11月8日

ジェームス・ディーンのように、ちょっと気になる Johnny がモテる理由

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Johnny のソロデビューシングル「ジェームス・ディーンのように」がリリースされた日
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1981年8月22日、日本のテレビ界に激震が走った。

ドラマ『阿修羅のごとく』や『あ・うん』(いずれもNHK)などで知られる脚本家の向田邦子さんが、取材旅行先の台湾で航空機事故に遭い、命を落としたのだ。享年51。前年に直木賞を受賞したばかりで、まさに絶頂期の訃報だった。

その年の秋クールのドラマは、まるで向田さんの弔い合戦のようだったのを覚えている。当時、彼女と “脚本家御三家” と呼ばれた山田太一さんと倉本聰さんが、奇しくも金曜夜10時に揃ったのだ。かの有名な『想い出づくり。』(TBS系)と『北の国から』(フジテレビ系)の裏表対決である。

そして、同じクールの水曜夜9時からは、『岸辺のアルバム』(TBS系)の名プロデューサーとして知られる堀川とんこう氏による『茜さんのお弁当』(TBS系)も始まった。脚本は、後に「向田邦子新春ドラマシリーズ」を手掛ける金子成人さんである。

同ドラマは八千草薫さん演じる茜さんが営む「あかね弁当」を舞台に、ひょんなことから杉本哲太や嶋大輔らが演じるツッパリ少年たちが店で働くことになり、様々なトラブルを引き起こしながらも、茜さんとの交流を通して更生していく物語である。

俗に、テレビドラマは時代を映す鏡と言われる。当時は全国の中学で校内暴力が吹き荒れた時代。それを反映してか、同ドラマも多くのツッパリ少年たちの世界が描かれる。そんな世界観と、清純派の八千草薫さんとのミスマッチが話題になるが、不思議と違和感はなかった。彼らを温かく包み込む大女優・八千草薫の器たる所以である。

思えば、1980年代アタマは「ツッパリ」が世間を席捲した時代だった。前年秋から81年春まで放映されたのが、あの「腐ったみかん」の加藤が活躍する『3年B組金八先生』第2シリーズである。そして、猫にツッパリ風の学ランを着せたキャラクター商品の「なめ猫」が大ヒットするのも81年。

翌82年には、俳優の穂積隆信さんが実娘の非行を描いた『積木くずし』が300万部のベストセラーに。83年には高部知子主演でドラマ化され、最終回の視聴率は45.3%。これは今もって民放連ドラ最高視聴率である。ちなみに、尾崎豊が「15の夜」でデビューするのは、同年12月だ。

閑話休題。ドラマ『茜さんのお弁当』には、1組のロックバンドが登場する。4人組の売れないアマチュアバンドという設定だ。これまでオーディションに36回も落ちているが、武道館のステージに立つ夢を諦めない。

演じるのは、「THE CRAZY RIDER 横浜銀蝿 ROLLING SPECIAL」(以下、横浜銀蝿)である。劇中、彼らは「紅麗威甦」(後に杉本哲太が所属する横浜銀蝿の弟分のバンド名になる)と名乗るが、そのプロフィールはリアルに彼ら自身のものだった。

そして、同ドラマの主題歌を歌うのが、その横浜銀蝿のメンバーの一人、ギターのJohnnyだ。曲名は「ジェームス・ディーンのように」。リリース日は36年前の今日、1981年11月8日である。少々、前置きが長くなったが、本コラムは彼―― Johnnyの物語である。

有名な話だが、横浜銀蝿は全員、大学生だった。リーダーでドラムの嵐と、その弟のボーカルの翔が、共に関東学院大学、ベースのTAKUが中央大学、Johnnyが神奈川大学である。リーゼントにサングラス、革ジャンに白のドカン(ズボン)というツッパリ風衣装が彼らのアイコンだったが、中身はインテリの大学生だったのだ。

そんな彼らのスタイルのルーツは、生まれ育った「横浜」に起因する。戦後、横浜には本牧を中心に長らく米軍の接収地が存在し、米国から最新の音楽が持ち込まれ、地元のクラブと結びついて独特の音楽文化が育まれた。それは横浜に住む日本の若者たちにも影響を与え、60年代から80年代にかけて、いわゆる “横浜系” と呼ばれるバンドが次々に誕生する。

その1つが、矢沢永吉のキャロルであり、それにインスパイアされたダウン・タウン・ブギウギ・バンドであり、横浜銀蝿であり、クレージーケンバンドである。キャロルが確立したリーゼントに革ジャンの50年代のイギリス・ロッカーズファッションは、デビュー前のハンブルク時代のビートルズに影響を受けたと言われる。

つまり―― 横浜銀蝿のあのスタイルは、キャロル以来の伝統的な横浜系ミュージシャンのファッションだったのだ。

そんな中、メンバー1のモテ男だったのがJohnnyである。一人だけ髭を生やさず、端正なマスク。翔のダミ声とは対照的に、甘い歌声。バレンタインデーには4tトラックに満載のチョコが届いたという。

思うに、リードボーカルではなく、ギターという “次男坊的ポジション” が、彼の人気を押し上げたような気がしてならない。なぜなら、人はセンターより、ちょっと脇にいる方に惹かれるから。初期のSMAPの木村拓哉、X JAPAN時代のHIDE、GLAYのJIRO―― etc

そして何より、Johnnyの人気を決定づけたのが、その類まれなるメロディセンスである。ソロデビューとなった前述の「ジェームス・ディーンのように」がドラマの主題歌に起用されたのも頷ける。


 いつも俺たち キズだらけ
 汗にまみれて 陽がくれる
 だけどハートは ジミーのように
 とびきりいかした Lonely angel


当時、中坊だった僕は一聴して、同曲の虜になった。ポップなメロディラインに、独特のセンスの歌詞―― 特に気に入ったのが、ジェームス・ディーンを愛称の「ジミー」と呼ぶところだ。僕が英語圏の本名と愛称が違うことを学んだのは同曲からである。

「ジェームス・ディーンのように」は、1981年12月10日の『ザ・ベストテン』に10位で初ランクインすると、翌週以降、徐々に順位を上げ、翌82年の1月7日には2位まで上り詰めた。1位は近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」である。翌週、マッチは3位に後退する。いよいよ―― と思われたが、またもや2位。1位は薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」だ。更に翌週―― ここでも2位。1位も変わらず。

結局、同曲は3週連続2位に留まり、翌週から順位を徐々に落として圏外に消えた。日本人の判官びいきじゃないが、そんな “あと一歩で届かない” 切なさもまた、彼の人気を押し上げたような気がしてならない。

その後、横浜銀蝿は1983年に解散する。一方、Johnnyは弟分の嶋大輔に「男の勲章」を楽曲提供するなど作曲家としても活躍するが、彼もまた88年に音楽活動を休止する。それを機に、本名の浅沼正人に戻り、所属するキングレコードにディレクターとして入社した。

現在、彼は同社の上席執行役員であり、あのAKB48のEx Supervisorも務める。そして本業の多忙を理由に、1998年に再結成された横浜銀蝿にメンバー中、ただ一人参加していない。

そんな “飢餓感” もまた、彼の人気を押し上げているような気がしてならない。



歌詞引用:
ジェームス・ディーンのように / Johnny

2017.11.08
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  YouTube / YOKOHAMAGINBAEFAN
 

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カタリベ
1967年生まれ
指南役
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