学校に教科書があるように、1970年生まれのぼくには、ロックを学ぶための一冊の教本があった。北中正和さんとかまち潤さんによる『ロック決定盤』がそれだ。
80年代半ばのこと、中学生だったぼくはこの本を手に日々地元の輸入レコード店、中古レコード屋、西荻の YOU&I(「友&愛」という貸レコード店)を回りレコードを漁った。
1980年代に入る間際、1979年12月に音楽之友社から刊行されたこの本は、1965年〜1977年の間に活動していたミュージシャンのとびきりの1枚を選定、総計102枚のアルバムを紹介している――
ぼくの周りで流れていた80年代ロック。その音を奏でるミュージシャンが聴いて育った70年代ロック。そんな彼らのルーツ(情報源)を知りたくなったぼくにとって、本書は唯一無二の入門書だった。
ところが、そこで紹介されたレコードの大半は入手困難か廃盤であった。ラジオやテレビも役に立たない。ぼくの渇きは増すばかり。困ったことにこの本は、そんな状況などお構いなしに、その名文によって中学生のやるせなさに拍車をかけた。
「ビートルズ時代のジョージ・ハリスンはあまり多くの作品を書いていない。そんななかで、すぐにあの曲だなと誰もが思いつくのが<ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス>と<サムシング>である。事実この二曲がビートルズを離れ、一人のミュージシャンとなったジョージの印象を想い浮かべるにはふさわしい作品であり…」(ジョージ・ハリスン『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』についての記述より)
そうか、ビートルズ時代にジョージの曲は少ないのか(初めて知った)。でも「ホワイル…」と「サムシング」の二曲でジョージ・ハリスンを想い浮かべるのは常識で、今のジョージはその延長かぁ。中学生のぼくは感心する。
ビートルズのファンはたくさんいるし、よほどの珍盤でなければ、少々値がはるとしても手に入る。この辺はハードルが低いのだが、次のようなものではそうはいかない。
「フランク・ザッパがロック界で知られるようになったのは、66年にマザーズ・オブ・インヴェンションをして『フリーク・アウト』(Verve)を発表してからのことだ。新人としては異例の二枚組アルバム、しかもビートルズの『サージェント・ペパーズ』よりも数カ月前に発表されたロック界初のコンセプトアルバム…」(マザーズ・オブ・インヴェンション『アンクル・ミート』)
新人で二枚組アルバムを出すのは「異例」。これを読んでいたからこそ、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのデビューアルバムの異様さが理解できた。アルバム全体の「コンセプト」と、トータルな完成度を意識したのも初めてだったし、伝説のビートルズに先駆けてザッパはそれを実現していた…。否応なく好奇心がかりたてられるものの、中学生のぼくがどこでザッパのアルバムを見つけられるというのだ。
「65年頃から急激なスピードで成長と変化をとげたロックは、60年代末には、複雑化、多様化して百花斉放期に入っていた。しかし同時に、その起爆剤的役割を果たしてきたビートルズは慢性的に解散をささやかれ、ボブ・ディランは休憩同然であり、ローリング・ストーンズもコンサート活動を停止して久しいといった状態で、いわば船頭を欠いた暴走船のような状態でもあった。そして華やかな話題の舞台裏では、状況を掌握すべく、大手レコード会社によるロックのビッグ・ビジネス化への準備も着々と進められていたのである。感情のおもむくまま、やみくもに駆け続けてきたロックは、明らかに曲がり角にさしかかっていた。」(ローリング・ストーンズ『レット・イット・ブリード』)
80年代初頭のラジオではビートルズもディランもストーンズも滅多に流れてこない。PV などあるはずもない。「産業ロック」と「ビッグ・ビジネス」という二語が妙に腑に落ちた。それでだろうか―― 60〜70年代のアーティストに憧れ、パンクの破壊衝動とジョン・ライドンの皮肉屋で冷めたロック批判のロックが新鮮に聴こえてきた。
「テープ・レコーダーばかりではない。楽器の音に様々な変化を加える機材が次々に開発され、さらに歌手の音程が少々ずれても、同時進行でそれを修正できるような装置まで登場している。シンセサイザーのような楽器は、コンピューターにプログラムを送り込んで自動演奏されることが多くなったし、この分でいくと、いったいどこまで誰がどう演奏しているのかわからなくなる時代が冗談でなくやってくるかもしれない。」(10CC『オリジナル・サウンドトラック』)
ぼくはこの「冗談」を真に受けた。録音したテープを壊れた機械のようにリピートする80年代のディスコミュージック、電子音楽としてのテクノは、確かに誰が演奏しても同じに聞こえてしまった。だからこそ、そんな無個性と反復性を逆手にとってサンプリングという表現方法に転化した80年代末の音楽と Dub に興奮した。
「クラシック・ミュージックとロックを結びつけるという考えは、60年代の後半に主としてイギリスのロック・ミュージシャンの間から生まれ、実行に移されてきた。」(エマーソン・レイク・アンド・パーマー『展覧会の絵』)
ロックはクラシックに憧れていた。先行音楽を模倣するか、そこから自律するか。70年代ハードロックが持っていたこんな問いを、80年代前半のぼくは微かにレインボーなどのハードロックから聴きとっていた。
『ロック決定盤』の限界や欠点を指摘するのは簡単だ。1977年までだからパンクは入らない。ミュージシャンはすべて英米圏に属し、ロック=英語は当たり前。「音楽を聞く人それぞれに決定盤がある」と言う以上、その選択は経験と趣味に偏っているに違いない等々。それでもぼくは、こんな教科書を今でも読み返す。
80年代末に CD が出現して、以来音楽はデジタル化される。それで今でもインターネットで同じデジタル化された音を聴くことができる。でも、ぼくらは音を容易に手に入れるのと引き換えに、どうしても聴いてみたいという渇望と、「こうしたわけでこのアルバムは素晴らしい」という個性的で偏った伝承を失ってしまったようなのだ。
著書引用:
ロック決定盤(音楽之友社)/ 北中正和・かまち潤
2018.08.30
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