディングした音も気に入らず、自分たちのライブをカセットで録音した方がよっぽどいいや、みたいに言っていました。だからライブ盤を出そうと。彼らはライブの方がいい演奏ができると思っていたから。それに、あの時はツアー中でもなんでもないんですよ。久保講堂ってライブレコーディングのためだけにやりました。

― ライブレコーディングありきで久保講堂を押さえたと。

森川:そうです。だからあそこで録音したものをスタジオに持ち帰って整理しようと言うことになっていました。あの時は新曲が出たわけでもなかったし。ライブで彼らが本領発揮出来るものをパッケージにした。ただ、僕らは「ライブ盤は売れないよ」と思っていたので、『RHAPSODY』のジャケットを見ていただければ分かりますが、ライブレコーディングとは一切書いていない。『RHAPSODY』という新しいアルバムが出ました、ということで。

― 裏面は全て英字ですよね。そういう部分も戦略でしたか?

宗像:戦略でもなんでもないです。苦肉の策で(笑)。

― でも、あのアルバムで音楽の世界が広がった人が日本にたくさんいると思います。

宗像:それは、後になって分かったことですが、携わっている本人たちにしてみれば、ちゃんと地方に届いているのかな?みたいな不安はずっと付きまとっていました。その後、清志郎が亡くなった時に、追悼の文章が新聞、雑誌にたくさん出ました。その中で『TVブロス』に怒髪天の増子(直純)さんの追悼文が載っていました。
『RHAPSODY』が出た時、彼が中学3年かそのぐらいかな? 札幌の出身だと思いますが、その時に音楽好きの仲間がクラスにいて、彼から、「こんなレコードがあるよ」って聴かせてもらったのが『RHAPSODY』をコピーしたカセットだったと。その時、増子さんもバンドをやっていたらしく、「ライブってこうやってやるんだ。こうやって曲を選ぶんだ、MCはこうやってやるんだ」というが分かったと言うんです。『RHAPSODY』のカセットのテープの部分がワカメになるまで聴きましたと。それを読んで、「そうか、札幌の中学生まで届いていたか」って、その時初めて確信出来ました。

(取材・構成 / 本田隆)


次回予告:ジョン・レノン逝去直後の渋谷公会堂ライブ、そして武道館へと駆け上がっていくRCサクセション。RCサクセションと共に過ごした濃密な時間はどのようなものだったのか…いよいよ次回が最終回です。


※編集部よりお知らせ


〜RCサクセションデビュー50周年プロジェクト Presents〜
RCサクセション「FIRST BUDOHKAN’81 and SUMMER TOUR’83 渋谷公会堂」Supported by ぴあ50th

初の武道館公演(1981)の爆音上映会が、2022年5月、東京・大阪・名古屋・札幌の4か所で開催され、その圧倒的なパフォーマンスと臨場感に多くの観客が歓喜!
この度、同公演に、渋谷公会堂での名演(1983)をプラスした、伝説のライブ2本立てが、配信決定しました!

▼ 配信日時:2022年8 月6日(土)18:00~ 約4時間予定
▼ 見逃し配信期間:2022年8月15日(月)23:59まで
※ライブ配信チケットをご購入の方は見逃し配信もご覧いただけます。
※期間中は何度でも視聴可能です。
※チケット販売は2022年8月15日(月)11:59まで

▼ 配信サイト:以下よりお好みの配信サービスをお選びいただき、詳細ページをご確認の上、チケットをご購入ください。
PIA LIVE STREAM / NHKグループモール

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2022.08.06
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