『セブン』や『ドラゴンタトゥーの女』で知られる鬼才デヴィッド・フィンチャーが、PV監督時代に作った傑作の一つにマドンナの「エクスプレス・ユアセルフ」(1989年5月9日リリース)がある。
舞台は魔天楼が立ち並ぶ近未来都市、男性支配者に幽閉されたマドンナ(被抑圧者としての女性)は、工場で働く男性労働者の一人に恋をし、自らの欲望に目覚め、男装して踊ることで抑圧から解放され、最終的にその男とセックスして終わり(!)という内容で、元ネタはフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』。
実はこれと同一タイトルの曲を、ギャングスタラップの伝説的グループN.W.A.がほぼ同時期にリリースしており(1989年4月27日リリース)、そのPVのテーマがマドンナのそれとかなり似ている。
冒頭、白人にこき使われる黒人労働者の集団が映し出され、彼らが脱走する瞬間と重ね合わせるようにして、N.W.A.のメンバーが白い幕を突き破ってストリートを闊歩し始める。かつての奴隷であった黒人は、ヒップホップを通じてドクター・ドレという黒人大統領=支配者を生み出している。
リリース時期が近いことに鑑みても、どちらかがパクったとは考えづらい。とはいえ同一タイトルでここまで主題が似通ってくるのを単なる偶然と考えるのも難しい。
やはり「エクスプレス・ユアセルフ」(自分を表現せよ)というタイトルからインスパイアされるイメージ(=誰にも屈しない)が同じなのだと思う。
ちょっと大雑派な言い方になるが、マドンナは「女性」、ドクター・ドレは「黒人」と、共に歴史的に抑圧されてきた存在だ。しかしそうした価値観は転覆される。
マドンナは支配者の手を逃れ男性労働者とセックスし、「世界は女が支配する」と言わんばかりに最後は空に浮かぶマドンナの双眼が大写しになる。
ドレは「黒く塗れ」とばかりにホワイト・ハウスをブラック・ハウスに変え、大統領の座に収まっている。
しかし、よくよく見れば結末は大きく異なる。マドンナは選び抜かれた男の一人とセックスし、分断された両者(男と女、資本主義と共産主義)を比喩的に結びつけることに成功 / 性交しているが、新たな権力者たるドレは因果応報といった具合に最後は電気椅子で処刑される。
この差はどうして生まれるのか? やはりN.W.A.が安易にホワイト・ハウスを黒く染め上げたことに問題があるのでは、と僕は思う。中間色である「グレー・ハウス」であれば結論は変わっていたかもしれない。「どっちかが上」という見方では、やはり衝突は避けられない。
マドンナはこのPVのテーマを尋ねられ、「世界は女が支配するのよ」と冗談めかして語ってはいたが、やはり『メトロポリス』の有名なエピグラフである「脳と手の媒介者は、心でなくてはならない」を最後に引用してることから、対立する両者を俯瞰する、より高いパースペクティブが必要なことはしっかり自覚している。
社会的背景も付け加えるならば、1989年はベルリンの壁崩壊の年でもあり、対立する両者を融和させるマドンナのPVは、図らずも東西統一の予兆となっている。のちにマドンナ / フィンチャー組は「バッド・ガール」(1992年)のPVにおいて、『ベルリン 天使の詩』を参照していることも考え合わせると、この解釈もあながち的外れではない気がする。
…… 今回はやけにマジメぶってしまった。このコラム、N.W.A.をdisっているようだが、俺だ俺だと自分を表現して、のさばった挙げ句に殺される、というのもギャングスタラップの一種の美学なのだから、これはこれで世界観を貫徹していて凄いと思う。
それこそ「どっちかが上」ということではないのだ。
2017.06.14
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