忌野清志郎デビュー55周年を記念して、絶賛公開中のドキュメンタリー映画『愛し合ってるかい? 忌野清志郎が教えてくれた』。映画でも綿密に描かれているのが、RCサクセションがキング・オブ・ライブへと駆け上がるまでの軌跡。その過程の中で、欠くことのできないキーマンが2人いる。当時、RCサクセションが所属していたキティレコードのスタッフとして深く関わり、濃密な時間を過ごした森川欣信氏と宗像和男氏だ。インタビュー後編では、1980年2月の渋谷公会堂公演を転機に、アルバム『RHAPSODY』、そして武道館へと駆け上がっていくRCサクセションの軌跡を追う。さらに、RCサクセションが日本のロックに何をもたらしたのか、当時の熱狂とともに余すところなく語っていただいた。
1980年2月28日、渋谷公会堂でRCの導火線に火がついた
ーー それで、屋根裏から久保講堂ということですよね。
宗像和男(以下、宗像):その前に1980年2月28日の渋谷公会堂というのがあって。
森川欣信(以下、森川):当時は、まだライブハウスからは出ていけない状況でした。つまり、それまでのRCは、大きいホールでやると、お客さんがちょっとついていけなくてしらけたり、清志郎もまだ大きいステージにはどこか慣れていなかった。清志郎がお客さんを煽っても座って観ている状態でした。屋根裏のような熱気に包まれた状況には絶対ならなかった。それがある日突然、スイッチが入ったように変わったのが、1980年2月28日にアダンという音楽事務所が主催した、3組のバンドが出演するコンサートでした。
出演者は、BOWWOW、シーナ&ロケッツ、そしてRCでした。その頃、BOWWOWが一番人気でした。シーナ&ロケッツも評価されていた。ビジュアルも良かったし、センスも良かった。RCは、世間的には過去のバンドだと思われていたし、屋根裏の新しいファンがどのくらい渋公のチケットを購入していたのか、僕らも分かっていなかった。
しかし、当日券が間際になって結構伸びて、上手くいくと売り切れるかもしれないというところまで行きました。それは多分、その前にRCが4日連続で屋根裏を満杯にしたライブをやり、テレビ出演もあったりして、ファンがつき始めた時期だったからかもしれない。最初にステージに上がったのがシーナ&ロケッツだったけど、お客さんはあまり盛り上がらなかった。だから、次の出番のRCも屋根裏みたいにはならないまま終わるだろうなと思っていました。ところが、RCがステージに上がると同時に、ドーンとお客さんが全員立ち上がりました。初めてRCを観た人もずいぶんいたと思います。
宗像:前に押しかけてきたからね。
森川:あの日がRCのブレイクポイントだったと思います。僕や宗像さんが気付かないうちにRCの導火線に火がついていたというか。ただ、それは東京だけだったかもしれないけど。
清志郎が発明した日本のロック
宗像:森川さんが『GOTTA!忌野清志郎』(森川氏が「連野城太郎」のペンネームで書いた忌野清志郎人物伝)にも書いていたのかな。その後、大阪でも火がついた時、誰がカバやねんロックンロールショーのダンシング義隆さんが “日本でもこんなホンマもんのバンドが売れる時代になってきたんやな、嬉しいわ” と言ったくらいで、プロにとっても本物のバンドなわけですよ。それまで、格好だけロックみたいな連中が売れていた中で、全く違う形の音楽、アーティストが売れたということだと思います。

森川:そこには、清志郎が日本語を丁寧に歌った部分が大きかったと思います。それまでのロックは海外から来たものの流れだから、巻き舌だったり、英語っぽく歌ってみたり、そういう人たちがかなりいましたよね。それはそれで素晴らしいけど、結局ステレオタイプのバンドがいっぱい出てきてしまった。その中でもRCだけは違っていました。
ーー 本当の意味での日本のロックバンドが出来上がったということですよね。
森川:清志郎が日本のロックを発明したと思っています。
宗像:当時、日本語でロックは可能なのか、という大論争がありました。それは評論家だけではなく、ミュージシャンにも波及していったと思いますが、清志郎にしてみれば、ちゃんちゃらおかしいよね、というか、当たり前の話じゃないか、というふうに思っていたと思います。あの時、清志郎にもそういう質問が来て、“日本語だって元々リズム感あるんだよ” と言っていました。「っ」という促音を上手く使えばリズム感が出せるんだということも明確に言っていました。
ーー そういう部分も考えて、自分の言葉をどのように響かせるかということも意識していたということですね。
宗像:そうですね。
森川:清志郎は歌詞と曲をほぼ同時に作っていました。言葉を出している時にメロディをつけている感じだったと思います。例えば、「愛してる」という言葉が出たら、そこにメロディをつけながら歌う。そこからメロディも、その後の歌詞も膨らませていくという感じだったと思います。
宗像:だから聴く人にもすごく自然に入ってきて、聴きやすいというか。僕が知っている他のシンガーソングライターでも、いい曲が書けた時は必ず歌詞も一緒に出てくると言っていますね。でも、どうしてもスランプに陥るとメロディを作ってから歌詞を当てはめることになるので、出来栄えに満足できないというのはあるみたいですね。
清志郎の歌詞で、何と言っても素晴らしいのは、彼が歌う情景、登場するふたりの関係がビジュアライズできるところですね。聴く人が描く絵は清志郎が描いた絵とは違うのかもしれないけれど、それぞれの情景が見えてしまう。それが詩人として圧倒的に凄いな、という気がします。
久保講堂のライブはレコーディングありきだった
ーー BOWWOW、シナロケと共演した渋谷公会堂があって、その後『RHAPSODY』で全国的に知れ渡ったという認識で良いですか?
宗像:『RHAPSODY』が出ても、自分たちの中でそれほど手応えがあったわけではなかった。
森川:当時、僕と宗像さんが、『RHAPSODY』の映像をビデオに落として、ビデオデッキを担いで地方のラジオ局などを回っていましたから。
宗像:ライブを観てもらわないと始まらないというのもあって、地方のラジオ局って、当時はビデオデッキがないんですよ。だからビデオデッキを担いで、久保講堂のライブ映像を5、6曲観てもらっていました。だから地方まで届いているという感覚は全くなかったですね。
ーー 当時『RHAPSODY』がライブ音源だったことは、すごく意義があったと思います。
森川:彼らはライブの方がいい演奏ができると思っていました。それに、あの時はツアー中でもなんでもないんですよ。ライブレコーディングのためだけに久保講堂を押さえました。あの時は新曲が出たわけでもなかったので、ライブで彼らが本領を発揮できるものをパッケージにした。ただ、僕らはライブ盤は売れないという認識だったので、『RHAPSODY』のジャケットにライブレコーディングとは一切書いていない。『RHAPSODY』という新しいアルバムが出ました、ということで。
ジョン・レノンに捧げた「ヒッピーに捧ぐ」
ーー 4月に久保講堂で録音した音源が6月には『RHAPSODY』としてリリース。その年(1980年)、ジョン・レノンが凶弾に倒れた直後の12月25日に渋谷公会堂のライブがあったと思います。その辺のことは覚えていらっしゃいますか?
森川:覚えていますよ。すごくよく覚えている。結局、あの時は、渋谷公会堂までは上り詰めているという確信がありましたよね。『PLEASE』も出ていたし、1980年の秋の学園祭はすごかった。どこでやってもライブハウス状態になって、いよいよRCが盛り上がってきたという時でした。
それで、12月9日(日本時間)、ジョン・レノンが亡くなった日、清志郎たちは、渋公に向けてリハーサルを渋谷の並木橋にあるスタジオでやっていました。その日の昼間、正午ぐらいにジョン・レノンのニュースが伝わってきて、CHABO(仲井戸麗市)からすぐ電話があったんです。それで、後でとにかくスタジオで会おうと。それでスタジオに行ったんです。みんな、あまり言葉にはしなかったけど、落胆しているのが分かりました。特に僕とCHABOはビートルズの話をよくしていたので、すごくショックでした。その時、渋谷公会堂で何をやろうか、という話になって、僕が “「ヒッピーに捧ぐ」をやらないか?” と言いました。
ーー 森川さんの提案だったのですね。
森川:清志郎がある意味ジョン・レノンに捧げる曲をやるのだったら、「ヒッピーに捧ぐ」じゃないかなと。あの歌詞に出てくるヒッピーはジョン・レノンではないけれど、挽歌というか、追悼歌だから、僕は渋公でそれを聴きたいという話をしました。「ヒッピーに捧ぐ」をライブでやるのは初めてだったのかもしれない。もしかしたら3人の時にやっていたかもしれないけど、新しい形になったRCでは初めてだった。だからこそ、ヒッピーをやろうと。それで、CHABOが “ジョン・レノンに捧げる” というMCを添えました。
ーー あの時に渋公にいたスタッフ全員、ロビーにいた物販の人も全員がステージに押し寄せたという話を聞いたことがあります。
宗像:あの日は、チケットも全て売り切れて、入れないファンが周りに500人くらい残っていました。会場の音が少し漏れてくるのかな?「ヒッピーに捧ぐ」のイントロが流れた時に外にいたファンがワーっとなだれ込んできた。それで、警備員は押し返そうとしたんですが、“この曲だけは聴かせてくれ” と懇願して、「ヒッピーに捧ぐ」が終わったら、みんな、大人しく外に出たという感じでした。
武道館公演、そして「い・け・な・い ルージュマジック」で全国区へ
ーー そこから初の単独武道館公演(1981年)まで1年ですよね。
森川:本当はあの時点で、武道館も出来たと思う。学園祭から年末にかけて、RCの人気が急速に広まったでしょ。だから、渋公だったら当然出来るぐらいのつもりでした。
宗像:あの頃の武道館って敷居高かったよね?
森川:敷居高かったと思いますよ。あの頃、日本のミュージシャンで武道館のライブをやるのは、矢沢永吉ぐらいだったから。でも、前年の夏にシーナ&ロケッツとプラスティックスとRCで武道館やったよね。『RHAPSODY』の後だから結構盛り上がっていました。
武道館公演(1981年12月24日)をやる少し前に清志郎がロサンゼルスにローリング・ストーンズを観に行っているんですよ。『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』という映画にもなっている1981年の北米ツアーですね。あの時のステージは傾斜があるでしょ。それを観て、ああいうのをやりたいと。だから、あの武道館のステージも緩やかな坂になっているんです。ストーンズの真似をして。
ーー あの公演は、清志郎さんが全力を出し切っているというか、ペース配分なんてものともしないすごいステージですよね。楽曲の素晴らしさだけではなく、観せることもしっかり考えているという印象がありました。
宗像:梅津さん、片山さんたちホーンセクションも含め、全員が違う世界に入っているような印象がありましたよね。
ーー 急激に人気が出てきた頃、清志郎さんをはじめとするメンバーに強い変化を感じたりはしましたか?
森川:彼らもああいう状況になったのが面白かっただろうし、とうとうこういう時が来たんだという嬉しさもあったと思います。でも、僕と宗像さんがRCに関わったのはそこまでですから。そして年明けに坂本龍一と「い・け・な・い ルージュマジック」(1982年2月)を出しましたよね。それで忌野清志郎は全国区になったわけです。
宗像:その時はキティを離れてロンドン・レコードでした。キティでは、アルバム『BLUE』までだから。『BLUE』のリリース時(1981年11月)には、違うレコード会社に移るということを決めていました。
24時間RCサクセションのことしか考えていなかった
ーー RCがキティを離れる時、お2人はどういうお気持ちでしたか?
森川:悔しかったよね。僕と宗像さんがRCに関わったあの濃密な2年半というのは、本当に深かったからね。RCしかやっていなかった。24時間RCのことしか考えていないわけだから。実際、僕らが屋根裏で観て、ブレイクするまでは、1年あるかないかなんです。それでも、すごく長く感じました。“なんでこれだけやって売れないんだろ?” と。だから、夜中に宗像さんに呼び出されるんですよ。新宿に来いと。それで2人でRCの褒め殺しをやるわけです。あれがすごい、これがすごい、ああしよう、こうしようと。
宗像:それだけ音楽関係者の反応が鈍かったのかな? 一緒になって騒いでくれる人がいなかった……。
森川:だから当時は清志郎たちより、僕らの方が悔しかったのかもしれないね。それで、『PLEASE』とかで話題になりはじめた時は、やった!と思いました。
ーー その頃のRCサクセションが音楽業界やリスナーに与えた影響について、どのようにお考えですか?
森川:RCを聴いて育った子どもたちが、その後いっぱい出てきたと思います。そういう人たちが日本にロックを根付かせたと思う。彼らには、清志郎たちが、好き勝手にやれているように見えたと思うんだよね。アウトローにね。こんなこと歌っても良いんだよ、何をやっても良いんだと。ステージのMCにしても、清志郎のちょっと人を食ったところとかね。そういうRCを観ているとロックをやろうとする少年たちは楽しくなったのではないかと。それで、日本でもロックでメシが食えるんだ!と思ったのではないかと思います。
ーー「SUMMER TOUR」でゴールデンタイムの歌番組に出た時、清志郎さんはスポーツドリンクを飲みながらインタビューに答えている姿が映っていました。それを観た時、他の歌手とは違う自由さに感動したことがありました。
森川:そういえば、ステージで水とか飲み始めたのは清志郎が最初かもしれない。よく飲んで客に投げたりしていましたよね。屋根裏でもやっていたから。これも行儀が悪いとかではなく、ひとつのパフォーマンスとして根付かせたのかな。
ーー そういう所作が他のバンドと一線を画すところでもありましたよね。
森川:ステージでのMCというのも清志郎の発明だと思うんですよね。ああいう喋り方もそうだし、バックでバンドが緩やかに音を出している場面では、清志郎の喋りさえもリズムに乗っている。“次はこの曲をやります” といった杓子定規なものではなく、そういう部分も含めてRCのステージは完成していました。
RCが売れれば、日本の音楽がもっと面白くなる
ーー お2人はRC、清志郎さんと濃密な日々を過ごしていたと思いますが、今、当時をどのように受け止めていますか?
森川:すごく暑い夏にいるという感じかな? 夏休みのど真ん中にいて、汗をかきながらRCのことばかりを考えていたから。あの頃の屋根裏の階段をワクワクしながら上がっていく感じとかを今も思い出します。あんなふうにアーティストにのめり込んでいく自分、思い詰めるほど考えていた日々は、あの時始まったんじゃないかな。なんか恋愛しているような感覚で(笑)。
宗像:僕もそれを言おうと思った。RCの担当になって共に過ごした時間は2年半ぐらいですか。夜中の1時、2時に帰ってきても、次の朝7時、8時には家を出る。ちょうど僕にも子どもなんかが出来た時期で、女房から “私と清志郎、どっち取るのよ!” と毎晩のように絡まれるわけです。僕は、なんの衒いもなく “清志郎を取るよ” ぐらいの感じでやっていました(笑)。それは森川さんが言う恋愛感情に近かった。
それに “清志郎たちが売れれば、RCが売れれば、日本の音楽がもっと面白くなる” という確信があった。RCに出会う前は日本の音楽を聴いて、こんなの嘘っぱちだと感じる、納得のいかない部分が山ほどあったんです。でもRCという雛形が出来て、こういうのが当たり前になったら日本の音楽はもっと面白くなるという確信がありました。
そのためにRCを売らなくてはいけないというのが、強いモチベーションになっていました。そして、このRCが売れれば、日本という国自体がもっと良くなるのではないかというくらいの気持ちでしたね。今考えれば、若気の至りですが。ストレートになって、素直になって、好きなものは好きだと言えばいいじゃないかという部分も含めてですね。

ーー 実際、RCが売れた後の音楽業界はどのように変わりましたか?
森川:RCは売れたと言えるほど、売れてはいないといまだに思っています。まだ悔しさがあるよね。いやいやRCはもっとすごいぜ、と。昔のものを掘り返して、もう一度何かやりたいなと思いますね。
宗像:いい曲を書いたシンガーソングライターはたくさんいますが、世の中に知られていない曲はいくつもある。もし僕が音楽出版社の社長だったら、それをこういうアイドルに歌わせたらどうだろうとか、どこかで化学反応を起こせるアイディアはたくさんあると思うんです。
物事は大体組み合わせですよね。ストレートに打ち出して分からないものでも、誰かを媒介すれば分かったりすることもあるわけだから。そういうことも考えなくてはいけない。やってみなくては分からないこともあるわけですから、それを動かすエネルギーが必要じゃないかと。あの時の僕と森川はそういう精神状況にいたと思います。
森川:今もRCは大ブレイクしたバンドではないと思っている。でも、現役のロックバンドや後から出てきたバンドに、直接であれ間接的であれ、きっかけや影響を与えたと思っている。これからも遺されたRCの作品に触れて感動してくれる人はいるだろう。そういう人たちに日本のロックバンドのオリジナルはここに在るんだっていうのを伝えたい。
もはや存在していないバンドを僕たちが世の中に改めて知らしめようと思うのは、悪いことじゃないと思う。お節介なことかもしれないけど、既にRCは存在しないからね。面倒臭いことも起きないだろうし(笑)。こういう歴史的なバンドがいたということを知ってほしいですね(後編・了)。
日本のロックを発明したRCサクセション。その輝きは色褪せることなく、今も多くの人に愛され続けている。森川欣信氏と宗像和男氏の言葉から浮かび上がったのは、RCサクセションと忌野清志郎が時代を切り拓き、キング・オブ・ライブへと駆け上がっていった熱と軌跡だった。当時の熱量を鮮やかに語っていただいた森川さん、宗像さん、ありがとうございました。
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2026.10.12