マイケルの『スリラー』について書く?
正直、もう語り尽くされた感もあって、どんな事を書けばいいやら、ちょっと困ってしまった。
ところでスリラーといえば怪談、怪談といえば稲川淳二、稲川淳二はライオネル・リッチーに似ているから、それを共作した「ウィ・アー・ザ・ワールド」に絡めて…
などとくだらないことを考えるのはやめて、今手元にある借り物で2008年にリリースされた25周年アルバム『スリラー25』を聴いてみることにする。
このアルバムの特徴は、お馴染みすぎる10の楽曲に加え、発売当時の今どきアーティストが参加したボーナストラックが収録されているところ。そこにオリジナルブックレットを加えた豪華盤である。思えばまだこの頃マイケルは存命だったわけだが、もう一世代前のような気さえしてしまう。
参加アーティストはカニエ・ウエストにブラック・アイド・ピーズのメンバーなど実力者ばかり。結構期待して聴いたのだが、「ビート・イット」などは所々ボーカルトラックを抜いたオリジナルをウィル・アイ・アムがアレンジ、ファーギーがボーカルを被せるというやっつけ仕事だし、他も「これぞオリジナルを超える」と思える作品には出会えなかった。当時病みまくっていたマイケルの影はみえず、ただリテンションを図ろうというレコード会社のお遊びにしか思えない。当人不在で事が進むというのは、キャリア晩年の出来事として寂しさを感じてしまった。
精神医学で「バーンナウト」いわゆる「燃え尽き症候群」という言葉がある。
それこそ生涯の目標としていた何かを成し遂げ、何事もやり尽くしてしまった時、そこまでの過程がつらく険しい道であればあるほど、次の目標を見出せなくなりモチベーションを失ってしまうことがある―― それは、自分が何者でどこへ向かっているのかを見失ってしまう一種の「アイデンティティ・クライシス」だ。
過去の偉大なアーティストやアスリートにおいても、その呪縛から逃れられなかった例は少なくない。また本人はそう思っていなくても、常に過去の最高傑作と比較され「ああ、あの人もピークを過ぎたね」などと、しばしば過去の人扱いされる羽目になる。
『スリラー』の成功はポップミュージックにおける金字塔である。これだけのことを成し遂げて、マイケルは自身の何かを変えてしまったのだろうか。彼にとって『スリラー』とは一体何だったのだろう。
我々が見てきた、その後のマイケルの創作活動からは、些かも衰えることのない意欲が感じられた。果たして『BAD』や『デンジャラス』が楽曲的に『スリラー』の収録曲たちに劣るかといえば決してそんなことはない。
ダンスパフォーマンスだって、どのバックダンサーよりも鋭いキレを見せていたのがマイケルではなかったか。ムーンウォーク以降もゼロ・グラヴィティやスーパーボールのハーフタイムショーで見せたフリーズなど、いつだって我々を驚かせるパフォーマンスの開発に余念がなかった。
そもそも『スリラー』は、エピック移籍後に彼がソロで出したアルバムとしては、まだ『オフ・ザ・ウォール』に次ぐ2枚目のアルバムに過ぎない。かつてジャクソン5としてデビューしたモータウンを離れたのは、自らの作品をパフォーマンスする機会を得られなかったからであり、その彼がたった2枚のアルバムで何かをやり終えたような気持ちになるとは、到底思えない。燃え尽きるわけがないのだ。
しかし誰もが知る彼の晩年(50才で亡くなった彼に晩年などないと思うが…)、とにかくその成功に群がる者たちも多く、必要のない訴訟に巻き込まれたりしてマイケルは疲弊していってしまう。「性的虐待疑惑」に関連して飛び交った情報はマイケルに不利なものばかりで、少年愛や彼の自宅「ネバーランド」になぞらえて大人になりたくないと願う心の病「ピーターパンシンドローム」であるかのような疑惑が掛けられたこともある。
加えて容姿の変化についても常に奇異の目で見られていた。著しく鼻の形が変わったり、年々白くなっていく肌の色やストレート気味の毛質についても「コンプレックスの固まり」「黒人であることの忌避」とか、否定的な見方をされることが多かった。
日本国内でも例外ではなく、かつて松本人志がテレビ番組の中でマイケルのインタビューの内容について口調をまねながら「ボクは肌の色が白くなるビョーキなんだ… なぁんて、そんなんあるワケないやろ」などと話していたのを覚えている。これはマイケルがオプラ・ウィンフリーの番組で自らの持病である尋常性白斑について語った時のことに触れた発言だが、多くの人が松本と同じ感想を持ったことだろう。かくして “マイケル=変わった人” のイメージが出来上がっていった。
マイケル自身もよせばいいのに子役スターを身近に置いたり、サルを飼ったり、赤ん坊を窓からさらしたりして、奇行にも取れる言動を重ねていった。メディアが騒ぎ立てるのをひょっとしたら楽しんでいたのかも知れないし、敢えて変人の仮面を被ることで本来の自分を取り戻そうとしていたのかも知れない。
彼のかつての妻リサ・マリーが言うところの「彼の血を吸い取るような人達」との関係もマイケルの運命を狂わせていく。『スリラー』は彼に巨万の富をもたらしたかも知れないが、同時にそのような輩を引きつけ、莫大な負債を負うことになってしまう。
中でもビートルズの著作権買収は世界中のリスナーたちを敵に回したことだろう。それらが誰か知らない者の手に渡るぐらいなら、自分が保護すべきだとの使命感に駆られての行動だったかも知れないが、結果的にアルバムで共演した盟友ポール・マッカートニーとも疎遠となり(のちに和解)、ますます孤立を深めていく。
『スリラー』の成功以後、彼の歩んだ道について語るとき、このような負の歴史について触れることは避けられないだろう。まるで『スリラー』がマイケルの人生を狂わせてしまったかのようにも見える。それは彼の人生に災いをもたらすスリラー(=怪談)の始まりだったのだろうか。
もし『スリラー』がなかったら?
マイケルはまだ健在で2年に一度はアルバムを制作し、それをきっかけにして精力的に世界を回り、反差別と世界平和のメッセージを送り続けているだろうか。
否、マイケルほどの才能にあふれた人間であれば『スリラー』がなかったとしてもきっと同じように成功を収め、彼の気の赴くままに人生をわたって行くことだろう。彼の持病は真実であったし、骨折による鼻の整形も、頭皮の体質を変えたという火傷の治療も、全て正当な理由の元でやむを得ず行われたもので、白いメイクもスターの尊厳を守るためのものであった。
『スリラー』がなくても何も変わらなかったのかも知れない。だがもし再び彼がこの世に現れるのであれば、彼を追い込んだメディアもリスナーである我々も彼の偉大な業績を正当に評価すべきだろう。
テレビ番組『有吉反省会』でゲストが過去の様々な反省の弁を読み上げる際、バックで流れるのは「ユー・アー・ナット・アローン」。もしマイケル本人がこの番組に現れたら、一体何を反省しに来るだろうか。マイケルの優しい歌声が、まるで我々の反省をも促しているようである。
※2017年12月7日に掲載された記事をアップデート
2018.08.29
YouTube / michaeljacksonVEVO
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