一番感慨深く印象に残る、ハイ・ファイ・セット「Rainbow Signal」
80年代の銀次は、沢田研二さんの「ストリッパー」やアン・ルイスさんの「六本木心中」などのサウンドプロデュースとともに、多くのアーティストから作曲の依頼を受けて曲を提供させていただきました。
アーティスティックなシンガーやバンドからアイドルまで、ほんと、いろんな依頼に応えて曲を書かせていただいたけれど、その中で「一番感慨深く印象に残っている作品は?」と聞かれれば、それはハイ・ファイ・セットの1985年のアルバム『INDIGO』のための書き下ろしで提供した「Rainbow Signal」という曲ですね。
ハイ・ファイ・セット第1期サポートバンドのメンバーに
赤い鳥から分かれた山本潤子さん、山本俊彦さん、大川茂さんが結成したハイ・ファイ・セット(以下、ハイ・ファイ)が彼らのファーストアルバム『卒業写真』をリリースしたのは1975年。そのレコーディングセッションに参加していた僕はそのまま、ハイ・ファイ第1期のサポートバンドのメンバーとなった。
アルバムのアレンジャーだった松任谷正隆君がそのバンドのリーダーで、メンバーには上原 “ユカリ” 裕君と、まだ新人だったベースの寺尾次郎君がいた。そのバンドで国領のYMCAで合宿、みっちりとリハーサルの日々を。ユーミンがハイファイに振り付けを教えに来たりしてて、今思えば和気あいあいとした楽しい合宿でしたね。
接して実感! 音楽家としての高い望みと熱い心意気、そして温かい人となり
それまでフォークの人とばかり勝手に思い込んでいた僕は、間近で接したハイ・ファイの皆さんの音楽家としての高い望み、ランバート、ヘンドリックス&ロスやマンハッタン・トランスファーのようなヴォーカリーズを目指したいという熱い心意気にふれて感銘を受けました。加えて3人の皆さんの温かかい人となりは、当時福生の大滝詠一さんの許を離れて独立した道を歩いて行こうとしていた僕にはとても救われるものでした。
その頃は決して裕福ではないミュージシャン生活を送っていた僕に、見かねた潤子さんが、もう着なくなったシャツやパンツ(ズボンのことね)をくださったのには、ほんと涙が出るほどうれしかった。そして俊さん(山本俊彦さん)にはよく「銀次はギターはうまくないけど味があるわ」と言われて(笑)、まるで弟のようにかわいがってもらいました。
その後、なんと僕とユカリと寺尾君がシュガーベイブに引き抜かれることになって、しかたなくハイファイを辞めなくちゃならなかったときは、ほんとに心が痛かった。ちなみに僕が辞めた後のハイ・ファイ第2期サポートバンドのギタリストは、その後パラシュートで活躍する松原正樹君でした。
なんとハイ・ファイ・セットから作曲の依頼が!
それから時が経ち、アルファレコードから東芝へと所属レーベルを変えてきたハイ・ファイがソニーに移籍、そしてなんと僕に曲を依頼してきてくれたのでした。あんなにお世話になっていながら後ろ足で砂をかけるようにしてバンドを辞めた僕なのに …。
「よおし、これはひとつがんばって恩返しだ!」とばかり張り切って書いたのが1984年の『PASADENA PARK』というアルバムの「7月のクリスマス」という曲。
ハイファイがずっと目指しているヴォーカリーズを意識した、ジョージ・ガーシュインやコール・ポーターの時代のミュージカル曲のような、半音で動くちょっと難しいメロディーラインも入れて思いっきり書いてみたら、なんと採用されました。しかもおまけに、また次のアルバムでも作曲の依頼を受けることに!!
もともとハリー・ニルソンやハーパース・ビザールのようなスタンダードジャズ的なポップスが好きだった僕の描いたコンセプトと、ハイ・ファイのフィーリングがぴったり合ったことがとてもうれしかった。自信を深めてさらにこの路線を進めてできたのが「Rainbow Signal」。
アルバム「INDIGO」でオープニングを飾った「Rainbow Signal」
自分でもけっこう手応えがあったのだけど、アルバムが上がってきたらなんと、オープニング1曲目にドン!! そしたら俊さんから電話が……。
「銀次、やったやん。アルバム1曲目やで。おめでとう!!」
「いっしょに祝杯や!」と、ご飯に誘ってくださいました。呑んでる時もまるで自分のことのように喜んでくれていた笑顔がうれしかったなぁ。
その「Rainbow Signal」がオープニングを飾ったアルバムが1985年2月25日にリリースされた『INDIGO』。つづくハイ・ファイ1986年リリースのアルバムにも「Rosy White」という曲が採用され、合わせて3曲を書かせていただいたのだけれども、そんなわけで、この「Rainbow Signal」は特に感慨深い作品なのでした。
その後、俊さんが2014年に突然亡くなられたと聞いたときはとてもショックでした。それがきっかけなのか、潤子さんはその後ずっと歌手活動を休んでおられるとのこと。あのやさしい歌声がもう聴けないのはとても残念なこと。ここまで書いてきて、切にもう一度、生で聴くことができればなぁ… という思いが強くなりました。
2021.01.20