ロンドンに住んで3年が過ぎた中学最後の年、受験のために日本に帰国。とにかく帰国子女枠のある高校を探し、関東と関西それぞれ1校ずつ受けて、どうにか京都の「同志社国際高等高校」に合格。2/3が帰国子女の特殊な学校で、論文形式の試験が選択でき、それぞれの国に育った言語での受験も可能。自分は英語で論文を書いたが、隣の人はスペイン語、ドイツ語などバラエティに富んだ受験者たち。当時としては画期的で、勉強があまり出来なかった自分にとって唯一受かる可能性のある制度だった。 無事合格してとても喜んだが、自分は勉強もスポーツも出来ない少年。「ムー」というオカルト雑誌をこよなく愛し、喜多郎のヒーリング系音楽ばっかり聞いていたので、「友達が出来ないかも!?」と内心ビクビク。しかも、親がまだ海外に住んでいる生徒には、泣く子も黙る「男子寮」があって、そこに入れられるハメに…… 衝撃的だったのは先輩達の風貌。みんな海外生活が長いせいか、とにかくガタイがでかく、髪の毛も染め上げたり、ヘヴィメタルが好きな先輩達はロンゲであったりモヒカンだったり…… イギリス時代に見た「北斗の拳」に出てくるようなモヒカン軍団が、今度は24時間同じ屋根の下で共同生活することになり、先輩後輩のヒエラルキーの一番下の位として入寮。 「あ~、肩がこったな~。」とラオウ様やハート様に言われたらすぐに対応しないと大変な目に。。。そんな中でも機嫌の良い時などは「肩もみのお礼に好きなシャツをあげるよ。」と言われ、見せられたのはアイアン・メイデン系のシャツだったことを今でも鮮明に覚えている。とにかく、この環境にいたおかげで、朝から晩まで様々なジャンルの音楽が聴こえてくるようになり、ヘビメタから民族音楽まで、なかなか有り得ない環境が3年間続いた。 そんなある日。やはり関西系の学校なので、文化祭かなんかでモノマネの企画が出てきて、なぜか舞台に上がるハメに。それまでモノマネなんてやったことも無いし、ましてはこんな暗い少年が舞台に上がるなんて… と拒絶していたら、「今テレビに出ている、ほらあのデーモンのやつ、あれデキるやろ?」みたいに言われ、とりあえず即興でモノマネをしたら、なんとなく声質が似ていたのか、「それ!それ!それでええねん!」という無茶ぶりで聖飢魔IIのデーモン小暮をやらされるハメになってしまった。 そこからはトークの練習を重ね、また、聖飢魔Ⅱのことをもっと知るために、大教典(アルバムのこと)『THE END OF THE CENTURY』を購入し、「蝋人形の館」や「JACK THE RIPPER」「FIRE AFTER FIRE」などを聴くようになったおかげで急に音楽ジャンルの幅が広がり、ヒーリング系音楽以外も聴く性格になったのです。 心なしか友達も増え、舞台がそこそこ好評だったせいか、知らない同級生からも「お!デーモン大久保!」と声をかけられ、いつの間にかアダ名に。流石に歌マネはできなかったけれども、この経験により、先日30年ぶりに開かれた同窓会でもみんな覚えてくれていて、、、何だか人生の転換期にこのバンドに助けられたなぁ、と感謝の気持ちが入り混じった良い思い出なんです(笑)。
2017.01.17
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