YMOとは高橋幸宏のことである
YMOとは高橋幸宏サンのことである。
―― なんて書くと、「他の2人はどうした!」と叩かれそうだけど、かの秋元康サンだって、かつて「AKB48とは高橋みなみのことである」なんて言ったくらいだし、それに対して、「いや、もっと何十人もいる」とか「柏木由紀だろ」なんて野暮なツッコミをする人はいない。
僕が言いたいのも、そういうことである。僕なりにYMO的なものを突き詰めていくと―― 高橋幸宏サンに行き着いたということ。
もちろん、YMO―― イエロー・マジック・オーケストラが細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏という稀代の3人のミュージシャンの才能が結集し、1978年から “散開” する83年までの6年間で素晴らしい作品を残してくれたことは言うまでもない。
まさに必然、YMOの活動した6年間は “黄金の6年間”
拙著『黄金の6年間 1978-1983〜素晴らしきエンタメ青春時代〜』(日経BP)は~、1978年から83年を「黄金の6年間」と位置づけ、その間に爪あとを残した人物や作品、現象などを紐解いている。
映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のヒットで街にサーファーディスコが雨後の筍のように出現したり、ユーミンが『流線形’80』でシティポップへ進出したり、村上春樹が『風の歌を聴け』でアメリカ文学の風を文壇に送り込んだり、フジテレビが「楽しくなければテレビじゃない」と開き直った、あの時代――。
もう、お分かりですね。YMOが活動した6年間が、まさに黄金の6年間とピタリと重なるんです。単なる偶然だろうか。いや―― 僕は必然だったと思う。
司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』(文春文庫)の最後の段に、刺客に倒れた竜馬に対して、筆者の思いが綴られた一節がある。
「天に意思がある。としか、この若者の場合、おもえない。天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上にくだし、その使命がおわったとき惜しげもなく天へ召しかえした。」
僕は―― YMOが活動した6年間も、この一節に符合するように思えてならない。時代の転換期に颯爽と現れ、新しい音楽のカタチを僕らに見せてくれた3人。だが、その使命が終わると、散り際も鮮やかに散開した。
シンセサイザーを駆使した黄色人種独自の音楽 “イエロー・マジック”
YMOが結成されたのは、1978年2月19日である。その日、細野晴臣サンは自身のソロアルバム『はらいそ』の収録曲「ファム・ファタール~妖婦」のレコーディングで坂本龍一サンと高橋幸宏サンとセッションしたのち、彼らを自宅に招いて、焼きおにぎりを振る舞った。
その時、こたつに入りながら、かねてより温めていたYMOの構想―― 白魔術(白人音楽)でも黒魔術(黒人音楽)でもない、シンセサイザーを駆使した黄色人種独自の音楽 “イエロー・マジック” を作りたい―― と打ち明けたところ、2人も賛同。ここに、YMOが結成されたという。
有名な「4人目のYMO」の逸話がある。YMOは当初、美術家の横尾忠則サンも参加する予定だったとか。もちろん、横尾サンは楽器ができない。しかし、ミュージシャン以外の人物がバンドに入って、アートワーク的に化学反応を起こすケースは海外にいくつか先例があり、新しもの好きの細野サンの誘いに横尾サンも快諾したそう。この時の細野サンの頼み方がいい。
「テクノカットにして、タキシードを用意してください」
YMOにとってアイコンは大事だった。細野サン自身も結成を機に長髪を切り、テクノカットにした。教授(=坂本龍一)も以前はジーンズにゴム草履と服装に無頓着だったが、幸宏サンにコーディネートを一任した。そう、YMOをビジュアル面からコーディネートしたのが、幸宏サンだった。初期の代表的アイコンである通称「赤い人民服」も彼のデザインである。
細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏、それぞれの立ち位置
ここで、YMOにおける3人の立ち位置を改めておさらいしておこう。
まず、細野サンがリーダー兼プロデューサー。YMOのコンセプトやネーミングを考えたのは彼である。いわば創業社長。
次に教授。YMOの音楽を理論化し、構築するのは彼の役目だ。いわば技術主任といったところか。この時、教授をサポートするのが、シンセサイザープログラマーの松武秀樹サン。ちなみに彼も「4人目のYMO」と呼ばれる。
そして、幸宏サンが前述の通り、YMOにおけるビジュアルやファッション担当。いわば、広報マンみたいなポジション。それともう一つ、彼には大事な役目があるが―― おっと、その種明かしはもう少しあとにしておこう。
そうそう、横尾サンはその後どうなったか。実は、YMO結成の記者会見の日に、ちょうど締切が立て込んで、無断欠席。結局、そのままフェードアウトしたとか(笑)。
if もしも、横尾サンがYMOに入っていたら―― ビジュアル面のアートワークは横尾サンの担当となり、幸宏サンの出番はなかっただろう。そうなれば、YMOのファッションは僕らの知るポップ路線とは異なり、アート志向に。伝説的グループは、全く違う軌跡を辿っていたかもしれない。
細野晴臣の逆輸入作戦、アメリカで話題になったデビューアルバム
閑話休題。1978年11月25日、ファーストアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』がリリースされ、YMOはデビューする。だが、それに伴うプロモーションは行われず、この時点で一般にほとんど知られていなかった。心配ご無用。これは細野サンの作戦だった。
「まず、世界で売れてから、日本へ凱旋する――」
実際、所属元のアルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業務提携しており、同社の海外戦略の第1号アーティストがYMOだった。
翌79年5月、予定通り、米国版『イエロー・マジック・オーケストラ』がリリースされる。オリエンタルで無機質なサウンドは、たちまち米国の音楽評論家から絶賛され、全米各地で火が付いた。狙い通りである。
そして同年8月、YMOはロサンゼルスのグリーク・シアターで、ザ・チューブスのオープニング・アクト(前座公演)を三夜連続で務める。この時、観客が盛り上がりすぎて、予定の演奏時間を延長するなど、爪跡を残す。
ちなみに、この公演には、サポートメンバーとして当時24歳の矢野顕子サンも参加しているが、このアッコちゃんがツインテールで可愛いこと! 教授がホレたのも頷ける。
イギリスを皮切りに「トランス・アトランティック・ツアー」スタート
1979年9月25日、YMOのセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』が発売される。赤い人民服の3人とマネキンが麻雀卓を囲むジャケットでお馴染みの名盤だ。後に収録曲の「TECHNOPOLIS」と「RYDEEN」がシングルカットされ、1年後にはオリコンチャートで1位をとってミリオンセラーになるが―― まだ、この時点で日本におけるYMOの知名度は低く、チャートは低迷する。
同年10月、初のワールド・ツアー「トランス・アトランティック・ツアー」が英ロンドンを皮切りにスタート。赤い人民服、テクノカット、無機質なオリエンタルサウンド、聴衆に媚を売らないクールな演奏など、初期YMOのアイコンは、このツアーで定着する。ロンドンは元より、パリ、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストンと、欧米各地で彼らのパフォーマンスは評判となった。
ちなみに、このツアーにも矢野顕子サンはサポートメンバーで参加しているが、既にお腹には教授の子を宿していた。後の坂本美雨である。そう、美雨サンにとっての胎教はYMOだった。
同年12月、帰国。既にこの時点で、海外におけるYMOの評判は、逆輸入される形で日本国内でも話題沸騰――。中野サンプラザで行われたコンサートは “凱旋公演” と呼ばれ、社会現象になった。細野サンの予言通りだった。
YMOにおける高橋幸宏の重要な存在理由
僕自身、YMOを意識したのは、この辺りからである。既に「テクノポリス」がシングルカットされていたが、仲間内でよく聴かれていたのは、アルバム曲ながら、同名ロボットのアニメで馴染みのあるタイトルの「ライディーン」の方だった。
無機質だけど、ポップ。テクノだけど、ノリノリ――。今もって、YMOの代名詞として1曲だけ選ぶとしたら、多くの人は「ライディーン」を挙げるのではないか。事実、2007年にキリンラガーのCMでYMOが期間限定で復活を果たした際も、使用された楽曲は同曲をアレンジした『RYDEEN 79/07』だった。
話を戻す。80年6月21日、セカンドアルバムから満を持して「ライディーン」がシングルカットされる。何を隠そう―― 同曲の作曲者こそ、高橋幸宏サンだった。
「YMOとは、高橋幸宏サンのことである」と申し上げた意味がお分かりいただけただろうか。
そして、もうひとつ―― 先に伏せておいたYMOにおける幸宏サンの大事な役目。ともすれば楽曲の方向性を巡り、対立しがちな細野サンと教授の間を、まるで接着剤のようにつなぐ “要(かなめ)” の人なのだ。
繰り返す。YMOとは、高橋幸宏サンのことである。
※2019年6月21日、2020年6月6日に掲載された記事をアップデート
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2023.01.16