僕の高校は総武線大久保駅か山手線新大久保駅,またはそのお隣の高田馬場駅のどこからでも徒歩圏内にあった.入学してしばらくは,毎朝同じ電車で会うクラシックなセーラー服を着た年上の少女を眺めるためだけに,ごった返す朝の総武線を我慢した.それでも半年して僕は自転車通学に切り替えた.
自転車は自由で便利だった.BOØWYの解散コンサートのチケットを予約しようと授業に出ずに公衆電話から電話をかけまくり,同じ日に発売された筋肉少女帯のメジャー・デビュー・コンサートのチケットを買おうと,新宿ALTAにあった「チケットぴあ」に移動することもできた.
学校帰りにはよく,大久保駅を左に曲がりかつての新宿LOFTの前を通り過ぎて,西新宿の「エジソン」(UK EDISON)に行った.エジソンはニューウェーヴ,ユーロビート,そしてインディーズを専門としたレコード屋だった.打ち込みを多用したポコポコサウンドと,ハウス前夜のテクノやダンスミュージックに関心を持てなかった僕は,来る日も来る日も日本のインディーズ系ミュージシャンのレコードを漁った.
ナゴム時代の筋少のレコードを揃えたのもここだった.他所でも書いたが上條淳士の『To-y』に夢中だった僕にとって,上條がイラストを描いた筋少の「高木ブー伝説」は宝物だった(ちなみにレコードのクレジットでは「敦司」と表記されている).このシングルがすぐに発禁あるいは廃盤として入手困難になったから(実は自主回収だったらしい),僕にとっては文字通り貴重な一枚だった.
ところでこの時代,泉麻人が司会をしていた「冗談画法」という深夜番組が放映されていた.インディーズ系の演劇やバンドを紹介する良質な番組で,筋少も出演して(1988年1月27日),ショート・ヴァージョンの「高木ブー伝説」を披露した.筋少といえば,この曲.ところがドリフターズか高木ブーの事務所からクレームが入ったらしく,一時期この曲は演奏できなくなった.そんな大人の事情に関係なく,ヤオン(日比谷野外音楽堂)でのメジャーデビュー・コンサートでファンは当然期待する.そこで「大槻モヨコ」は題名を変えて「鼻血ブー伝説」を熱唱した.
ちなみに残念ながら, 1986年にリリースした45回転12インチ盤『ノゾミ・カナエ・タマエ』収録の「ドリフター」だけは未だに再発されない.「いくじなし」や「ララミー」など,それ以前の筋少の曲は際物揃いで,後にそんな曲でもほとんどは『ナゴムコレクション』に再録されたというのに.
2016.05.14
YouTube / nickey0305
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