バンドブームに乗り切れなかったリスナー層に刺さった筋肉少女帯 80年代後期から90年代初頭にかけて、日本は前例のない経済繁栄を経験した。“バブル期” と呼ばれるこの時期、空前の “バンドブーム” が巻き起こっていた。しかし、ロック的なものを指向しながらも、ブームの主流に乗り切れなかったリスナー層が存在した。
“盗んだバイク” で疾走するような青春は過ごしておらず、“愛がすべて” と拳を突き上げるのは気恥ずかしく、栄光に向かって走る列車に乗る気にはなれない。毎日の生活が “ダイアモンド” とはとても思えないし、“歩いて行こう” と言われてもピンと来ない……。
華やかなポップカルチャーや、ステレオタイプな青春のイメージ、ストレート過ぎる人生の応援歌に対して、相容れない思いや照れくさい感情を抱えていた若者たちがおり、別の音楽的アイデンティティを求めていたのである。そして、筋肉少女帯は、そのようなリスナーにとって魅力的な選択肢を提供した。
「釈迦」「孤島の鬼」「マタンゴ」「日本印度化計画」「月とテブクロ」「サーカスの来た日」「詩人オウムの世界」「労働者M」「パノラマ島へ帰る」「元祖高木ブー伝説」「僕の宗教へようこそ(Welcome to my religion)」「イワンのばか」「踊るダメ人間」(順不同)
これら代表曲のタイトルを並べただけでも、不条理で文学的、かつシニカルで幻想的な世界が伝わってくる。ヴォーカルの大槻ケンヂの紡ぎ出す歌詞は、アンダーグラウンドな匂いが強く、アンチバブルな地平に立脚していた。それらは、ハードロックを基盤としながらも、プログレ、パンク、ファンク、ヘヴィメタルといった様々なテイストが注入された曲にマッチしている。そして、メンバーの演奏能力は高かった。
筋肉少女帯のコンセプトワーク、パフォーマンス、楽曲群はバンドブームの主流とは明らかに外れたものであり、その点こそが大きな独自性だった。バンドブーム期には他にもいくつかの反主流バンドが存在したが、そのほとんどがブームの波間に沈んでいった。しかし、筋肉少女帯は一過性のブームを超えて、持続的な成功を収めた数少ないバンドの1つとなったのである。
漫画家志望の大槻ケンヂと内田雄一郎によるバンド結成 筋肉少女帯(当初は筋肉少年少女隊)は、ともに漫画家を目指していた大槻と内田雄一郎が高校時代に結成したバンドである。 大槻と内田は1983年にまず、ナゴムレコードを主宰するケラ(現:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)とのユニット “空手バカボン” として活動。その後、筋肉少女帯としてインディーズデビューを果たした。
当初は奇抜なパフォーマンスを最大の売りにしていたが、1985年以降、キーボードの三柴江戸蔵(現:三柴理)が参加することで、バンドにプログレ色が加わり、演奏レベルも向上していった。筋肉少女帯の名前が広く知られるきっかけは、1987年の自主制作シングル「高木ブー伝説」である。そのタイトルのインパクトから、テレビで取り上げられるようになった。当時のマスメディアは、“面白いことをやりそうなヤツ” をジャンル問わず探していたのだ。
ナゴム時代より目立つ存在だった筋肉少女帯は1988年6月、シングル「釈迦」、アルバム『仏陀L』でメジャーデビューしたが、そのわずか3ヶ月後、大槻が『オールナイトニッポン』のパーソナリティーに起用されている。しかも、午前3時スタートの2部ではなく、小泉今日子の後任として水曜1部の枠が与えられたのだ。当時、筋肉少女帯がいかに注目すべき新人バンドで、大槻が期待されるニューキャラだったかが分かる出来事である。
「元祖高木ブー伝説」のヒットでメジャーバンドの仲間入り VIDEO メジャーデビュー当初の筋肉少女帯はメンバーが流動的で、1989年2月にはバンドのキーマンだった三柴が脱退するが、代わりにインディーズ時代に在籍歴のある本城聡章と、ヘヴィメタルバンド “AROUGE(アルージュ)” のメンバーだった橘高文彦という2人のギタリストが加入。大槻(ヴォーカル)、内田(ベース)、そして太田明(ドラム)との5人編成でバンドは安定していく。また、橘高の加入はヘヴィメタルの要素を強くもたらした。
ツインギター体制でリリースしたアルバム『猫のテブクロ』(1989年7月)は、オリコンの週間アルバムチャートでトップ10入り。さらに、同年末にはインディーズ時代の曲を高木ブー本人が許諾の上でリメイクしたシングル「元祖高木ブー伝説」がヒットすることで、一躍、メジャーバンドの仲間入りを果たした。
前後して『筋肉少女帯の深夜改造計画』(日本テレビ系)というテレビ番組も始まっている。このキャスティングは、特に大槻のラジオでの実績と、サブカル指向が評価されてのものだろう。マニアックなマンガを好み、カルト映画の影響を受け、プロレスが好きで、特撮を愛し、SFや幻想文学にハマり、超常現象界隈に造詣が深い。そんな大槻ケンヂの属性は当時、テレビの深夜番組と相性がよかった。
サブカルチャー支持層は、バブル期にあって決してマジョリティではなかったものの、テレビ業界も無視できない存在だった。そして、冒頭で触れたバンドブームの主流に乗れない層とも重なっていた。 このようなメディア露出効果もあり、筋肉少女帯はセールス的な絶頂期を迎える。1990年のアルバム『サーカス団パノラマ島へ帰る』も大きな売り上げを記録し、同時期に単独初となる武道館ライブも成功させた。
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バンドの危機を乗り越えて継続的な再結成へ 1992年頃のバンドブームの終わりとともに、多くのバンドが解散やメジャー契約の終了を迎えた。しかし、筋肉少女帯はそこで終わらなかった。
ただし、バンドというのは長く続けていくといろいろなことがあるもので、筋肉少女帯もしかりだった。1998年にはドラムの太田の脱退とともに活動休止期間に突入。1999年、大槻がバンド再編を構想すると、それが橘高脱退という結果を呼ぶ。また、この一件が一部のファンからの反発を生んだことで、大槻も筋肉少女帯を離れるという選択をすることになる。残された内田と本城はバンドの “活動凍結” を宣言せざるを得なかった。
2000年、大槻は内田、三柴理らと新バンド “特撮" を結成。しかし、今度は中学時代からの盟友である内田との間に確執が生まれてしまう。内田が特撮を脱退し、大槻と没交渉となったことで、筋肉少女帯の“解凍”は極めて難しい状態となった。
ところが、時の流れとともに、徐々にメンバーの関係は修復され、2006年に大槻、内田、本城、橘高で筋肉少女帯の再結成が実現。翌年、『筋肉少女帯 復活究極ベスト 大公式』、さらに10年ぶりのオリジナルアルバム『新人』をリリースし、完全復活を遂げた。ここで注目したいのは、『新人』に収録された「新人バンドのテーマ」という新曲である。これは、ロックバンドが再結成されたときにファンは新曲に興味が薄く、昔の曲を聴きたがっているというシチュエーションを自虐的に歌ったものである。それはいかにも筋肉少女帯らしい再結成のあり方だった。
58歳になる大槻ケンヂの昔と変わらないうひび割れ風メイク VIDEO 以後、サブスクリプションの普及など音楽を聴く環境は大きく変化していくなかで、筋肉少女帯は過去にない安定した期間を迎えた。メンバー不動のままバンドとして成熟していく20年弱を過ごしたのだ。それは、メジャーデビューから活動凍結までより長い時間だった。
2023年にはメジャーデビュー35周年を迎え、より精力的な活動を行っている。6月にオールタイム・ベストアルバム『一瞬!』をリリースし、記念ツアー「一瞬!」を開催。9月には「バンドやろうぜ -ROCK FESTIVAL- THE BAND MUST GO ON」という東名阪で開催されたイベントに出演し、バンドブームの主流にいた元プリンセス プリンセスの岸谷香、JUN SKY WALKER(S) と共演を果たしている。
なお、アルバム『一瞬!』は、メンバー選曲監修による新録音3曲を含む内容で、今の音楽視聴環境を意識し、新旧曲があえてバラバラに収録されている。新曲「50を過ぎたらバンドはアイドル」は、50代でバンド活動を続ける自分たちとファンとの関係を歌ったもので、またまた自虐的ながら前向きなメッセージを込めたものだった。
2024年2月6日、大槻ケンヂは58歳になる。現在の大槻は、ライブのMCやメディアインタビューで、加齢や体力の衰えを笑いのネタとしがちだ。そして、それでもバンドを続けている自分たちの状況を開き直り、面白がり、ポジティブな捉え方をしている。そのポジティブさは昔にはなかった要素かもしれないが、独特なヴォーカルと、顔面のひび割れ風メイクはバンドブームの頃と変わっていない。
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2024.02.06