1995年 7月12日

すべては野茂英雄から始まった!メジャーリーグの重い扉を開けた “たった一人の挑戦”

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新・黄金の6年間 ~vol.10
■ 1995 MLBオールスターゲーム
先発:野茂英雄(ナショナルリーグ)
開催:1995年7月12日

MLBオールスターゲームに、日本人として初めて出場した、野茂英雄


今日―― 7月12日(アメリカ時間7月11日)は、米ワシントン州シアトルで、年に一度のMLBオールスターゲームが開催される。

注目は、なんと言っても、3年連続「二刀流」で選ばれた大谷翔平選手だろう。残念ながら、今回はコンディション面から投手としての出場を回避、バッターに専念すると言われている。それでも両リーグ通じてトップのホームラン数を誇る存在感は大きい。

思えば、今でこそ日本人メジャーリーガーがアメリカのオールスターで活躍する光景は珍しくないが(2007年には、イチロー選手がランニングホームランでMVPに輝いた)、すべては、最初にその重い扉を開けた、たった一人の挑戦から始まった。

奇しくも、今から28年前の今日―― 1995年7月12日(アメリカ時間7月11日)にテキサス州アーリントンで行われたMLBオールスターゲームに、日本人として初めて出場した、野茂英雄その人である。

ドラフト会議では史上最多の8球団から1位指名、プロ野球選手・野茂英雄の誕生


野茂英雄―― 野球の「野」に、長嶋茂雄の「茂」、そして「英雄(えいゆう)」からなる名前は、野球界のレジェンドになるべき運命を背負っていたかのようにも見える。生まれは1968年、大阪市である。野球少年としては小・中学校時代は無名だったが、既に「体を捻って投げると直球の威力が増す」と、後の「トルネード投法」の原型となる「つむじ風投法」で投げていた。

高校は、野球の名門校でもなんでもない、地元の大阪府立成城工業高校(現・大阪府立成城高校)に進学。2年生からエースとなり、1985年、夏の甲子園大会大阪府予選の2回戦で完全試合を達成するも、結局、高校時代は甲子園出場を果たせず。卒業後は、社会人野球の新日本製鐵堺に入社した。

ここで、ようやく才能が開花する。伝家の宝刀フォークを覚え、社会人2年目にはチームを全国大会の「都市対抗」に導く。自身も日本代表に選出され、1988年のソウル五輪では銀メダルに貢献。89年のプロ野球ドラフト会議では史上最多の8球団から1位指名を受け、近鉄バファローズが交渉権を獲得した。プロ野球選手・野茂英雄の誕生である。

プロ野球時代の活躍は改めて記すまでもないだろう。1年目にして、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手四冠を独占。更に、ベストナイン・新人王・沢村賞・MVPにも輝く。そこから4年連続最多勝&最多奪三振――。

中でも、野茂と言えば、その異名「ドクターK」でも知られる奪三振ショーが魅力である。打者の最大の見せ場がホームランなら、投手のそれは奪三振。プロ入り初の三振を奪った相手は、時の西武ライオンズの主砲・清原和博だった。世に言う “平成の名勝負” はここから始まる。ちなみに、イチローはプロ入り初ホームランを野茂から奪っている。奪い、奪われ―― それが名選手たちの戦いだ。

ネーミングはトルネード投法! 野茂英雄、メジャー行きのカウントダウン


さて―― そんな順風満帆に思われた野茂だったが、思わぬ暗雲が立ち込める。90年のプロ入り以来、互いに深い信頼関係で結ばれていた仰木彬監督が92年限りで退任。93年からバファローズ生え抜きの鈴木啓示が新監督に就任する。メジャー行きのカウントダウンが始まった瞬間だった。

もともと、野茂が近鉄に入団する際、1つの取り決めがあった。それは――“投球フォームを変更しない” こと。時の仰木監督は快諾し、そればかりか球団は野茂の投球フォームを逆に売りにしようと、ネーミングを公募。かくして「トルネード投法」なる名前が決まった。野茂は勝ち星を重ね、仰木監督はAクラス入りを続けた。両者は良好な師弟関係にあった。

球団の制止を振り切るように近鉄を退団


ところが、93年に鈴木監督が就任して、事態は一変する。新監督は野茂のフォアボールの多さを指摘し、投球フォームに口出しを始める。更に、選手らに徹底した走り込みを命じた。これに、仰木前監督の下でコンディショニングコーチとして球団入りし、アメリカ仕込みの科学的トレーニングで選手たちから絶大な信頼のあった立花龍司コーチが反発する。2人は対立し、やがて立花コーチは球団を去った。

そして94年、野茂と鈴木監督の関係は更に悪化する。野茂は元来、立花前コーチのコーチングの下、開幕へ向けて徐々に体を慣らすスロースターターだったが、監督はオープン戦から結果を出せるようにと、いきなり100%の仕上がりを求めた。更に、シーズン中の登板を巡って、両者は度々すれ違いを起こす。結局、野茂は無理が祟ったのか、8月に右肩痛のため戦線を離脱、シーズン後半を棒に振る。ここへ至り、野茂は契約更改に向けて、複数年契約と、エージェントの団野村を代理人とした代理人交渉制度を提案する――。

だが、球団はこれを拒否。更に、メディアも球団の意を受けて、年俸の吊り上げが目的と、野茂を批判し始めた。世論も空気に流されるように、球団側につく。野茂は次第に孤立していった。

―― これ、当時の空気感を覚えているけど、まんまとメディアに乗せられたというか、多くの人には、野茂が単にワガママを吐いているように見えたと思う。鈴木監督と野茂ら選手たちの関係がそこまで悪化しているとも知らず――。それで空気に流されるように、僕らは野茂をヒール化して叩いていた(空気って怖いですねー)。

年が明けて1995年。未だ両者の溝は埋まらず、野茂は球団の制止を振り切るように退団する。ただ、自由契約ではなく任意引退扱いなので、野球協約68条第2項により、プロ野球界に復帰する際は、彼の保有権は近鉄にあった。球団側は、そのうち野茂が頭を下げて戻って来るとでも思っていたのかもしれない。

背番号16、メジャーリーガー野茂英雄誕生!


しかし―― 同年2月13日、野茂は急転直下、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。先の協約に、海外の球団は含まれていなかったのだ(※現在は改訂)。まさに、協約の穴をついたウルトラC。年俸10万ドルは、日本円にして、わずか980万円。近鉄時代の年俸1億4000万円の10分の1以下だった。背番号16は、友人である、とんねるずの石橋貴明が前年に映画『メジャーリーグ2』に出演した際、一足先に日本人メジャーリーガーとして付けていた背番号から拝借した。

「新・黄金の6年間」がある。バブル崩壊後の1993年から98年までの6年間、主にエンタメ界で新しい才能たちが次々とビッグヒットを放った現象を、僕は当リマインダーでそう呼んでいる。キーワードは「スモール」、「フロンティア」、「ポピュラリティ」―― 彼らは、比較的小回りの利くチームで動き、新しい開拓地を求め、直接大衆に語りかけた。それは、スポーツ界でもしばしば見られた現象だった。

そう、93年に幕明けたJリーグがその代表格。その意味では、後にJリーグを規範に改革するプロ野球のパ・リーグから巣立った野茂も、新・黄金の6年間の申し子と呼んで差し支えないだろう。ついでに言えば、野茂の恩師・仰木監督が94年にオリックスの監督に就任し、2軍でくすぶっていた鈴木一朗選手を「イチロー」に改名させ、本人の持ち味である振り子打法を生かして覚醒させた “事件” もまた、新・黄金の6年間のトピックスである。

野茂の前に立ちはだかった2つの大きな壁とは?


さて―― そんな野茂の前には、2つの大きな壁が立ちはだかっていた。1つは、言わずもがなMLBという未知の壁。もう一つは―― 前代未聞の “ストライキ” の壁である。実は、前年の8月以降、MLBでは選手会と経営陣が対立し、前代未聞の大規模なストが進行中だった。その影響は、野茂自身にも降りかかっており、先のドジャースとのマイナー契約も、スト中でメジャー契約ができないゆえの特別措置だった。

野茂は黙々とマイナーで調整を続けた。そして、来たるべきメジャーデビューの機会を待った。4月2日、労使が折り合い、長期に及んだストがようやく終結。例年より1ヶ月近く遅い4月25日に、1995年のシーズンが開幕する。

初勝利はデビュー1ヶ月後、スロースターター野茂英雄


そして―― 野茂のメジャーリーガーデビューは5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦と決まった。先発して5回を投げ、1安打、無失点、4四球、7奪三振。勝敗は付かなかったが、後に野茂は、メジャーで一番の思い出を問われた際、「初登板のとき。夢がかなった」と答えている。

初勝利は、その1ヶ月後―― メジャー7試合目の登板となった6月2日のニューヨーク・メッツ戦だった。8回を投げ、2安打、1失点。奪三振こそ6と少な目だったが、打たせて取る内容は完璧だった。日本のスポーツ紙は各紙1面で報じ、単身アメリカへ渡った男を取り巻く風向きが、ようやく変わり始めたことを印象付けた。

思えば、彼はプロ入り1年目の際も、初登板から初勝利まで3週間余りを要している。“スロースターター”―― それが、野茂英雄だった。だが、一度エンジンのかかったこの男は、いよいよその真価をいかんなく発揮する。



夢のオールスター出場、ナショナルリーグ開幕投手に


6月14日、ピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録すると、更に、同月24日のジャイアンツ戦では、日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利。地元テレビ局の実況アナウンサーは、野茂が三振を取るたびに日本語で「SANSHIN!」と叫んだ。結局、6月は50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗、防御率0.89。初のピッチャー・オブ・ザ・マンスに輝いた。そして―― 夢のオールスター出場の切符を手にする。

1995年7月11日(日本時間7月12日)午後7時。テキサス州アーリントンにあるザ・ボールパーク・イン・アーリントンでは、今まさにMLBオールスターゲームが幕を開けようとしていた。日本と違い、アメリカのオールスターは一晩だけなので、よりお祭り感が強い。先発投手は2人にのみ与えられた栄誉であり、それは各リーグを代表するナンバー1投手を意味した。アメリカンリーグがランディ・ジョンソン(当時、シアトル・マリナーズ)、ナショナルリーグが野茂だった。この並びを見ても、当時の野茂の扱いの大きさが分かる。

さて―― 野茂は1回裏に登板すると、最初のバッター、ケニー・ロフトン(クリーブランド・インディアンス)を豪快な三振に仕留め、結局、2回を1安打無失点、3三振と堂々たる結果で締めた。この夜、全米はトルネード旋風に沸いた。それは、前年からの長期のストで起きたMLBのファン離れがようやく収束したことを意味した。そう、野茂はMLBの救世主だった。その模様は、全米はもとより、日本を中心としたアジア各国、そしてヨーロッパにも中継された。

近鉄バファローズの鈴木啓示監督がシーズン途中で解任されるのは、この4週間後の8月8日である。

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2023.07.12
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カタリベ
1967年生まれ
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