特定の一夜に起きた出来事を描いたワン・ナイト・ムービー
歴史は夜作られる―― じゃないが、いわゆる “一夜もの” (ワン・ナイト・ムービー)と呼ばれるジャンルの映画がある。その名の通り、ある特定の一夜に起きた出来事を描いた映画のことだ。
古くは、1932年のエドマンド・グールディング監督の『グランド・ホテル』がそう。ある晩、たまたま同じホテルに居合わせた人々の人間模様を同時並行的に描いて、後に「グランド・ホテル形式」なる群像劇のスタイルを確立した歴史的作品である。
かのジョージ・ルーカスが無名時代に撮って、一躍その名を轟かせた1973年の『アメリカン・グラフィティ』もそう。時は60年代初頭―― カリフォルニアの田舎町を舞台に、高校を卒業したばかりの若者たちが共に過ごした最後の一夜を描いた逸品で、瑞々しい青春群像劇が新鮮だった。
あの『ダイ・ハード』もそうだ。ご存知、舞台はクリスマス・イブ―― ブルース・ウィリス演じるNY市警のマクレーンは、別居中の妻に会いにロスの日系企業を訪れるが、そこでテロリストの占拠事件に巻き込まれる。事件が無事解決し、エンディングで流れるクリスマス・ソング―― フランク・シナトラの代表曲「レット・イット・スノー」の軽快な旋律が印象的だった。
深夜の生放送中のラジオ局を舞台にした珠玉のシットコム「ラヂオの時間」
そして―― 日本にもその種のワン・ナイト・ムービーはある。それが、今回ご紹介する三谷幸喜監督が初めてメガホンをとった映画『ラヂオの時間』である。時に、1997年―― 今から26年前の今日、11月8日に公開された、ある深夜の生放送中のラジオ局を舞台にした珠玉のシットコムだ。
ご存知の方も多いと思うが、同映画は、三谷サンが主宰する劇団「東京サンシャインボーイズ」(現在活動休止中)の演劇が原作である。初演は1993年3月12日、彼らがホームグラウンドとする新宿シアタートップスだった。そして、これもご存知の方が多いと思うが―― 同演劇は同じく93年、三谷サンが初めてゴールデンタイムの脚本を手掛けた連続ドラマ『振り返れば奴がいる』(フジテレビ系)が大いに関係している。
コトの次第はこうだ。当初、同ドラマを書く予定だった脚本家が諸事情で降板し、急遽、局P(局プロデューサー)の石原隆サンから三谷幸喜サンにピンチヒッターの声がかかった。当時、三谷サンは新人脚本家ながら、深夜ドラマ『やっぱり猫が好き』(フジテレビ系)のメインライターとして、一部で熱狂的なファンを獲得していた。医療ドラマは門外漢だったが、ゴールデンタイムの連ドラは脚本家にとって檜舞台。断る新人脚本家などいない。三谷サンも深く考えずに引き受けたという。
この時、三谷サンに課せられたオーダーは、医療ドラマというスタンスを守ってくれたら、基本何を書いてもいいというものだった。今じゃ考えられないが、ゴールデンの連ドラに新人脚本家を起用して、フリーハンドで書かせる度量が当時のテレビ局にはあった。これこそ、バブル崩壊を機に、80年代のベテラン脚本家たちからの代替わりを望んでいたテレビ業界の「新・黄金の6年間」の賜物である。
しかし―― それまで、演劇も深夜ドラマも、コメディしか書いたことがなかった三谷サン。同ドラマも、自身が好きな漫画『ブラック・ジャック』やドラマ『白い巨塔』をモチーフに、ほんのパロディのつもりで書いたところ―― チーフディレクターの若松節朗サンから、ことごとくコメディパートを削られる。オンエアを見た三谷サンは、トーンが激変した同ドラマに愕然としたという。
とはいえ、誤解なきよう―― 元来、テレビドラマの脚本というのは、大御所先生ならともかく、基本、“直されてナンボ” である。まず、プロデューサーとの本打ち(脚本打ち合わせ)で何度も書き直しを命じられ、次に撮影現場においてディレクター判断でカットされたり、設定を変えられたりして―― 最終的には役者(多くは主演俳優)自身によって言いやすい台詞に変換される。
だが、当時の三谷サンはその辺の “脚本家事情” を全く知らず、度重なるカットや直しの洗礼を受け、かなりトラウマになったらしい。そして、その時の忸怩(じくじ)たる思いをもとに書かれた演劇が――『ラヂオの時間』である。ちなみに、ドラマ『振り返れば奴がいる』の最終回が1993年3月24日、『ラヂオの時間』の初演が同年3月12日なので、両作品は並行して書かれたことになる。
舞台は、生放送でラジオドラマをオンエアするラジオ局
映画『ラヂオの時間』の舞台は、その日、深夜0時から生放送でラジオドラマをオンエアする、とあるラジオ局である。冒頭、リハーサルを終えたばかりのサブ(副調整室)の様子が描かれる。ディレクターの工藤(唐沢寿明)やプロデューサーの牛島(西村雅彦)、ドラマ原作者で主婦の鈴木みやこ(鈴木京香)、役者の千本のっこ(戸田恵子)らがやりとりするシーンは、ワンカット(1台のカメラ)4分半の長回しで撮影された。観客を、これから始まる生放送の世界に引き込む、粋な演出である。
それにしても―― 今日びラジオドラマなんて、まずやらないし、ましてや生放送の意味が分からないけど(笑)―― まぁ、その辺がフィクションの面白さ。実は、映画やドラマって、リアルタイム(同時代)の話でも、舞台設定をほんの少し過去に振ってあげた方が、世界観が作りやすいんです。ドラマ『あすなろ白書』の古びた校舎のオープンセットとか、映画『時をかける少女』の尾道の町並みなんかもそう。映画『男はつらいよ』シリーズなんて、全編そうだ。
同映画の構造はシンプルである。ラジオドラマ『運命の女』の生放送中、平凡な主婦・みやこの脚本が、役者のワガママやスタッフらの横やりで次々と “改変” される。1つ変えると、先の話も辻褄が合わなくなり、その都度改変を繰り返すうち、とうとう支離滅裂な話になる。さて、これをどう着地させようか―― と、生放送中に皆が四苦八苦する、典型的なシットコムだ。
ちなみに、元々のラジオドラマのストーリーは、静岡県熱海市を舞台に、パチンコ店のパート主婦・律子が村の漁師・寅造との運命的な出会いを果たし、やがて夫を捨てて愛に生きるという純愛モノ。ところが―― 本番直前で、千本のっこが、“役名は「メアリー・ジェーン」がいい” と言い出す。主役の機嫌を損ねるワケにもいかず、プロデューサーの牛島は渋々これを認める。そして―― このたった1つの変更が、バタフライ・エフェクトじゃないが、とんでもない話へと発展するのである。
見どころはキャラクターたちがリアルに作り込まれている点
同映画の見どころは、それだけじゃない。登場人物それぞれにモデルがいると言われるように、いかにもこの業界にいそうなキャラクターたちが、リアルに作り込まれている点もそう。個人的に感心したのが、布施明サン演ずる編成部長の堀ノ内だ。多くの番組を掛け持ちして常に忙しく、一見誰に対しても愛想よく振る舞うが、言葉に気持ちがなく、実は小心者で、番組の中身よりもタレントやスポンサーにいい顔を見せることしか考えていない――“あぁ、こういうテレビマンいるなぁ(笑)” と思わせる作り込みはさすがである。これを布施サンが実に見事に演じている。
あとは、芸能界の裏方を転々として、今は千本のっこのマネージャーに収まってる古川(梅野泰靖)のこなれた感じとか、放送作家バッキー(モロ師岡)のクセの強い “職業作家” 臭とか、劇団あがりの脇役俳優・野田(小野武彦)の実直さとか、ベテランなのに偉ぶらず、人当たりが良くてダジャレ好きな俳優・広瀬は、もはや演じる井上順サンそのものとか―― 。
1人の平凡な主婦が放り込まれることで起こる化学変化
さて、物語は千本のっこのワガママで、役名が律子からメアリー・ジェーンに変更されたのをキッカケに、舞台がニューヨークになり、彼女の職業もパチンコ店のパートから女弁護士に改変される。本番開始まで時間がないため、プロデューサーの牛島はやむなくバッキーさんに台本の改訂を頼む。この時のやりとりが面白い。
牛島「これ読んでくれ。ヒロインを女弁護士に直してほしい」
バッキー「(台本をめくりながら笑顔で)わかった」
牛島「45分までに頼む」
バッキー「(時計を見て)あと4分か」
牛島「そんなことができるのは、バッキーさん、世界でお前だけだ」
バッキー「(サングラスを外して決め顔)多分な」
―― そう、同映画のキャストたちは、鈴木京香サン演じるヒロインみやこを除いて皆、プロの集まりなのだ。忙しい毎日に忙殺されつつも、プライドを持って、各々の持ち場で仕事をしている。派手な感情こそ見せないが、内に秘めたるものがある。ざっくり言えば、同映画はそんなプロの世界に、1人の平凡な主婦が放り込まれることで起こる化学変化を描いている。
本番直前、唐沢寿明サン演じるディレクターの工藤が、脚本が次々に改変され、落ち込むみやこにこう告げる。
「ここにいる奴らは誰もいいもん作ろうなんて思っちゃいない。牛島さんは番組が無事終了することしか考えてないし、編成の堀ノ内さんは掛け持ちが多すぎて、番組に対する愛情なんて、これっぽっちも持ってない。そして俺は、与えられた仕事をこなすだけだ」
深夜0時。生放送のラジオドラマが始まる。千本のっこ演じるヒロインの改名に端を発したストーリーは、更に改変を繰り返し、もはや元の話とは似ても似つかぬ話になっていた。ニューヨークはシカゴになり、寅造改めドナルド・マクドナルドの職業は漁師からパイロットになり、そしてハワイ上空で消息を絶った――。
監督を務めた三谷幸喜自身のメッセージとは?
―― だが、これにスポンサーの航空会社からクレームが入る。やむなく飛行機事故は、宇宙船のパイロットの事故に改変されるが、宇宙で遭難となると、即ちパイロットは地球に生還できない結末になる。マクドナルドはメアリーと再会できないが、千本のっこは逆にノリ気だった。ヒロインが1人で生きていくと、高らかに宣言するラストを提案する。
ここで、これまで数限りない “改変” に我慢してきたみやこの堪忍袋の緒が、遂に切れる。彼女はスタジオに一人、鍵をかけて立てこもる。スタジオ・ジャックだ。サブから牛島がマイクを通して説得を試みる。
牛島「奥さん、自分が何をしているか分かってるんですか」
みやこ「……お願いですから、ホンの通りにやってください!」
牛島「よく聞きなさい。僕らは遊びでやってるわけじゃないんだ」
みやこ「……だったら、最後に私の名前を呼ぶのをやめてください」
ここで、牛島が吐く台詞が実にいい。同映画の最大の見せ場と言っていい。これまで中間管理職のように、皆の板挟みになって四苦八苦してきた彼の真意が語られる。そして、これは原作者であり、監督を務めた三谷幸喜サン自身のメッセージでもある。
「あんた、なんにもわかっちゃいない。我々が、いつも自分の名前が呼ばれるのを満足して聴いてると思ってるんですか。何もあんただけじゃない。私だって名前を外してほしいと思うことはある。しかし、そうしないのは、私には責任があるからだ。どんなにひどい番組でも、作ったのは私だ。そこから逃げることはできない。納得するものなんて、そう作れるものじゃない。妥協して、妥協して、自分を殺して作品を作り上げるんだ。でも、いいですか。我々は信じてる。いつかは、それでも満足いくものができるはずだ。その作品に関わった全ての人と、それを聴いた全ての人が満足できるものが。ただ、今回はそうじゃなかった。それだけのことです。悪いが、名前は読み上げますよ。なぜなら、これはあんたの作品だからだ。紛れもない――」
みやこは降参してスタジオを出る。そう、みやこはかつての三谷サン自身だった。ドラマ『振り返れば奴がいる』で度重なる直しに落ち込み、憤慨した自分自身だった。でも、間もなく三谷サンは、それが独りよがりの思い込みだったと悟る。同映画は脚本家のホンをないがしろにする話じゃない。モノづくりにおいて、皆が妥協に妥協を重ね、その結果できたものに、作り手として責任を持つことを説いている。そして、いつかは満足する作品ができると信じることも ――。
脚本家・三谷幸喜が『振り返れば奴がいる』の翌年、手掛けた作品が『警部補・古畑任三郎』である。
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2023.11.08