京都木屋町。その三条通りから少し下ル(※)と、その店はあった。
繁華街のど真ん中ではあるが、カウンターが8席ほどしかない。席に着くと背中と壁がやたらと近く、後ろを人が通るのもやっとだ。店の奥にあるトイレも当然のように狭く、トビラは一般家庭のそれと比べて、2/3ほどだっただろうか。
しかし、このトイレには、木屋町を駆け巡った “大いなるナゾ” が残された。
80年代、京都の夜は長かった。明け方まで営業する店も多く、零時をすぎても宴会帰りのビジネスマンや酔っぱらって大声を上げる学生、スナックを退けて帰りを急ぐ女性たちなどがあふれていた。
この頃も、酒を飲んだ帰り際、「締めはラーメン」というお馴染みの風習は存在し、その店「大八亭」は、木屋町を闊歩する人々の間でも、ちょっと知られたラーメン店だった。
仕事中の店主は愛想が無く、寡黙だが、普段は笑顔の似合う気さくなおやじさんという雰囲気だ。その店主が、スーパーニッカの水割り片手にもたらした情報は、こうだ。
「ブルーザー・ブロディが来店し、トイレに入った」
それを聞いた人は、同時に「嘘だぁ~~」
どうやったら入れるのだ。ブロディは2m近い身長で、140㎏ほどの巨漢だ。どう考えたって、あの狭いトイレに入ることはできない。仮にトビラを通れても、一体、どうやったら○便ができるのだ。
確かにこの時期、全日本プロレスが京都大会を開催しており、メインに登場したブロディが、木屋町に出現しても時間的には合いそうだ。全日の選手のいっしょに来店したということなので、そこまでは納得できる。しかし、トイレは無理でしょ。トイレは…
この情報は、しばし木屋町界隈で話題になった。翌日から、会う人会う人が「知ってる? ブロディが大八亭さんのトイレに入ったんだって」。
妙な話である。「ラーメンを3杯食べた」とか「ビールを10本飲んだ」という事実ではなく、トイレの話に終始するのだ。以降、しばらくの間、大八亭に来店した人の多くは、トイレに入ったという。
さて、ブロディは、ウエスト・テキサス州立大学卒業後、プロフットボールの名門団ワシントン・レッドスキンズに入団したが、故障で断念。以降、新聞記者を経てプロレスラーになったというエリート。
リングで魅せるファイトスタイルも、どこか余裕を持って、考えながら闘っている印象が強く、「最強」と呼ぶプロレスファンも多かった。
そのブロディのテーマ曲はツェッペリンの「移民の歌」。実際に使われたのは、日本人のジャズドラマーである石松元がカヴァーしたインストヴァージョン。冒頭の「アアアーアー」という叫びをサックスで奏でた音色が、ブロディの風貌と手に持つチェーンと組み合わさり、異様な雰囲気を創りあげていた。
残念なことにブロディは、1988年7月17日、遠征先のプエルトリコで、トラブルとなった相手レスラーに控室で腹部を刺され死亡した。
彼の「フライング・ニー・ドロップ」は、別名「キングコング・ニー・ドロップ」と名付けられ、特別な試合、特別な相手にしか使わなかったという伝説の技。まさにフィニッシュホールドだった。
(※)交差点から南へ進むことを京都ではこう表現する。郵便物もこれで届く。ちなみに北へは「上ル」、東へは「東入ル」、西へは「西入ル」となる。
2017.01.06
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