僕がハードロックの洗礼を受けたのは、1984年の春、中学3年生になってすぐのことだった。それまではビートルズと全米のヒットチャートを熱心に聴いていたのだが、久しぶりに同じクラスになった友人が、少し見下したような口調で僕にこう言った。
「ハードロックを聴いたら、もうそんなものは聴けなくなるよ」
むっとしたけど、それ以上に興味が湧いた。「そこまで言うなら、何か録音してくれよ」。僕はそう言って友人にカセットテープを渡したのだ。
最初に手渡されたのは、確かデフ・レパードの『炎のターゲット(Pyromania)』だった。「まぁ、お前にはこれくらいがちょうどいいかな。びっくりするぞ」。友人はまたしても僕を見下すように言った。
しかし、聴いてみると悔しいことに彼の言う通りだった。ヴォーカリストの激しいシャウト。高速のギターソロ。快感が体を走り抜けていった。ハードロックの歪んだヘヴィーなサウンドは、退屈な毎日に悶々とし、苛立ち、どこかに捌け口を求めていた男子中学生にとって、まさしく救いの音楽に思えた。僕は興奮し、それからは毎日のように友人にカセットテープを渡すようになった。
ハードロックを片っ端から聴きあさる日々がやって来た。マイケル・シェンカー・グループ、ホワイト・スネイク、アイアン・メイデン、スコーピオンズ、オジー・オズボーン…。すべてがいいとは思わなかったが、騒がしければそれでよかった。
一番のお気に入りはレインボーで、リッチー・ブラックモアのギターに心酔した。少し前に来日公演があったことを知り、ひとり悔しがった。同級生の中にはそのライブを観た女の子もいたので尚更だった。
「今度来たらは絶対に観に行くぞ」。そう心に決めていた僕に友人がぽつりと言った。「レインボーは解散したぞ」。愕然とした。「ど、どうして? ちょっと前に来日したばかりなんだろ?」。動揺する僕を友人は冷めた目で見やると、その理由を教えてくれた。
「ディープ・パープルが再結成するんだよ」
ディープ・パープルのことは僕も知っていた。レッド・ツェッペリンと並ぶハードロックを代表する2大バンドで、特にリッチー・ブラックモア(G)、イアン・ギラン(Vo)、ジョン・ロード(Key)、ロジャー・グローヴァー(B)、イアン・ペイス(Dr)が揃った第2期は黄金期と呼ばれ、そのラインナップで行われた1972年の初来日公演は、後に『ライブ・イン・ジャパン』として発売され、日本武道館をロックの聖地として世界中に知らしめた。
そのバンドが黄金期のメンバーで再結成し、ニューアルバムをリリースするというのだ。僕はレインボーに未練を残しつつも、このニュースに胸をときめかせた。レインボーのライブはもう観れないけれど、ディープ・パープルは観れるかもしれない。リッチーが弾く「ハイウェイ・スター」を生で聴けるかもしれない。それは伝説を目撃することを意味していた。
待望のニューアルバム『パーフェクト・ストレンジャーズ』は、1984年11月に発売された。友人がすぐにカセットテープに録音して渡してくれた。彼は僕の顔を覗き込むようにして見ると、にやりと笑って「最高だぞ」と言った。
その言葉は嘘じゃなかった。1曲目の「ノッキング・アット・ユア・バック・ドア」からラストの「ハングリー・デイズ」まで、すべての曲が他のハードロックバンドとは明らかに違った。そして、レインボーとも違っていた。このとき僕が耳にしたのは、歴戦の強者が奏でるソフィスティケイトされたハードロックの芸術だった。
そして、1985年5月16日。僕は日本武道館の2階席にいた。膝の上で拳を握り、ひどく興奮していたのを覚えている。ハードロックを聴くようになって1年が過ぎていた。会場が暗転し、ステージが眩い光に照らされたとき、真っ黒な服を着た男が白いストラトキャスターを肩にかけたのが見えた。
リッチー・ブラックモアだった。「バチンッ」と頭の中で何かがショートする音が聞こえた。そして、僕の心が爆発するのとほぼ同時に、あのパワーコードがかき鳴らされたのだ。「ハイウェイ・スター」。その瞬間、僕は昇天した。
今でもはっきりと想い出すことができる。あれは童貞を捨てたようなものだった。生まれて初めてのロックコンサート。あのときディープ・パープルが、僕を一人前の男にしてくれたのだ。
2017.02.24
YouTube / Mercedes-Benz Enthusiast Channel 1
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