1992年 3月25日

【1992年の松田聖子】大バッシングから反撃の狼をあげた “SEIKO 第三章” の幕開け

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今年2022年でデビュー42周年、そして60歳となった ”還暦アイドル” 松田聖子


1983年夏のコンサートツアー『アン・ドゥ・トロワ』で初めて松田聖子のコンサートを見て以来、40年近くコンサートに通い続けている筆者が、前回『崖っぷちの松田聖子!マスコミのバッシングを受けながらも怯むことなく前へ』ではサンミュージックから独立直後の転換期ともいうべき1990年と1991年の松田聖子を振り返った。

今回は、1990年代以降のセルフプロデュースの方向性が明確になった1992年の松田聖子を振り返る。

写真集のタイトルは「NO COMMENT」。松田聖子の強烈な意思表示


1989年初夏、サンミュージックから独立した松田聖子は、苛烈ともいえるマスコミの総バッシングの渦中にいた。翌年にリリースする世界デビューのためのアルバム『SEIKO』の制作のためにアメリカに滞在する時間が多かった聖子は、そのバッシングに対して言葉を返すことはなく一冊の写真集で返答をした。

その写真集は、篠山紀信がアメリカでアルバム制作に奮闘する聖子の姿をドキュメントタッチで撮影した『NO COMMENT(ノーコメント)』。そのタイトルこそ、松田聖子の強烈な意思表示であった。



アイドル時代から結婚・休業を経てママドル時代へ、1980年代のテレビのワイドショーは芸能ニュースが中心であり、何かあるたびにレポーターに囲まれて話す聖子の姿が報じられていた。しかし、『NO COMMENT』の出版以後、レポーターに囲まれる松田聖子の姿を見る機会はめっきり減った。

前回記したように、事務所から独立後の1990年と1991年の2年間に3枚のテイストの異なるアルバムをリリースしたのは、大手事務所と大手レコード会社そして錚々たるクリエイターが集結して作り上げてきた80年代の「松田聖子プロジェクト」から、個人事務所でのセルフプロデュースに本格的に移行するための試行錯誤の時期でもあった。

マスコミ挙げてのバッシングの嵐、確実に減少したCDの売り上げ枚数、途絶えてしまったCMへの起用など、悪い状況にファンの多くは不安を覚えていたものの、ノーコメントを貫く聖子本人からの言葉もない。しかし、ファンにもマスコミにも見えないところで、着々とセルフプロデュースによる「松田聖子 第三章」に向けての準備を進めていた。

静かに幕を開けた「松田聖子 第三章」


「松田聖子 第三章」は予想もしなかった幕開けとなった。1991年の晩秋に2つの発表があったのだ。ひとつは久々のCM起用が決まったことで、クライアントは「いちこし 表参道キモノギャラリー 時志すい」。80年代に大手ナショナルクライアントのCMに起用され続けたことを考えると、企業の規模は比べるべくもない。しかし、バッシングによりタレントイメージを低下させられていた中でのCM復帰は、ファンにとっては朗報だった。

もうひとつは、1992年1月期よりTBS系列の金曜22時のドラマ『おとなの選択』で主演することだ。

1990年春に日本テレビでのスペシャルドラマ『ママ母戦争』、1991年秋に東宝系で公開の映画『どっちもどっち』に出演するなど、女優としての活動にも力を入れ始めていた頃とはいえ、初の連続ドラマの主演はサプライズだった。

ドラマ『おとなの選択』は1992年1月10日から放送開始だが、その前月、1991年12月10日にオンエアされた『FNS歌謡祭』が、実質的な「松田聖子 第三章」の幕開けとなった。というのも、『FNS歌謡祭』でドラマの主題歌となる新曲「きっと、また逢える…」を初披露したからだ。

「きっと、また逢える…」のリリースは翌年2月5日であり、ドラマの放送からも1ヶ月前というタイミングでの新曲披露はファンにとっては驚きだったが、今、振り返ると、これがとても静かな「松田聖子 第三章」の幕開けだった。「作詞:Seiko Matsuda 作曲:Seiko Matsuda / Ryo Ogura」とクレジットされた曲は、ちょっと肩の力が抜けたポジティブなバラード曲。当時のヒットの基準の一つである「カラオケで歌いたい」と思える仕上がりで、「ヒットするかもしれない」と期待させるものだった。



聖子のコミカルなイメージが世間の風を変えた


1992年1月期スタートのドラマの中で、TBSが事前に一押しにしていたのは金曜21時枠の宮沢りえ主演『東京エレベーターガール』だった。改編期のテレビ情報誌はいずれも『東京エレベーターガール』を大きく取り上げ、『おとなの選択』はTBSの新ドラマの中では二番手の扱いであった。

ところが放送がスタートすると、大石静の脚本の巧みさと、手堅い演技を見せる共演者と松田聖子の過剰な演技とセリフ回しのギャップが話題になり、視聴率は好調に推移。テレビ情報誌や新聞、週刊誌などで取り上げられることが増えていった。

聖子バッシングが続いていた中なので、週刊誌では「演技が下手」「大根女優」など散々な書かれ方をするものも少なくなかったが、話題になることでさらに注目が集まっていき、ドラマが回を重ねるごとに視聴率はじわじわと上昇していった。

「カラオケで歌いたい」と思わせることに加え、当時の強力なヒットの基準であったのは「連続ドラマの主題歌」であることだ。この2つの要素を併せ持った「きっと、また逢える…」は、オリコンウィークリーチャートで4位と、1989年の「Precious Heart」以来3年ぶりのTOP10にランクインするヒットとなった。

さらにドラマ放送中に、金鳥「タンスにゴン」のCMがスタート。コミカルな主婦役を演じたこのCMは大きな話題となりシリーズ化される。同年秋にはニューヨークの街角で聖子が「ウィリー? アンビリーバブル!」と叫ぶ伝説のCMへとつながっていく。

『おとなの選択』そして、「タンスにゴン」で吹っ切った演技を見せたことは、松田聖子に対する世間の見方を大きく変えるきっかけとなった。「面白い人」というイメージが広がったことで、翌年以降CMへの起用が徐々に増えていくことになる

「1992ヌーベルヴァーグ」、強烈な意思を込めた自作詞


ドラマ「おとなの選択」放送後の3月25日、シングル「きっと、また逢える…」を含むニューアルバム『1992 Nouvelle Vague』をリリースした。

「Nouvelle Vague(ヌーベルヴァーグ)」とはフランス語で「新しい波」を意味する言葉。1960年代にフランス映画界で、フランソワ・トリュフォーやゴダールなど若手監督が台頭し、斬新な作品を生み出すムーブメントを「ヌーベルヴァーグ」と表現していた。

サンミュージックから独立後、試行錯誤を繰り返していた聖子だったが、この2年間で発売した2枚のオリジナルアルバムは、いずれも様々なアーティストが作曲し、聖子本人が作詞するというスタイルであった。このスタイルにしっくりいかないものを感じていたであろう聖子が舵を切ったのは、作詞・作曲を自分で行うセルフプロデュースだ。そして、曲作りのパートナーに選んだのは、1997年のツアーのバックバンドをきっかけに関わりを深めていった、ダンガンブラザーズバンドの小倉良。

アルバム全曲を2人で作曲し、歌詞はすべて聖子が書き、編曲は鳥山雄二が担当した『1992 Nouvelle Vague』は、当時の洋楽チャートのトレンドを意識しつつ、そこに松田聖子ならではの「可愛さ」を加えた、聖子セルフプロデュースの方向性が明示された作品となった。

特筆すべきは、タイトル曲の「1992ヌーベルヴァーグ」の歌詞だ。マスコミのバッシングにノーコメントを貫いてきた聖子が、傷つきながらも ”新しい波” を生み出す決意を固めるに至った意思を明確なメッセージとして表現した。揺るぎない信念を感じさせるその歌詞からは、聖子の「芯の強さ」が伝わってくる。

80年代の「松田聖子プロジェクト」の世界を愛していたファンからはネガティブな声も少なくなかったが、聖子はそれにも怯むことなく、ここから ”新しい波” を追求し続けていく

日本武道館からスタートしたツアー、強い意思が現れたセットリスト


前年に、MV集のビデオ『SEIKO CLIPS』をリリースしたが、1992年からはニューアルバムの世界観を補強する役目としての位置付けで『SEIKO CLIPS』がシリーズ化していくことになる。『Seiko Clips 2 1992 Nouvelle Vague』は、ダンスナンバーの「I Want You So Bad!」と、小倉良と共に初めて作った曲というバラードの「Believe In Love」のMVを中心に、それぞれのメイキング映像を収めた内容となっている。



日本武道館からスタートしたツアーのセットリストはアルバム『1992 Nouvelle Vague』全曲が含まれており、これは聖子史上でも初のこと。そこからも ”新しい波” を始めることへの並々ならぬ気合いが伝わってくる。

アルバム全曲をセットリストに加えることはファンの間でも賛否、というかネガティブな意見が多かったのか、翌年以降はニューアルバムと過去のシングルとアルバム曲のバランスを考えたセットリストに変更された。

この年のツアーで特筆すべきことは、ニューアルバム全曲披露に加えて、CD化されていない英語詞の新曲「Wanna know How」を歌ったことだ。なんの説明もなくいきなり披露されたことで戸惑いが大きかった「Wanna know How」は、同年12月リリースのバラードアルバム『Sweet Memories ’93』でCD化され、以降、ツアーではたびたびセットリストに加えられる定番曲の一曲となっていった。





アイドル松田聖子が参入、「ディナーショーの女王」へ


セルフプロデュース、ドラマ主演、CM復帰など様々なことがあった1992年だが、この年の最後にも ”新しい波” を用意していた。それは、クリスマスのディナーショーをスタートさせたことだ。80年代から90年代初頭にかけて、ホテルでのクリスマス・ディナーショーはチャートの一線から退いた中堅からベテラン歌手、そして演歌の大物歌手が中心であった。そこに現役アイドル松田聖子が参入したことは大きな注目を集めた。

結婚・出産を経てママドル時代以降、女性ファンが中心になったこと。そして聖子と共に歳を重ねて大人になったファンに金銭的余裕ができたことは、ディナーショーを始める土壌ができたといえる。実際、5万円弱の高額設定にも関わらず、全会場で完売したことも話題となり、翌年以降もディナーショーは継続し「ディナーショーの女王」への道を歩むことになる。

1992年の1年間を通して、春に「ニューシングル」リリース、初夏に「ニューアルバム」と「SEIKO CLIPS」リリース、その後6月から「夏のコンサートツアー」を開催、秋にツアーの「ライブビデオ(DVD)」と「企画アルバム」をリリース、そして年末に「ディナーショー」開催という年間の基本スケジュールが完成した。

マスコミがどれだけバッシングしようとも揺らぐことなくツアーにもディナーショーにも参加する強固なファン層を従えて始まった「松田聖子 第三章」は、「中傷など耳をかさずに ただ自分の道を信じて(1992ヌーベルヴァーグより)」という聖子の強い意思で貫かれていたのだ。

次回は、”新しい波” をさらに確固たるものにしていった1993年、1994年を振り返る予定だ。

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2022.11.29
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1964年生まれ
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