12月5日

松任谷由実、中島みゆき、竹内まりや、尾崎亜美、それぞれのセルフカバーとは?

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誰が年長? 松任谷由実、中島みゆき、尾崎亜美、竹内まりや…


3月19日は日本を代表する女性シンガーソングライター、尾崎亜美さんのお誕生日であるという。

女性に対して唐突に年齢の話題から入るというのも無粋の極みであるが、なにせ50代半ばとなった僕らが子供のころから第一線で活躍を続けている彼女たちのこと、それもいかに長くトップランナーであり続けたきたかというひとつの証として誇るべきことではないかと思えるのだ。

ところで見出しに挙げさせていただいた錚々たるお名前を年の順に並べるとどのようになるか、迷わず即答できる方はいらっしゃるだろうか。

デビュー順でいえば1972年「返事はいらない」デビューを果たした旧姓で荒井由実、ユーミンこと松任谷由実がダントツの早さだが、これに次ぐのは1975年「アザミ嬢のララバイ」でデビューする中島みゆき。尾崎亜美は翌1976年「瞑想」でのデビュー。一番後になるのは1978年「戻っておいで・私の時間」でデビューする竹内まりやである。

だがユーミンのデビューは、なんと大学進学後の18歳のことであり、尾崎亜美も高校時代からの音楽活動を経て、弱冠19歳でのデビューであったから、共に大学進学を経てデビューした他の2人と順番が入れ替わる。

答えは中島→ 松任谷→ 竹内→ 尾崎というのが正解で、4名の間にはデビュー年次ほどの年齢差はなかったりする。

クリエイターとして恵まれた生い立ちとパートナー


いずれ劣らぬビッグネームの面々には、時代を担った女性としての文化的なポテンシャルの高さを感じる共通項もある。ユーミンは老舗呉服店、みゆき姐は開業医、まりやさんは有名旅館のご息女という家庭に生まれ、亜美さんも母親が著名な京都西陣織の作家という、クリエイターとしては恵まれた生い立ちをもっている。

また、それぞれ松任谷正隆、山下達郎、小原礼といった優れた音楽家を伴侶に持ち、音楽面においてもパートナーシップを組んで創作活動を行っている。唯一未婚なのは中島みゆきだが、彼女の共同制作者としては、瀬尾一三という確固としたパートナーがいる。彼女たちの長年にわたる活躍は、こうしたバックボーンに支えられているのだ。

4者4様の制作スタイル、守備範囲が広かったユーミンと尾崎亜美


さらに共通点を挙げるなら、自らが表現者でありながら、他のアーティストたちへの楽曲提供においても多くの成功を得ていることだろう。

それらはいずれも大御所となってからの楽曲依頼ではなく、キャリアの早い段階から取り組まれてきたことだ。80年代のJ-POP黎明期、ニューミュージックと呼ばれた音楽が広まり、歌謡曲の歌い手や若手のアイドルまでが広く楽曲を求めた故に、彼女たちは作家として引く手あまたとなった。

中でも “守備範囲” の広さを誇ったのは、呉田軽穂のペンネームでお馴染みのユーミンと尾崎亜美だろう。特に両名ともに松田聖子へ楽曲を提供し、代表曲の数々を手掛けてきたことで知られている。

中島みゆきの作風は歌い手を選んだし、竹内まりやはアイドル扱いの不遇から、作家デビューまで遠回りをしたから、そこは早熟の天才2名の活躍が際立っている。

尾崎亜美のセルフカバーアルバム「POINTS」


元々、尾崎亜美は “ユーミン2世” とも呼ばれ、松任谷正隆のプロデュースでデビューしたいきさつがある。バックを支えたミュージシャンにはティン・パン・アレイやサディスティック・ミカ・バンドの面々が参加し、日本のポップミュージックの先駆者たちが集ったから、流派としては近しい関係にあり、実際ユーミンは、デビュー前から尾崎亜美を妹のように可愛がったという。

共に恋愛を描くことについては、カリスマとも言われる2人であるが、トレンディな大人の恋愛を描くことに長けたユーミンの作風に対して、尾崎亜美は恋の始まりと終わりを内省的に捉え、時としてファンタジーだったり、コケティッシュに世界観を描くことが多かった。だから、より広くアイドル達の楽曲として採用されたように思う。

やがてその数も相当数ストックされていき、デビューから7年目の1983年12月、初のセルフカバーアルバム『POINTS』のリリースにつながっていく。

ならではのセルフカバーの価値、自らアレンジをこなした尾崎亜美


松任谷正隆はあるインタビューに答えて、プロデュースを担当してきたアーティストの1人として、妻でもある松任谷由実のことを「ある程度他人に任せることができる人」だと語っている。つまり自分で書いた曲であろうと、アレンジャーでもある自分の仕事について、一切口出しをしてこないというのである。それを信頼の証といってしまえばそれまでだが、それでは彼女について語ったことにはならない。要するにユーミンは、自分と他の共同作業者との間に、明確にプロとしての境界線を引ける人だということを伝えたかったのだろう。

また同じインタビューの中では、過去に自分が手掛けた仕事の中には、未熟で至らないこともあったということを吐露しながら、かつてセカンドアルバムまでプロデュースを請け負った尾崎亜美を引き合いに出し、「僕があまりにOKを出さないものだから、彼女は病気になってしまった」とコメントしている。

果たしてそれがトラウマとなったかはわからないが、結果的に尾崎亜美は3作目以降のアルバムでは、共同のものも含めれば、ほとんどのアレンジとプロデュースを自らの手で行っている。彼女が前出の他の3名と大きく異なっているのは、まさにその点である。

楽曲本来の姿を堪能、新たな命を吹き込み輝きを増した「POINTS」


アルバム『POINTS』に収録された楽曲はすべて、過去に彼女が作詞作曲を手掛け、他のアーティストに提供したものであるが、アレンジやプロデュースはほとんどの場合、提供先の担当者が担うことになる。だから作者の手を離れると、時として当人の意図とは異なるアレンジをされることは珍しくない。セルフカバーでは、それが作者の手元に戻った時にどのように変わっているかが、まさにリスナーの聴き所なのである。

まして尾崎亜美は自らアレンジまで手掛けるのだから、100%作者の意図が反映された楽曲本来の姿を堪能する、リスナーにとってこの上ない機会となる。僕らは南沙織や高橋真梨子ではない「春の予感・・・」や「あなたの空を翔びたい」を聴けたことがただ嬉しかったし、その出来栄えに対する満足度は高かった。

セルフカバーには、元来ファンサービスの意味合いも含まれてる。提供された後に、時を置いてオリジナルアルバムに収録したり、ベストアルバムリリースの際は目玉にすることもあるくらいだから、そういう意味では『POINTS』は、まさにファンに向けられたアルバムといってよかった。失礼ながら僕らは、自分がその歌い手のファンでもなければ、その楽曲に目もくれないことがある。通常なら気に掛けなかった楽曲が、作り手の下で新たな命を吹き込まれて、輝きを増す… そんな意外な発見の可能性が『POINTS』には感じられた。

初のセルフカバー1曲目「春の予感」が意味するものとは?


アルバム『POINTS』の1曲目には1978年に南沙織がリリースした「春の予感-I’ve been mellow-」が収録されているが、この曲は尾崎亜美初の楽曲提供であるだけでなく、初めて編曲を手掛けた曲でもある。それはつまり、セルフカバーになっても、馴染みのあるのアレンジのまま聴くことができるということを意味している。

これは南沙織の制作サイドがニューミュージック系アーティストの作品を採用することに前向きだったから実現したことでもあるが、多才と言われる尾崎亜美にして、実はそれまでアレンジの経験はなく、いきなりぶっつけの取組みだったということだ。

竹内まりやは尾崎亜美との初対面で「アレンジまで自分でやるなんて! 才能を分けて欲しい」とまで発言したらしいが、誰にも初心者の時代はあるものだ。

2枚のアルバムで松任谷正隆によって鍛えられた経験と独学によって、彼女は新たな武器を手に入れ、同年7月「春の予感」を含む3枚目のアルバム「STOP MOTION」をリリース。セルフプロデュースの第一歩を歩み出す。だからこの曲は、彼女にとって初めての楽曲提供という事実だけでなく、アルバムのトップを飾るに相応しい特別な想いのある1曲といえる。

楽曲提供に対する尾崎亜美のスタンス


ところでユーミンのペンネーム “呉田軽穂” は、提供する際に自分で歌うつもりがない場合に限って用いられるもので、それは作家としての自分の立場を示すポリシーとしても知られているが、その点にも楽曲提供に対する尾崎亜美とのスタンスの違いが表れている気がしてならない。

例えば2人が手掛けた松田聖子の楽曲で言えば、尾崎亜美はこのアルバムの続編『POINTS-2』の中で「ボーイの季節」を披露しているが、通常ユーミンがどこかで「赤いスイートピー」を歌うことはない(※ただしコンピアルバムである『Yuming Compositions:FACES』収録曲「瞳はダイヤモンド」などについては例外)。これは松任谷正隆が言うところの「他人に任せることができる」人かどうか、ということが関係しているような気がしてならない。

尾崎亜美という人はおそらく、あまり人の言いなりになっていると病気になってしまうぐらい「任せられない人」なのではないだろうか。「春の予感」で “編曲” という最後のピースが埋まると彼女の創作魂は加速し、自らの信じる道を邁進する。そうでもなければ、いくら天才であろうと、この後ほんの20代前半くらいでLAまで行き、デビッド・フォスターやTOTOのメンバー達と渡り合うことなど、果たしてできただろうか… と思うのだ。

ちなみに、かの「駅」をめぐるエピソードを知る限り、当てつけともとれるセルフカバーを渋った竹内まりやは「任せられる人」のようでもあるが、それを進言した夫の達郎氏は、どうやらそうではないらしい。ファンサービスとはいえ時折自分のコンサートでジャニーズメドレーを披露してしまう彼は典型的な「任せられない人」に違いなく、どうもその傾向は多才な人ほど強いようである。

それでは、中島みゆきはどうだろう。彼女は1979年に初のセルフカバーアルバム『おかえりなさい』をリリースしているから、いわば彼女こそが先鞭をつけたと言えなくもない。彼女の楽曲提供のスタンスはどうもこのタイトルに表れているようである。『おかえりなさい』とは自身で外へ送り出した作品たちが彼女の元に戻ること。旅で成長して戻った子どもたちの帰りを迎え入れるという様を表している。

アレンジャーの第一人者である船山基紀氏が最近、TOKIO「宙船」について、彼女の楽曲提供を受けた際のエピソードを披露している。彼女の元にTOKIOが新たな楽曲を探しているという話が届いた時、既に「宙船」は次のアルバムに収録することが決まっていたという。だが彼女はあえて一度TOKIOに預けてみる道を選択する。

自分の手にならないジャニーズっぽい化粧を施してもらい、この楽曲が話題を呼んだところで改めて自分のアルバムの柱のひとつとして表現する。さすがはヤマハの役員、ビジネスパーソンらしい発想である。思えば古くは研ナオコ、桜田淳子、その後は工藤静香と… 敬愛する吉田拓郎に「ファイト」を歌ってもらったというのもすべて合点がいく。世間をザワつかせておいて自ら喰らうというのが、彼女のセルフカバーの本懐のようである。

「私ならこうする!」隠しきれない尾崎亜美のモチベーション


今もって『POINTS』の着想は尾崎亜美というアーティストには、実にフィットしていたと思う。このシリーズは好評を得て1986年『POINTS-2』、1992年『POINTS-3』と続き、彼女自身の「私ならこうする!」というモチベーションを掻き立て続けたことだろう。

それは既に単なるファンサービスを超えた彼女自身の隠しきれない創作意欲が発露したものだ。だからこそセルフカバーであっても80年代にリリースした数々のオリジナルアルバムに埋もれることなく、我々の胸にその存在感を刻み付けることができたのだろうと思う。



2021.03.19
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カタリベ
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