圧倒的な歌唱力と卓越した表現力で孤高の歌姫と評された、ちあきなおみさん。女の情念を表現する歌唱は群を抜いているといわれる。
鬼気迫るその歌いっぷりは本当に独特で、ちあきさんが事実上引退同様の状態である今となっては、過去の作品を集めたベストアルバムなどでしか聴くことができない。
東京出身。10代から米軍キャンプやジャズ喫茶、キャバレーでドサ回りをしながら歌手としての修行をし、21歳の時に「雨に濡れた慕情」(1969年)でコロムビアからデビュー。
1972年9月10日に13枚目のシングルとして発表した「喝采」が、第14回日本レコード大賞を受賞。リリースから僅か3ヶ月でのレコード大賞受賞は今までに例がなく、史上最短記録だったそうだ。メロディー、歌詞、歌唱、どれをとってもインパクトがあり、いつまでも色褪せない時代を越えた名曲だ。
レコ大を獲り、紅白の常連になってもなお、ちあきさんの「歌」に対して真摯に向き合う姿はまるで変わることがなかった―― そして1975年6月、それまで所属していた三芳プロを離れ、交際中だった俳優・郷 鍈治の事務所に身を置く。
二人は郷の実兄である宍戸 錠さんの紹介で1973年に知り合い、1978年、ちあきさんが31歳の時に結婚する。俳優業を引退した郷は、個人事務所を設立し、惚れ込んだ彼女の歌のために、社長兼マネージャーとして二人三脚でやって行く事を決意。それまでアクション俳優としての地位を確立しつつあった夫の決断に、妻もまた応えていく。ちあきさんは自分が心から歌いたいと思う歌を求めて精力的に自分の道を歩き始める。
そしてこの後すぐに、全曲シャンソンの『それぞれのテーブル』(1981年)をリリース、今までとは異なるジャンルに一歩踏み出す。
自分の歌いたい音楽を追求し、スタンダードジャズの『THREE HUNDREDS CLUB』(1982年)、ポルトガル民謡ファドの『待夢』(1983年)と立て続けに挑戦―― 80年代に彼女が歌う曲には、年を重ねたシンガーの熟成された深い味わいがある。
お互いの信頼関係と深い絆で結ばれ、仲睦まじく暮らしていた二人。しかし1992年、夫が肺がんで亡くなってしまう。結婚から14年、享年55歳の早すぎる死――
夫が荼毘に付される時、ちあきさんが柩にしがみつき「私も一緒に焼いて」と号泣したという話は、二人の愛の深さを物語るエピソードとして伝わっている。亡くなる前、郷は彼女に「もう無理して歌わなくていいよ」と遺言したそうだ。
「主人の死を冷静に受け止めるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろしくお願いします」というコメントを発表したが、正式な引退宣言は出ないまま現在まで表舞台には一切登場していない。
現場を離れて25年も経つというのに、多くの人から今でも復帰を熱望される歌手はそう多くはいない。2018年の現在でも復帰を待ち望む声は多く、1992年の突然の活動休止以降、毎年のようにベスト盤 CD がリリースされたり、彼女の特集が組まれたテレビ番組が何度も放送されている。
その度に “ちあきなおみ復帰待望論” が巻き起こるが、「当分の間」とは一体いつまでの事なのだろう?
夫の死を機に、芸能界からその姿を消したちあきさんだが、お墓のそばにマンションを買い、命日はもちろん、春と秋のお彼岸やお盆には必ずお墓参りに訪れているそうだ。
亡くなった後も、これだけ愛されている旦那さんは幸せだろうし、生前どれだけの愛情を彼女に注いできたのかがとてもよく伝わってくる。女は愛で、生き方をも変える。ちあきさんの愛を大切に生きる姿、いつまでも愛しい人の面影を忘れずに生きる姿が、私はとても素晴らしいと思う。だからこそ、あれだけの歌が歌える人なのだと納得した。
歌よりも愛を選んだちあきなおみさん。二人が結んだ強い絆は、男と女の関係を深く考えさせられる “幸せの象徴” だ。黒い服に身を包み、手桶の水で墓石をなでるように拭いていた彼女の薬指には、今も結婚指輪が輝いている。
※2018年3月7日に掲載された記事をアップデート
2018.09.11
Dailymotion / Sfgk
YouTube / SamuraiK7
Information