1992年 10月1日

【90年代の松田聖子】Nouvelle Vague 〜 連続ドラマ出演とセルフプロデュース時代の幕開け

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1983年夏のツアー『アン・ドゥ・トロワ』で松田聖子のコンサートを初めて観て以来、40年以上会場に足を運んでいる筆者だが、今回はセルフプロデュースの方向性が明確になった “1992年の松田聖子” を振り返ってみよう。

写真集のタイトルは「NO COMMENT」。松田聖子の強烈な意思表示


1989年初夏、サンミュージックから独立した松田聖子は、苛烈ともいえるマスコミ総バッシングの渦中にいた。翌年リリース予定の世界デビューアルバム『SEIKO』制作のため、アメリカに滞在する時間が多かった聖子は、バッシングに対して言葉を返すことはなく、一冊の写真集で返答した。それは、篠山紀信がアメリカでアルバム制作に奮闘する聖子の姿をドキュメントタッチで撮影した『NO COMMENT(ノーコメント)』。そのタイトルこそ、松田聖子の強烈な意思表示であった。

前回のコラムで記したように、サンミュージックからの独立後、テイストの異なる3枚のアルバムをリリースした2年間は、事務所とレコード会社、そして錚々たるクリエイターが集結して作り上げた “80年代の松田聖子” プロジェクトから、本格的なセルフプロデュースに移行するための試行錯誤の時期でもあった。

マスコミ挙げてのバッシング、確実に減少したCDの売上枚数、途絶えてしまったCM出演など、良いとは思えない状況に多くのファンは不安を覚えていたものの、ノーコメントを貫く聖子本人からの言葉もない。しかし、彼女はファンにもマスコミにも見えないところで、着々とセルフプロデュースによる “松田聖子 第3章” に向けた準備を進めていたのだった。

静かに幕を開けた “松田聖子 第3章”


“松田聖子 第3章” は予想もしない幕開けとなった。1991年の晩秋に2つの発表があったのだ。ひとつは久々のCM起用が決まったことで、クライアントは『いちこし〜表参道キモノギャラリー TOKI志すい』。80年代にナショナルクライアントのCMに起用され続けてきたことを考えると、その規模は比べるべくもない。しかし、バッシングによりタレントイメージを低下させられていた中での​​コマーシャル復帰は、ファンにとって朗報だった。

もうひとつは、1992年1月期より始まったTBS系金曜ドラマ『おとなの選択』の主演が決まったことだ。1990年春に日本テレビ系の2時間ドラマ『ママ母戦争』、1991年秋には東宝映画『どっちもどっち』に出演するなど、女優としての活動にも力を入れ始めていた時期とはいえ、初の連続ドラマの主演はサプライズだった。

『おとなの選択』は1992年1月10日からの放送だが、その前月、1991年12月10日にオンエアされた『FNS歌謡祭』が、実質的な “松田聖子 第3章” の幕開けと言ってもいいだろうというのも、この『FNS歌謡祭』でドラマの主題歌となる新曲「きっと、また逢える…」を初披露したからだ。この曲のリリースは翌年2月5日、ドラマの放送から1ヶ月も前のタイミングでの新曲披露はファンにとって驚きだったが、いま振り返ると、これがとても静かな “松田聖子 第3章” の幕開けだった。

作詞:Seiko Matsuda
作曲:Seiko Matsuda / Ryo Ogura

と、クレジットされた曲は、ちょっと肩の力が抜けたポジティブなバラード。当時のヒットの基準でもあった “カラオケで歌いたい” と思える仕上がりで、“これはヒットするかもしれない” と期待させるものだった。



聖子のコミカルなイメージが世間の風を変えた


実は、この年の1月スタートのドラマで、TBSがイチ推しにしていたのは金曜21時枠の宮沢りえ主演『東京エレベーターガール』だった。改編期のテレビ情報誌はいずれも『東京エレベーターガール』を大きく取り上げ、『おとなの選択』はTBSの新ドラマの中では二番手の扱いであった。

ところが、放送がスタートすると、大石静の脚本の巧みさと、手堅い演技を見せる共演者と松田聖子の過剰な演技のギャップが話題になり、視聴率は好調に推移。テレビ情報誌や新聞、週刊誌などで取り上げられることが増えていった。聖子バッシングが続いていた中なので、週刊誌では “演技が下手” “大根女優” など散々な書かれ方も少なくなかったが、話題になることでさらに注目が集まり、回を重ねるごとにドラマの視聴率はじわじわと上昇していった。

“カラオケで歌いたい” と思わせることに加え、当時の強力なヒットの基準だったのは “連続ドラマの主題歌” であることだ。この2つの要素を併せ持った「きっと、また逢える…」は、オリコンウィークリーチャートで4位と、1989年の「Precious Heart」以来、3年ぶりのTOP10にランクインするヒットとなった。さらに、金鳥『タンスにゴン』のCMがスタート。コミカルな主婦役を演じたCMは大きな話題となり、シリーズ化されてゆく。同年秋にはニューヨークの街角で聖子が “アンビリーバブル!” と叫ぶ伝説のCMへとつながっていく。

ドラマ『おとなの選択』そして、CM『タンスにゴン』で吹っ切った演技を見せたことは、松田聖子に対する世間の見方を大きく変えるきっかけとなった。“面白い人” というイメージが広がったことで、翌年以降CMへの起用が徐々に増えていくことになる。

「1992 ヌーベルヴァーグ」、強烈な意思を込めた自作詞


連続ドラマ放送終了後の3月25日、シングル「きっと、また逢える…」を含むニューアルバム『1992 Nouvelle Vague』がリリースされた。Nouvelle Vague(ヌーベルヴァーグ)とはフランス語で “新しい波” を意味する言葉。1960年代にフランス映画界で、フランソワ・トリュフォーやゴダールなどの若手監督が台頭し、斬新な作品を生み出すムーブメントを “ヌーベルヴァーグ" と評していた。

そう、この時期に聖子が舵を切ったのは、作詞作曲を自分で行うセルフプロデュースだ。そして、曲作りのパートナーに選んだのは、1997年のツアー以降関わりを深めていった、ダンガン・ブラザーズ・バンドの小倉良。
歌詞はすべて聖子、全曲を小倉と共に作曲し、編曲を鳥山雄二が担当したアルバム『1992 Nouvelle Vague』は、当時の洋楽チャートのトレンドを意識しつつ、そこに松田聖子ならではの “可愛さ” を加えた、聖子セルフプロデュースの方向性が明示された作品となった。

特筆すべきは、タイトル曲「1992 ヌーベルヴァーグ」の歌詞だ。マスコミのバッシングにノーコメントを貫いてきた聖子が、傷つきながらも ”新しい波” を生み出す決意を固めるに至った意思を明確なメッセージとして表現している。揺るぎない信念を感じさせるその歌詞からは芯の強さが伝わってくる。“80年代の松田聖子” プロジェクトの世界を愛していたファンからはネガティブな声も少なくなかったが、聖子はそれにも怯むことなく ”新しい波” を追求し続けていった。



日本武道館からスタートしたツアー、強い意思が現れたセットリスト


また、前年にリリースされたミュージックビデオ集「SEIKO clips」は、ニューアルバムの世界観を補強する位置付けでシリーズ化されることになる。この年の『Seiko Clips 2 1992 Nouvelle Vague』では、ダンスナンバー「I Want You So Bad!」と、小倉良と初めて一緒に作った曲だというバラード「Believe In Love」を中心に、メイキング映像も収めた内容になっている。

日本武道館からスタートしたツアーのセットリストには、アルバム『1992 Nouvelle Vague』の全曲が含まれており、これは聖子史上でも初のこと。アルバム全曲をセットリストに加えることはファンの間でも賛否が分かれたが、こういったことからも ”新しい波” をつくっていくための並々ならぬ気合いが伝わってくる。

このツアーで特筆すべきことは、ニューアルバムの全曲披露に加え、CD化されていない英語詞の新曲「Wanna Know How」を歌ったことだ。なんの説明もなくいきなり披露されたことで戸惑いが大きかったこの曲だが、同年12月リリースのバラードアルバム『Sweet Memories ’93』でCD化され、以降のツアーではたびたびセットリストに加えられる定番曲となっていく。

アイドル松田聖子が参入 “ディナーショーの女王” へ


CM復帰、ドラマ主演、セルフプロデュースなど様々なことがあった1992年だが、聖子はこの年の最後にも ”新しい波” を用意していた。それは、クリスマスのディナーショーをスタートさせたことだ。当時、ホテルでのクリスマス・ディナーショーはシーンの一線から退いた中堅からベテラン歌手、そして演歌の大物歌手が中心だった。そこに現役アイドルの松田聖子が参入したのだ。大きな注目を集めないわけがない。

結婚・出産を経たママドル時代以降、女性ファンが中心になったこと。そして聖子と共に歳を重ね、大人になったファンに金銭的余裕ができたことが、ディナーショーを始める土壌​​になったともいえる。実際、5万円弱の高額設定にも関わらず、全会場を完売したことも話題となり、翌年以降も継続、“ディナーショーの女王” への道を歩むことになる。

この1年を通して、春にシングル「きっと、また逢える…」と アルバム『1992 Nouvelle Vague』をリリース。夏にはミュージックビデオ集を出し、ツアーを開催。秋にはライブビデオ『LIVE 1992 Nouvelle Vague』とバラードアルバム『Sweet Memories ’93』をリリース。そして年末にディナーショーを開催するといった、年間の基本スケジュールが完成した。

 中傷など 耳をかさずに
 ただ 自分の道を信じて

どれだけマスコミがバッシングしようとも揺らぐことなく、ツアーにもディナーショーにも参加する強固なファンを味方につけて始まった “松田聖子 第3章” は、「1992 ヌーベルヴァーグ」の歌詞にある、聖子自身の強い意思で貫かれていたのだ。


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2024.09.11
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カタリベ
1964年生まれ
冨田格
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