僕が生まれた北九州市は1963年に門司市、小倉市、八幡市、戸畑市、若松市の5市が合併して出来た政令指定都市だ。四大工業地帯の一つとして当時は活況に溢れる街であった。
僕が生まれた年は1959年だからその頃はまだ若松市だった。小さな半島に人口は10万人を超え若松もまた非常に栄えた地方都市であった。そのおかげで僕が幼い子供の頃、近所に映画館が沢山あった。
その中でもよく通ったのが東宝クラブとゆう映画館だった。目抜きの大通りには石炭を運ぶ路面貨物列車が働き、当時東洋一の吊橋若戸大橋がそれを跨ぐ交差点の角に東宝クラブはあった。日曜日は父母と兄二人と僕、よく憶えてない作品もあるが当時の娯楽といえば映画は王道でホントによく観にいった。
映画を観た後は東宝クラブを出た対面にある中華料理店に入るのがルーティンで僕はここ北京飯店の酢排骨(スーパイコ)=全国的にゆうところの酢豚が大好きで家族で行く映画の楽しみの中に占めるスーパイコの存在は大きかった。今でも中華料理といえば酢豚はマストだ。
幼かったので父母のセレクトによる映画鑑賞であったが、ある日初めて僕自身がどうしても観たい映画に出会う。「キングコング対ゴジラ」だ。当時3歳。
百科事典の恐竜が大好きで、ジュラ紀の大型肉食恐竜のフォルムに痺れあがって、広告チラシの裏にクレヨンで書き写しまくっていてそれが楽しくて楽しくてしょうがなかった時、ゴジラとゆうスーパースターがあのキングコングと一緒に若松にやってくる。1962年このゴジラシリーズから暫くの間、僕のゴジラ紀が続くのである。
僕は音楽に携わる仕事をさせて頂いてるが、その道に進む決定打はこの時に打たれていたと思うしかない。
母は日舞をやっていてその伴奏が静かに流れ、上の兄はヴァイオリンを習っていた。当時の流行の音楽をはじめ家には音楽が溢れていた。そのような環境の中ゴジラ紀真っ只中の僕はいよいよシリーズ6作目になる「怪獣大戦争」を観にいくのである。
憎ったらしいX星人をやっつけたい気持ちと、敵でありながらも相当ソートーカッチョいいキングギドラにドキドキしながらの大興奮であったが、この時、ゴジラと並ぶスーパースターに僕は出会うのだ。
当時映画上映は二本立てが普通でこの時の併映作品が「エレキの若大将」だったのだよ、すみちゃん。加山雄三も凄くカッコいいのだが、なんだこの出前のお兄さん、テケテケサウンドは既に町に流れていたけれど、映像込みのエレキギターサウンドはスクリーンから僕の脳天に強烈な電撃波をぶち当てた。「君といつまでも」と「夜空の星」を巻き込みながら寺内タケシ大先生奏でるエレキサウンドの虜になってしまったのだテケテケ。
当時若松ではエレキギターの実物は見る事は出来ず、小倉のデパートにあるらしい事が分かり、井筒屋の楽器売り場に母に連れて行ってもらい欲しいと駄々をこねるも当然頭をはたかれて却下された思い出がある。50年以上前の7万2千円(記憶では)。当たり前か、僕6歳。
人目のない座敷、こたつの上に乗り部屋掃き棒木をエレキギターにみたてテケテケテケテケ ビュンビュン タンタンタンタタタタタタン兎に角テケテケの日々。兎に角エレキが一番カッコいいと思っていた頃だった。で、今でもきっとエレキギターがカッコイイと思っている。
キング・クリムゾンは80年代に復活し『ディシプリン』を発表した。この作品を語るに絶対はずせないのがギタリスト、エイドリアン・ブリューだ。彼の登場はロバート・フィリップの創作意欲をおおいにかき立てただろう。嫉妬しただろうし尊敬しただろうし憧れただろうし愛おしい存在だったであろう。そして僕もまたぶっ飛んだ。新しいエレキの人が登場したのだ。
パオ-ンパオーンである。「エレファント・トーク」である。元々キング・クリムゾンの大ファンであったが、これは1st.に並ぶ出来栄えだと思った。珍しいことである。1969年の衝撃のデビューから12年目にして更に進化したキング・クリムゾンに敬意を表したい。
そしてゴジラといえばデビューは1954年、63年たった今、シン・ゴジラとなり年日本アカデミー賞を受賞した。
2017.03.27
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