レモン
あなたにとって、レモンと言えば高村光太郎? 梶井基次郎?
どちらも作家の名前を聞くだけでレモンの瑞々しさ、鮮やかさ、そして際立った存在感が思い起こされ、切なくなる。
私は高校までは主に横浜とロンドンで過ごしたので、東京と言えばたまに訪れる祖父母のいた品川くらいだった。今では品川と言えば巨大な駅、そしてオフィス街&高級マンション群だけれど、当時の港南口などは私の子供ビジョンだとちんどん屋の音が響く京浜急行の終着駅だった。
それから、高校での現国の授業。大好きだった脱線話で得た神田の蕎麦屋がおいしいという情報は、まだ知らぬ東京への憧れと妄想を膨らませた。だけれど、所詮、海風とちんどん屋のイメージからぬけられない私が抱く東京は迷走しがちだった。
梶井基次郎の檸檬が置かれただろう京都二条の洋書店は、私の頭の中では知らぬ間に神保町の古本屋に置き換えられていた。当然その神保町は空想の代物だったが、純文学のモノクロームな世界と檸檬の鮮やかさの対比は私をしびれさすには十分だった。
こうして、なんちゃって文学少女となった私の東京は時代錯誤のレトロな街となった。そこに原宿の芸能人ショップといった新しい知識が加わったり、二度の渋谷公会堂詣でなどしながらリアルタイムにキャッチアップしつつ、私は高校を卒業することになったが、東京は近くてもなかなか縁のない街のままであった。
そんな私が今やどこの町よりも東京での生活が一番長くなってしまった。とはいえ、住まいは下町なのでやはり私の東京は渋めだ。檸檬が置かれればそれが際立つような景色の中にいる。
さて、そのレモンを音楽の中で探してみると案外たくさん存在する。最近では米津玄師が秀逸な「檸檬」を歌っているが、80年代ソングでいえば私は断然 PSY・S[saiz]の「Lemon の勇気」だ。
そもそも、PSY・S の曲のほとんどがが「檸檬」的だと言ってもいい。イントロから全てが檸檬、レモン、Lemonである。
大好きだったし、今聴いても当時と同じように心がザワザワして「何かしなきゃ、何か!」とオロオロしてしまう。
言葉と言葉の隙間で迷い、迷路のなかを駆け巡ってはどこにも行き着かない。でも日はまた昇る。そんな世界観が私にはまぶしかったなあ。このようにPSY・Sはアート全開なユニットであった。
話はレモンに戻る。
食べ物としては様々なマリアージュがあるレモンだけれど、存在としてはありふれているようでいて、色にしろ、香りにしろ、味にしろ、周りから特に際立った存在である。
誰もが知っていて、親しみがあって、元気でスマート。そして、誰にも媚びない。ただただレモンはレモン。私は私。
ただそれだけなのに… 特に若者にとっては。そして年を重ねてもたまに… なんと受け入れがたい事実なのか。
だから、これからもレモンがモチーフの優れた作品が生まれるだろう。
そのためにもレモンがレモン汁としてだけ存在するのではなく、果物のレモンとして流通しつづけることを望む。レモンの木がどんなものでどんなふうに果実がなるのか知らないなんてちっとも面白くない。
智恵子の死の床で手にしたのがプラスチックボトルに入ったレモン汁だったとしたら、興ざめだもの。
「智恵子は現代にはほんとうのレモンがないといふ」
なんてちっともあどけない話ではなくなってしまうではないか。
2018.11.14
Apple Music
Information