TBSドラマ “野島三部作” のひとつは、いじめ問題を取り上げた学園ドラマ テレビで放送されるドラマには、誰しも苦手なテーマがあると思うが、私は “DV、虐待、いじめ"を扱った作品について嫌悪感を覚えることがある。登場人物の不幸な身の上とともに、凄惨な暴力シーンなどが描かれると、目を背けたくなってしまうのだ。昨今はテレビ局が細心の注意を払うようになったので、刺激の強いシーンは減ってきているが、かつて放送されたドラマには、再放送が難しいとされる作品が少なからず存在する。
『人間・失格〜たとえば僕が死んだら』もそのひとつ。名門といわれる私立中学を舞台に “いじめ" を題材に採り上げたTBSのドラマである。脚本は野島伸司。以前紹介した
フジテレビ『この世の果て』 を手掛けた直後には、
日本テレビ『家なき子』 を監修。次いで本作の脚本執筆と立て続けに衝撃作を世に送り出してきた彼の絶頂期にあって、再び局をTBSに移しての新たな試みでもあった。
本作品は、野島が当時脚本を書いた同局のドラマの中で『高校教師』『未成年』と併せて “TBS野島三部作” と呼ばれている。いずれの作品も彼とタッグを組み、成功させてきたのはプロデューサー伊藤一尋。奇抜なキャラクター設定や、邦楽・洋楽の新旧を問わず主題歌や挿入歌に採用する彼の姿勢は野島作品と相性が良かったといえる。
だが、放送を開始した際に、小説『人間失格』の著者である太宰治の遺族より抗議があり、改題の対応を迫られることとなった。主人公の放蕩生活の退廃的日常を描いた太宰の著作を知る人々ならば、過激な演出で話題化を図るテレビドラマのあり方に反感を覚えたことだろう。後の正式なタイトルには 「・」と「たとえば僕が死んだら」という思わせぶりなサブタイトルが書き添えられている。
挿入歌にサイモン&ガーファンクル「冬の散歩道」をセレクト 作中の使用楽曲についても当時としては画期的な試みが採り入れられた。「冬の散歩道(A Hazy Shade of Winter)」は洋楽ファンにはお馴染み、アメリカのフォーク・デュオ、サイモン&ガーファンクルの代表作である。“散歩道” というのんびりした印象の邦題が付けられているが、伴奏の緊迫感が表している通り、その歌詞にはいささか悲哀が漂う。世間の冷たい風にさらされて挫折し、すっかり落ちぶれてしまった若者の心情を歌った内容となっている。
Time, Time, Time,
See what’s become of me
While I looked around for my possibilities
I was so hard to please
時よ 時よ 時よ
どうか今の僕の有様を見るがいい
僕はずっと自分の可能性を追いかけていた
いつも自分に物足りなさを感じていたんだ
ーー自分は一体どこで道を誤ったのだろうと、自身の置かれた身の上を嘆き、過去の過ちを悔いている。それはドラマの登場人物たちが、陰鬱な日々を送る中で、自らに問い直しているかのようでもある。厳しい競争の中で他人を蹴落とし、利己的に生きようとするあまり、大切なものを見落としてしまい、取り返しのつかない結果を招くことになってしまう、このドラマの悲劇性にも通じる何かを思わせる。
VIDEO 先の野島作品『この世の果て』においても、洋楽曲の採用が検討されたが、日本ではあまり知られていない既存曲であったことから、その時は採用が見送られたいきさつがある(スキータ・デイヴィス「The End of the World」)。だが本作品では、それが断行された。日本にも多くのファンがいるサイモン&ガーファンクルの代表曲であったことも理由のひとつかもしれない。版権の事情もあって主題歌には成りえなかったが、他にも「明日に架ける橋」や「水曜の朝、午前3時」といった楽曲も挿入歌に用いたことで、数々のシーンがより印象深いものになっている。
主要キャストとして存在感を示した堂本剛、堂本光一の共演 ストーリーは赤井英和が演じる料理店主、大場衛の一家が、息子の進学とともに関西から東京に移り住むところから始まる。その長男・誠を演じたのは堂本剛。そして誠が通う学校で最初の友人となる男子生徒・影山留加の役に堂本光一。
共にKinKi Kidsとしてデュオを組み、活動30周年を迎えた2人がCDデビューを果たす以前に、初めて共演を果たした記念碑的な作品でもある。同じ事務所で共に関西出身、偶然にも同じ苗字というだけで、出自の異なる2人は言われるままに受けたオーディションで、互いに重要な役を勝ち取り、一躍注目の存在となった。
この作品では学校生活における “いじめ” だけでなく、その背景にある家庭や学校内部の人間関係、LGBTを交えた愛憎劇が描かれ、中には背徳的なシーンも見られた。それゆえ、興味本位で非道徳的な内容だとして、一部の視聴者から強い批判も受けている。そんな中、2人は本格的な演技が初めてにもかかわらず、過酷な運命を強いられる難役を務めたことで、その演技が高く評価されることになった。その後、今日に至るまでの彼らの活躍ぶりは、推して知るべしである。
“社会派ドラマ” とは一線を画したものとした制作陣の想いとは 物語の中で、主人公・誠に対する “いじめ” が始まったきっかけは、彼が優等生然として他の同級生に対するいじめを告発したことであり、同調圧力から起こる日常に潜む闇がありがちな出来事として描かれてる。
学校生活における生徒間の “いじめ” は、時として生徒の自死を招くこともあり、社会問題として扱われることが多い。現に本作品の放送後間もなく、ドラマを彷彿とさせるような告発内容の遺書を残して、その被害者が命を絶つという痛ましい事件があり、本作のような性質のドラマがそれらを助長しているとして、問題視する向きもあった。
野島作品はこれまでも貧困や差別、暴力といった、社会の歪みをテーマに採り上げることが多く、ゆえに人々の心に刺さるともいえるが、それがエキセントリックに描かれると、このように批判にさらされることも少なくない。当初は正視に耐えないような場面が続き、視聴率も伸び悩んだが、後半に差し掛かる頃には話題性も手伝って数字を伸ばし、最終回では28.9%の高視聴率を記録する。
散々話題をさらっておきながら「ストーリーはすべてフィクションで、あくまでエンタテインメント」との立場を崩さないテレビ局のスタンスを批判する声もあるだろう。だが、“いじめ” に限らず人々の話題に上がる諸々の問題は、今でも厳然と存在し、最近では “ハラスメント” という呼称も一般化して、職場や地域などあらゆる社会単位へと広がりを見せている。
エンタテインメントは社会を映す鏡であるがゆえに、リアリティを伴うことで反響は大きくなるが、だからといって社会に対して何かを問うというものでもない。作中、一時は加害者に対する復讐を目論んだ主人公の父親も未遂でそれを断念。贖罪を果たして、再び家庭を取り戻す… ハッピーエンドもまたフィクションの例外ではない。視聴者をドキドキハラハラさせて、楽しませることが、エンタテインメントの原点なのである。
※2024年3月1日に掲載された記事をアップデート
▶ テレビのコラム一覧はこちら!
2024.07.08