2月21日

5月8日はテレサ・テンの命日、東西の有線大賞で3連覇を果たしたアジアの歌姫

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「日本有線大賞」と「全日本有線放送大賞」史上初の三連覇


とかく三連覇というのは難しい。

例えば、音楽賞の大家、TBSの『輝く! 日本レコード大賞』―― これまで2年連続「大賞」を受賞した歌手は、細川たかし、中森明菜、安室奈美恵、AKB48、三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE、乃木坂46と、そこそこいるが、三連覇は浜崎あゆみとEXILEの2組だけである。

では、高校野球の甲子園大会はどうだろう。

春夏連覇は7校(うち大阪桐蔭は2回)、夏春連覇は4校、春の連覇は3校、夏の連覇は5校あるが――実は、春夏春や夏春夏、春の三連覇はただの一校もない。唯一、1931年から33年にかけて(昭和6年から8年である!)、中京大中京が夏の三連覇を果たしたのみである。

そう、とかく三連覇というのは難しい。

―― となると、1984年から86年にかけて、歌手のテレサ・テンさんが「日本有線大賞」(東京)と「全日本有線放送大賞」(大阪)の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞したのは、文句なしに快挙である。

テレサ・テンが “アジアの歌姫” と呼ばれる所以


さて――テレサ・テン。今回は彼女の話である。奇しくも、今日5月8日は、彼女の命日。亡くなられたのが1995年だから、もう27年前のことになる。享年42。死因は、持病の気管支ぜんそくの発作による呼吸不全だった。あまりに若く、惜しまれる死だった。

生前の彼女、ともすればビッグマーケットである日本に出稼ぎに来ていたと見られがちだが、むしろ活動の主体は、出身国の台湾を始め、香港、シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムなどの東南アジアのほうだった。名前もテレサ・テンではなく、中国名の “デン・リーチェン” を名乗った。要は、“華人” と呼ばれる中国出身の移住者たちが多く暮らす国々で熱狂的な支持を受けたのだ。実際、彼女が日本語でリリースした曲が260タイトルなのに対し、中国語で出した曲は1,000曲を超える。ゆえに、“アジアの歌姫” と呼ばれた。

そう、アジアにおいて、テレサ・テン、もといデン・リーチェンは大スターだった。それは今も変わらない。彼女が眠る台北市近くの金宝山墓園は、毎日のように台湾各地やアジア各国からの参拝者が後を絶たないという。ちなみに、土葬された遺体は特別な処置を施され、没後50年は生前の姿であり続ける。台湾でこの形式の埋葬は、初代の国家元首の蔣介石と、その息子で三代目総統の蔣経国、そしてテレサの3人だけである。

テレサ・テン「今夜かしら明日かしら」で日本デビュー


テレサ・テン――生まれは1953年、中国本土から台湾に渡ってきた、いわゆる “外省人” の両親のもと、5人兄弟の唯一の女の子として育った。父親は国民党の軍人だった。要は、第二次世界大戦後に中国本土で行われた“国共内戦”(国民党と共産党による内戦)で蒋介石率いる国民党が敗れ、台湾に渡ってきた一派である。

テレサは幼いころから歌が好きな子供だったという。10歳で中華ラジオ主催の歌唱コンクールで優勝して一躍注目を浴びると、12歳でレコード会社主催のコンクールでも優勝。13歳で台湾テレビの専属歌手となり、14歳で正式にレコードデビュー。世間から “天才少女歌手” と騒がれた。16歳で主演映画が封切られ、17歳で初めて香港の舞台に立ち、18歳の時には東南アジアツアーを行なった。気がつけば、テレサはアジアのトップスターになっていた。

この人気に目をつけたのが、日本のレコード会社の日本ポリドールである。同社の制作管理部長だった舟木稔氏は香港に渡ると(当時のテレサは香港を拠点に活動していた)、テレサと母親に面会し、日本での音楽活動を打診した。2人は興味を示すが、台湾にいる父親の許可がいるという。そこで舟木氏は台湾へ飛び、父親の説得に当たるが、生粋の軍人気質からか、全く受け付けない。そこから舟木氏は毎日、父親のもとへ日参し、説得を続けた。そして、とうとう10日目に父親の承諾を得た――。

以後、舟木氏はテレサ一家と公私に渡って親睦を深めることになる。ちなみに、テレサは終生、舟木氏をこう呼んで、慕った。「日本のお父さん」――。

デビューはアイドルポップス、セカンドシングル「空港」で演歌へ戦略を変更


テレサの日本のデビューは、1974年3月1日だった。芸能事務所は渡辺プロダクション、レコード会社は日本ポリドール。デビュー曲は、作詞・山上路夫、作曲・筒美京平の「今夜かしら明日かしら」である。当時、既に香港出身のアグネス・チャンがアイドル路線で人気を博しており、テレサも同じアイドル路線が取られた。しかし―― 全く売れなかった。

デビュー曲はナベプロの主導で行われた。大手芸能事務所だけに、音楽番組への出演もスター歌手とのセット売り(バーター)が可能で、顔を売る新人としては悪くない戦略だった。実年齢21歳を19歳と表記したのも、アイドルとして売り出すためだった。だが、その路線がつまずいたので、2曲目はイメージチェンジを図るため、日本ポリドールの主導になった。

ここで、ポリドールの制作チームが出した戦略が “演歌” だった。憂いのあるテレサの歌声には、アイドルポップスよりも、切ない演歌の方が似合う――。ディレクターは、作曲家の猪俣公章邸を訪ねた。そして、完成した楽曲が「空港」だった。作詞は前作と同じ山上路夫である。

若い女性の共感を呼んだテレサ・テンの歌だったが…




 何も知らずに あなたは言ったわ
 たまには一人の 旅もいいよと
 雨の空港 デッキにたたずみ
 手を振るあなた 見えなくなるわ

「空港」は売れた。一説には、累計で70万枚も出たという。当時21歳のテレサの天才的とも言える情感を込めた歌い方が、その道ならぬ恋の別れをドラマチックに盛り上げたのである。決して歌い上げるタイプでなく、時にささやくような歌い方が、特に同年代の若い女性たちの共感を呼んだのだ。

テレサは同曲のヒットで、やっと日本の音楽界に受け入れられた。だが、アジアのトップスターも、日本に来れば一介の新人歌手という扱いに、次第に彼女の中にストレスが溜まる。新曲のプロモーションで、全国のキャバレーを回る日本流の慣習もテレサを苦しめた。気がつけば、新曲を出すものの、次第に足が遠のき、プロモーションで来日する頻度が減っていった。

その矢先に、事件が起きた。

偽造パスポート使用で国外退去、1年7ヶ月に及んだアメリカでの生活


時に、1979年2月―― 香港から来日したテレサは、インドネシア籍の偽造パスポートを使用したことで、東京入国管理局に収容され、一週間の取り調べを受ける。そして国外退去処分となったのである。

なぜ、テレサはそんな非常識なことをしたのか。母国・台湾を取り巻く国際情勢の変化だ。1971年に中華人民共和国が従来の中華民国に代わって、国連の代表権を手に入れると、台湾の国民党政府はこれに抗議し、日本を含む多くの国と断交した。その結果、台湾人の外国への渡航が年々厳しくなった。その極め付けが、事件の一ヶ月前に起きた、台湾とアメリカの断交だった。要は、偽造パスポートは、台湾人がスムーズに入国審査を受けるための奥の手だった。芸能・音楽関係者は皆、使っていたという。もちろん、許されることではないが――。

これに慌てたのが、連絡を受けたポリドールの舟木氏である。このまま国外退去処分でテレサが台湾へ強制送還されれば、今後、歌手活動ができなくなる恐れがある。そこで一旦、アメリカへテレサを避難させることにした。そこでほとぼりが冷めるまで滞在し、その間、台湾政府とも話し合いを続け、落ち着いたころで帰国させようと。結局、アメリカでの生活は1年7ヶ月にも及んだ。

台湾に帰国し活動再開、トーラスレコードはカムバック作戦を展開


1980年、テレサは台湾に帰国する。水面下で調整された帰国の条件は、政府主催のコンサートに出演し、軍の慰問をしてほしいということだった。テレサはこれを受け入れ、政府はテレサを「余罪がない」ことを理由に不起訴処分にする。

テレサは再び、アジアの歌姫として活動を再開する。台湾国内のコンサートを精力的にこなし、また軍の慰問を続けるうち、テレサは国民的スターとしての地位を完全に回復する。更に、時を同じくして、テレサがカバーした1930年代の中華圏のヒット曲「何日君再来」(あの李香蘭もかつてカバーした超有名曲!)が、図らずも海賊版の音楽テープなどを通じて中国本土でも爆発的にブームとなり、テレサの人気は、いよいよ眠れる獅子を起こしてしまう。

ここから、1983年に香港で行われたデビュー15周年コンサートまで、テレサの音楽活動は最盛期を迎える。その名声は東南アジア全体におよび、アジアの歌姫 “デン・リーチェン” は、アジアのスーパースターへと昇り詰める。奇しくも、その華麗なる軌跡が、僕がリマインダーで常々唱えている“黄金の6年間”と重なるのは、単なる偶然だろうか。

さて、人気絶頂のアジアの歌姫に、再び日本のレコード会社が動き始める。それは、日本ポリドールの社員たちによって立ち上げられた新会社の「トーラスレコード」だった。テレサの “日本のお父さん” の舟木稔氏もその中にいた。カムバック作戦の指揮を託されたのは、ニューミュージック畑の三坂洋氏だった。

三坂氏はシンガポールに飛び、テレサに日本復帰を打診する。条件は、レコーディングはテレサのいる地元で行い、日本でのプロモーション活動は行わない。ヒットすれば、日本に招聘するというもの。要は、テレサを洋楽のアーティストとして扱うということだった。楽曲もニューミュージック的なメロディアスなものを用意する。これならテレサに精神的な負担はない。

テレサは承諾した。日本でのカムバック曲は、作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしの座組で進められた。デモテープを聴いて、テレサは「これは売れる」と微笑み、レコーディングに臨んだという。


「つぐない」から始まった、テレサ・テン “黄金の3年間”




カムバックの記者会見は、1984年2月にホテルニューオータニのクリスタルルームで行われた。しかし、集まった記者たちは、5年ぶりに日本で活動再開するテレサに対して、その意気込みや、新曲に関する質問を発することなく、1979年に彼女が起こしたパスポート偽造事件ばかりに質問を集中した。それに対して、テレサは薄っすらと涙を浮かべ、ただただ「申し訳ありませんでした」と謝罪を繰り返すしかなかった。

そして、質問がひと段落したところで、新曲が披露される運びになった。プロデューサーの三坂氏がタイトルを発表する。

―― 新曲のタイトルは、「つぐない」です

その瞬間、記者たちから「おぉ!」と、どよめきが漏れたという。

 窓に西陽が あたる部屋は
 いつもあなたの 匂いがするわ
 ひとり暮らせば 想い出すから
 壁の傷も 残したまま おいてゆくわ

翌日のスポーツ紙の見出しの多くは、“つぐない会見” だった。かくして、カムバックの新曲タイトルは、三坂氏の思惑通りに、世間に拡散されたのである。テレサ・テンにとって、日本における “黄金の3年間” の火ぶたが切られた瞬間だった。

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2022.05.08
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カタリベ
1967年生まれ
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