似合いすぎるポニーテール、図抜けた可愛さの斉藤由貴
「甲子園は清原のためにあるのかー!」
1985年夏の甲子園決勝。PL学園vs宇部商業の一戦において、清原和博がこの日2本目となる同点ホームランを打った際に朝日放送の植草貞夫アナウンサーはこう叫んだ。野球ファンなら知らぬ者のいない、伝説の名実況である。
清原と桑田真澄の “KKコンビ” が規格外の活躍をみせて伝説に名を刻んだ85年、アイドル界では意志の強さを感じさせる大きな瞳が特徴的な、一人の少女が時代を席巻していた。彼女の名前は斉藤由貴といった。
弟が勝手に送った写真がきっかけとなり講談社主催の『ミスマガジン』でグランプリを獲得。1984年の冬に「明星 青春という名のラーメン」のCMでテレビに初登場するとたちまち話題を呼び、翌85年の2月に「時代だって、由貴に染まる。」のキャッチフレーズのもと「卒業」でレコードデビュー。これがいきなり35万枚のヒットとなり、瞬く間に斉藤由貴はスターダムを駆け上がった。
空前のアイドル戦国時代にあっても、斉藤の可愛さは図抜けていた。特にトレードマークのポニーテールは妖精と見紛うほど似合っていた。似合いすぎていた。こんな女の子が近くにいたら間違いなく人生は狂うだろう。私が実況アナウンサーならこう叫びたい。「“可愛い” は斉藤由貴のためにあるのかー!」と。
「スケバン刑事」や「雪の断章」で主演、シングルもスマッシュヒット
同年4月開始の『スケバン刑事』では主演・麻宮サキ役でドラマ初出演。「白い炎」「初戀」とスマッシュヒットを連発し、12月には初主演映画『雪の断章 ―情熱―』が公開されるなど、この時期の斉藤はまさしく馬車馬のごとく働きまくった。特に『雪の断章』の撮影は凄まじく、厳しいことで有名な名監督・相米慎二に連日しごき倒されたという。
「一度も名前で呼ばれたことなんかなかった。『このタコ』『ボケ』って怒鳴られっぱなしでね。たとえばひっぱたかれるシーンでは、うまく表情や仕草ができなくてNGの連発で、4、5時間もやらされた」
札幌ロケでは雨の中を傘もささずに橋を歩くシーンの撮影を延々6時間続けたこともあった。夕方の札幌は冷え込みが厳しく、寒風が吹きつける中で給水車のまいた雨に濡れながら橋を50回以上も往復した。見物人からは「かわいそう」と悲鳴も漏れた。並のアイドルなら音をあげそうなものだが、この人は違う。
「毎晩撮影が終わると泣いてたんですよ。それも監督に対してどうこうじゃなくて、監督の注文通りにできない自分に腹が立って」
アイドル時代から、根は生粋の女優だったのだ。
好きにならずにはいられない… 斉藤由貴の危うい魅力
後に名女優として活躍する片鱗は既にこの頃からあった。
「毎週、火、水の二日間、テレビの歌番組に出てるんだけど、歌うこと自体は大好きですよ。楽しさでいえば、役者よりも歌う方。歌手・斉藤由貴をある意味で演じてるんですよ」
さらにこう続ける。
「ステージではわざとツッパった表情をしてみせたり、心にもないことをしてしまう。でも、それが楽しくって。だから私にとってアイドルである部分って、人を欺く楽しみかしらね」
このインタビューを読んだとき、私の頭には “魔性” の2文字が浮かんだ。よく “人を惹きつけるような魅力” と言うが、この人の場合はそれを超越した “人の心を吸い取る力” があるように思えてならない。
現に今回、このコラムを書くにあたって幾つもの映像や古い記事に目を通していると、ポーッとして魂を抜かれたようになることがあった。好きにならずにはいられない、そんな魅力。何のことはない、今日に至るまで通底する斉藤由貴の危うい魅力は、この頃から既に芽吹いていたのだ。
NHK朝の連続テレビ小説「はね駒」主演に大抜擢!
悲劇のドラフト会議を経て清原が西武に、桑田が巨人に入団した1986年。斉藤由貴の人気はさらに加速していくことになる。NHK朝の連続テレビ小説『はね駒(こんま)』の主演に大抜擢されたのである。
この時代の朝ドラといえば視聴率30~40%台が当たり前のドル箱コンテンツだ。その主演となれば、もはやアイドルタレントを超えて “国民的女優” の仲間入りである。
アイドル業も「悲しみよこんにちは」が自身初のオリコン週間チャート1位を獲得するなど絶好調が続く中、斉藤の大きな瞳はあくまで女優の道だけを見据えていた。
「歌謡歌手っていうのは、若さのあるうちはファンにも受け入れられるけど、二十歳をいくつか過ぎればムリ。あくまで芝居の方をベースに、いまのうちは歌と両立させていきたいですね。そしていずれは女優業一本に絞って、ちゃんと演技の勉強をして、舞台にも立ってみたい」
それでいてトップアイドルとして、この年のNHK『紅白歌合戦』では紅組キャプテンを担当。白組キャプテンが大御所・加山雄三なので、いかに若くしての抜擢だったかがお分かりだろう。ちなみにこの紅白で審査員の一人を務めたのがパ・リーグ新人王の西武・清原和博だ。まだ紅白が国民的娯楽だった時代。1985、86年を駆け抜けた男女の若きトップスターは大晦日の晴れ舞台で同じステージに立ったのだった。
その後、二十歳になった斉藤は念願だった舞台への出演、作詞など活躍の場を広げ、熟年を迎えた今なお第一線で輝き続けている。どれだけスキャンダルを起こそうと、この人を嫌いになることはできない。そんな私も彼女に欺かれた1人なのかもしれない。
参考資料:
『週刊平凡』1985.10.25号
『週刊現代』1986.5.31号※2020年12月24日に掲載された記事をアップデート
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2022.04.07