11月17日

中森明菜「イースト・ライヴ」歌謡曲最後の時代、最後の歌姫による、最後の華やかな舞踏会

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中森明菜とそのシングルは、国民の共有財産!?


1989年の冬、わたしは誕生日プレゼントでCDステレオを買ってもらった。これでCDが聴ける。わたしは貯めていたお小遣いを財布に忍ばせて、学校の帰り道、ひとりで秋葉原に向かった。なぜ秋葉原まで出向いたのか。地元の川越か、あるいは通学で寄る池袋で買えばよかったのに、テンションが上っていたんだろうね。

秋葉原に降りると、あちらこちらで、中森明菜の映像が流れていた。当時、秋葉原の駅前に多数存在した家電量販店の入り口の大型ディスプレイ、それらの多くが当時リリースされたばかりの中森明菜のライブ映像『AKINA EAST LIVE』だったのだ。

中森明菜の所属レコード会社ワーナー・パイオニアの親会社であるパイオニアは、当時LDプレイヤーの普及・販売促進に最も力を注いでいた。その兼ね合いもあったのだろう。もしかしたら、新型LDプレイヤーのディスプレイ用ソフトとして『AKINA EAST LIVE』も一緒に配布していたのかもしれない。

道行く人の幾人かは、しばし立ち止まり、彼女の姿を見つめていた。横断歩道前にディスプレイがあるところは、軽い人だかりになっているところもあった。わたしもまた彼女の姿をぼうっと見つめる一人となった。

当時中森明菜は、自殺未遂騒動による休業中で、メディアには一切姿を表していなかった。しかしその存在感は姿を消してもなお圧倒的だった。

「明菜、やっぱり最高だな……」

その日、わたしは『AKINA EAST LIVE』のCD盤を手にいれて家路についたのであった。

そういえば、ポスターももらったな。アイドルのポスターなんてはじめてだったので、なんだか恥ずかしかった。

その年末は、電気店、レコードショップ、レンタルビデオショップなど、『AKINA EAST LIVE』が街角で流れているのを、わたしは何度も見る機会があったのだが、そこにはひとつ共通することがあった。わたしの見る限り、誰もいない空間に空疎に映像が流されているという状況はなかったということだ。

立ち止まって、「あ、明菜だ」とゆるやかな好意と興味をもって受け止め、少しばかり眺める誰かが、必ずそこにいた。こんなアーティストと作品、他にないのではなかろうか。1989年、中森明菜とそのシングルは、ほぼ国民の共有財産レベルとなっていた。

80年代の中森明菜の集大成にして最後のひと滴「AKINA EAST LIVE」


明菜史として、この作品について掘り下げる。

『AKINA EAST LIVE』は、1989年4月29日と4月30日に、よみうりランド・オープンシアターEASTで開催されたコンサートを収録したライブアルバムとライブビデオである。

このコンサートは、来たる5月1日のデビュー8周年を記念して、これまでに発売したすべてのシングルを歌唱するという企画で開催された。

会場に遊園地の野外ステージを選んだのは、デビューイベントがとしまえんであったのと、1984~86年にゴールデンウィークに野外で開催していた無料イベント『明菜ランド』を意識してのことだろう。

バックバンドは、当時の中森明菜のデビュー以来の専属バンドであるファンタスティックスが担当。ファンタスティックスは、当初はライブのみの担当であったが、サウンドがデジタル中心になった1984~85年頃から、『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』などの各種歌番組でも明菜専属のバンドとして参加しており、彼らの音は、まさに “みんながテレビで聴いた明菜サウンド” であった。

ちなみにファンタスティックスのバンマスは、現在は『歌謡コンサート』、『SONGS』、『思い出のメロディー』、『紅白歌合戦』など、NHKの様々な音楽番組の音楽監督を担当している藤野浩一が担当。またコーラスには、90年代に入って数々のアニソン・特撮ソングを歌う石原慎一が参加している。

このライブは好評につき、8月に大阪でも同様のコンサートが企画されたが、7月の自殺未遂騒動により中止。またファンタスティックスもこれを契機に解散している。

つまりこのライブ作品は、テレビを中心に活躍する “歌謡曲歌手としての80年代の中森明菜” の集大成であり、最後のひと滴とも言えるものであった。

それゆえにこの作品は、リリース当時から多くの人に語られた。

美空ひばりに似ているという人もいた。この年に亡くなった美空ひばりの衣鉢を継ぐのが中森明菜である、そうなってほしいという願いがそこにはあったのだろう。岡村靖幸まで語っている記事を見たのには子供心に驚いた。

リリース当時とほぼ変わらないアレンジに、ちょっと照れくさそうにしながらも、当時よりもさらにパワーアップしたボーカルとキレのある振り付けで歌い倒し踊り倒す中森明菜は、2022年現在においても魔力的とすらいえる圧倒的なパワーを周囲に放出している。

これを見聞きした人は、“中森明菜” という存在を語らずにはいられない。

日本の成長とともに転変し、成熟、そして終焉を迎えた“歌謡曲”


1989年の当時中学生だったわたしは『AKINA EAST LIVE』を観て聴いて、味わい感動しながら、これからの明菜はどうなってゆくのだろうと、その行く末に思いを馳せていた。これまでのようにテレビで毎日のように歌い踊って、私たちを楽しませてくれる中森明菜に戻ることはないということを、わたしは幼いながらもなんとはなしに察していたのだ。中森明菜が、そして音楽業界全体もまた、ルビコン川を渡っていたことは明らかだった。

そして2022年の今、あらためて鑑賞して思った。これは歌謡曲のお葬式なのだ、と。

歌謡曲とはなにか。戦後日本においてマスメディアを通じて隆盛した音楽ジャンルであり、全国津々浦々、老若男女問わず口ずさむ流行歌のことである。あるいは、街角という開放された空間に流れる流行歌のことである。

テレビやラジオをはじめ、喫茶店やパチンコ屋の有線などなど、聴こうという意志もなく人々の耳に飛び込み、ふと心を寄せ、おもわず口ずさみ、心をすくわれる。

そのひとりひとりの心のさざなみが、やがて大きなうねりとなり、そこに大衆を扇動する歌の魔物が棲みつく、それが歌謡曲であった。

歌謡曲は戦後日本の大衆の欲望を写す鑑として、日本の成長とともに転変し、成熟していった。

そして1989年12月29日、日経平均株価は史上最高値の38,957円を記録、一転、年明けからは坂道を転げ落ちるように株価は下落する。焼跡の復興からジャパン・アズ・ナンバーワンへ。「成長」というキーワードでくくることができるだろう戦後日本のシークエンスは、この1989年の年末をもって終了した。そしてまた、戦後の日本の象徴である “歌謡曲” という文化も、この時、終焉を迎えた。1989年の美空ひばりの死去と中森明菜の事件は、まさに歌謡曲終焉の象徴だ。

最後の歌姫による、最後の華やかな舞踏会「AKINA EAST LIVE」


90年代以降、音楽番組は姿を消し、テレビドラマ主題歌やCMソングが一瞬の消長を見せるだけとなり、街角からは歌が消え、誰もが口ずさめる歌がなくなった。

やがて歌謡曲はJ-POPと呼ばれるようになった。J-POPはあくまでCDというメディアにパッケージされた音楽商材にすぎない。歌は空間に広がらず、歌の魔物も棲みつかない。J-POPは「失われた30年」と呼ばれるその後のやせ細っていく日本を象徴とした大衆文化である。歌謡曲のようなグラマラスさ、タフネスさ、あやかしの気配はそこにはない。

中森明菜『AKINA EAST LIVE』は、歌謡曲最後の時代の、最後の歌姫(ラスト・エンプレス)による、最後の華やかな舞踏会である。

かつてこの世には歌謡曲という名の魔物がいた。その魔物の使い手は歌姫と呼ばれた。これはその最も優れた、そして最後の歌姫の姿を記録したものである――。

まるで滅亡した少数民族の風習や祭祀に関する資料を博物館で見るかのように、『AKINA EAST LIVE』は、とうの昔に失われた豊穣な文化の懐かしい光輝として今のわたしの目に映るのだ。

このコンサートが1989年というタイミングで開催され、さらにほぼ完全収録の形で商品化され、時代の変化とともにCD、VHS、LD、DVD、Blu-ray、動画配信と、形態を異にしながらも常に私たちに提供され続けるは、おそらく運命の偶然ではなく、歴史の必然なのだろう。

『AKINA EAST LIVE』は、言い換えれば、歌謡曲という魔物が残した聖骸のようなものなのかもしれない。

J-POPのその次へ… 時代の潮流で注目を浴びる「AKINA EAST LIVE」


発売当時の『AKINA EAST LIVE』の音楽レビューのなかで、当時印象強く残ったもののひとつに、「80's アイドルライナーノーツ」(1991年2月刊 / JICC出版局 ※現:宝島社)での宝泉薫氏のレビューがある。

彼女はこれから、もしかしたら歌姫を必要としない時代に、歌姫として生きていく。

―― この宝泉氏の予言は、おそらく的中した。もし『AKINA EAST LIVE』を鑑賞して、その後の「歌姫を必要としない時代の歌姫」として生きる中森明菜を確認したいのなら、1994年のコンサートを収録したビデオ作品『“UTAHIME” AKINA NAKAMORI PARCO THEATER LIVE』を強く勧める。

歌謡曲という失われた王国の最後の王女の彷徨―― このビデオ作品の中森明菜は、そのようにわたしには映る。このコンサートで、明菜はまるで亡骸を愛おしむように、古い歌謡曲を歌い紡いでいる。

そしてさらに時代は下る。

2010年代後半ごろからだろうか、ネットメディアの伸張によってマスメディアの影響は低下し、CDというパッケージメディアの存在感も著しく低下した。2022年現在、J-POPというジャンル自体、霧散したようにわたしは感じる。

それはネットメディアによって、時代ごとの作品たちが、河のように流れゆくものではなく、海のように寄せて返すものになったことも、大きいだろう。

そんなタイミングで『AKINA EAST LIVE』が、2020年5月にYoutubeで全曲フル公開された。公開されるやいなや大きな反響を呼び、現在再生数は450万を突破。2022年4月には当時発売されなかったアナログレコードで発売されることになった。

この大きなうねりは、“J-POPのその次” を求める時代の潮流であることは間違いないだろう。

時代の転換点に、まるで掘り起こされた遺跡のように、いま『AKINA EAST LIVE』は注目を浴びている。

それが、新時代の歌謡曲復活の狼煙なのか(ネットメディアは、ある意味自由で開放された空間である)、単なる復古的な退潮なのか。またそこに中森明菜が現役の歌手として関わることがあるのか。現在進行形で進んでいる今、その答えはまだわからない。


※2022年4月23日に掲載された記事をアップデート

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2022.06.19
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