(vol.3からのつづき) 1980年代後半、NY系ダンスミュージックから角松が原点回帰したのが、やっぱり「海」だったが、それは三線の調べが流れる沖縄だった、という話は前回した。じゃぁ、デビューの頃のように、角松はヨコハマや葉山の海には戻って来なかったのか?というと、さにあらず。エスニック路線と並行して、意外な形で「夏男」としてビーチに現れるのである。 なんと彼はシンガーでありながら、自分のギタープレイを中心にしたインストアルバムで夏全開なメロディーを奏で始めたのである。それがアルバム「SEA IS A LADY」であった。開発屋の角松、こんどは、いわば本業のシンガーから「周辺事業」であるフュージョンへの業務拡張である。ちょうどスクエアやカシオペアがテレビ番組のBGMとして使われまくっている時期であった。 ここは一発、おいしそうなマーケットにいっちょ参入してやろうか、という訳でもあるまいが、角松の狙いはズバリ当たった。オリコンのアルバムチャートで最高4位を記録、その中の『SEA LINE』はJTのCM曲としてシングルカットされた。歌手と純粋な楽器奏者との両方でオリコンチャート10位にランクインしたのは、後にも先にも角松だけ。角松のメロディメーカーとしての非凡さを語るエピソードである。 夏の「波」に乗った角松は、こんどは自らが尊敬するベテラン・ミュージシャンたちの「再生事業」に着手する。角松は、まず手始めに、トランペット奏者の数原晋をリーダーとしたビッグバンド「Tokyo Ensemble Lab」(トーキョー・アンサンブル・ラボ)をプロデュースする。そして前年に続いて彼らの曲をJTのCMに起用した。数原は「必殺」「ルパン三世」など多くのテレビ番組のテーマ曲で演奏する日本屈指のトランペッターでありながら、レコードに名前もあまりクレジットされないような扱いだった。 「こうした“音”の匠たちに、光を当てるのが自分の役目」と角松がラジオで語るのを聞いた覚えがある。その後、自分のバックバンドもつとめる斎藤ノブのバンド「NOBU CAINE」をプロデュース、こちらは一時期「プロ野球ニュース」の中でよく音源が使われていた。 口先ばかりのリスペクトで先達の曲のパクリを繰り返すようなミュージシャンも多いなか、当時は学生だった私の目にも、角松の[男気]は際立っているように映ったものだ。ちょうどその頃、浅井慎平が現代の若者のヒーローを撮るJTのシリーズ広告があり、JTと縁の深かった角松も出演している。たゆる煙のむこうで、J-POPの開発屋こと角松敏生は時代を見る確かな目を光らせていた。 (つづく)
2016.05.20
VIDEO
YouTube / plantfolklore
VIDEO
YouTube / plantfolklore
VIDEO
YouTube / zunzuke55
Information