EPICソニー名曲列伝 vol.10 大沢誉志幸『そして僕は途方に暮れる』 作詞:銀色夏生 作曲:大沢誉志幸 編曲:大村雅朗 発売:1984年9月21日 EPICソニー史上屈指の名曲。この曲の制作になど、これっぽっちも絡んでいない私だが、それでもこの曲を紹介するときは、いつもとても誇らしい。1984年―― 18歳という感受性豊かな時期に、この曲と出会えてよかったと心から思う。 誰もが知るこの曲の成功は、大沢誉志幸1人ではなく、大沢を取り巻いた「チーム」の勝利だと思っている。 とは言え、まずはチームリーダーの大沢誉志幸だ。沢田研二『おまえにチェックイン』(82年)、中森明菜『1/2の神話』(83年)、山下久美子『こっちをお向きよソフィア』(83年)などを成功させ、作曲家として「デビュー前に100万枚売った男」と言われた大沢が、個性的なメロディを書いている。 個性の源は音の跳躍。冒頭「♪ みなれないふくをきた」の「み」から「き」まで、オクターブを駆け上がる。またサビの「♪ ひとつのこらず」も「♪ ドミソソラララ」という「ド→ラ」=6度の上昇フレーズ(同時期に大沢誉志幸が吉川晃司に提供した『ラ・ヴィアンローズ』のサビ「♪ ラ・ヴィアンローズ」=「♪ ドミソラー」に似ている)。続く「♪ かなしませないものを」の「な→し」もオクターブ跳躍。 そんな忙しいメロディを淡々と歌い切る大沢誉志幸のハスキー・ボーカルは、一度聴いたら忘れられない。ハスキーを湿り気だと捉えると、大沢のボーカルは、たとえば八代亜紀や森進一らと並ぶ「湿度100%」級。この曲でブレイクする前の大沢が、同じく「湿度100%」の声を持つビートたけしに、曲を多く提供していたのは面白い。 そんなチームリーダーに続くのは、作詞を手掛けた銀色夏生。その独特の言葉のセンスは当時、新時代的だと思ったし、「そして僕は途方に暮れる」という文字列は、今見てもとても洗練されている。 この曲を収録したアルバム『CONFUSION』に入っている銀色夏生作詞作品のタイトル。そのキレッキレに研ぎ澄まされた言葉のセンスは、触ったら指が傷付きそうだ。 ■ 『そして僕は、途方に暮れる』(アルバムではタイトルに読点「、」が入っている) ■ 『雨のタップダンス』 ■ 『Free wayまで泣くのはやめろ』 ■ 『その気×××(mistake)』 ■ 『Living Inside』 ■ 『彼女の向こう側』 ■ 『ダーリン小指を立てないで』 ■ 『BROKEN HEART』 続いて編曲の大村雅朗。すでに松田聖子作品で、編曲家としての「第1期黄金時代」を築いた大村雅朗が、そのピークと言える「第2期黄金時代」に向かう号砲となった曲である。デジタルとアナログが有機的に融合したその音は、実験的でありながら大衆的、クールだけれどもセンチメンタルという、実に独創性の高いもの。 また、【C】→ 【G】→ 【Am7】→ 【G】→ 【F】→ 【G】→ 【C】という通俗的な「カノン進行」を用いながら、それがまったく平凡に聴こえないのは、その上に「♪ ッレ・レッ・レレ・レミ」という音列がループしているからだと思う。 この「レ」は「9th(ナインス)」の音で、この音に触発されたのが小室哲哉。TM NETWORK『Self Control (方舟に曳かれて)』(87年)のサビ=「♪ Self Control」の「♪ レー・レー・レーミ」は、明らかに『そして僕は途方に暮れる』の影響だろう。 ちなみに大村雅朗の「第2期黄金時代」と私が勝手に名付けるのは、この曲から吉川晃司『You Gotta Chance ~ダンスで夏を抱きしめて~』(85年)を経て、そして渡辺美里『My Revolution』(86年)に極まる時期である。後にも先にも唯一無二、この時期の大村雅朗作品は、奇跡の連続だった。 さらにチームは広がる。この曲が収録されたアルバム『CONFUSION』は、ニューヨークのあのパワー・ステーション・スタジオでの録音。キング・クリムゾンにいたトニー・レヴィン(ベース)や、ホール&オーツのプロジェクトで知られるミッキー・カリー(ドラムス)とG.E.スミス(ギター)が参加。先に述べた「デジタルとアナログの有機的な融合」のアナログ感を支えるのは、これらの名うてのミュージシャンのプレイによるものだ。 そして極めつけは、日清食品カップヌードルのタイアップである。ここまで書いたような素晴らしいチームの力を結集したところで、あの CM タイアップがなければ、ヒットには至らなかったであろう。 外国人の子供が、カメラに向かってキスするふりをするシンプルな構成の映像。コピーは「きみの、つぎにあったかい。」CM で流れるのは2番のサビ=「♪ もうすぐ雨のハイウェイ~」から。 大沢誉志幸、銀色夏生、大村雅朗、トニー・レヴィン、ミッキー・カリー、G.E.スミスに加えて、日清食品の宣伝部を加えた精鋭による見事なチームプレイによって、ロスアンジェルス五輪で騒がしかった84年、この曲が日本の音楽シーンで輝かしいメダルを獲得したのだ。 この曲のヒットが、あらゆる人の人生を変えた。 まずは大沢誉志幸本人。「デビュー前に100万枚売った男」を超えて、自身が一躍スターダムにのし上がり、「『そして僕は途方に暮れる』の人」として認知され、その呪縛にしばらくは悩むこととなる。 銀色夏生も、この曲をジャンピングボードとして、久しく地味だった現代詩界における時の人となり、書店の文庫本の棚には、彼女らしい独特なタイトルの文庫本が、ずらっと並べられることに。 大村雅朗はこの曲以降、「第2期黄金時代」をまっすぐと突き進む。その結果、大村によるロック歌謡の完成を追い風にした吉川晃司や、大村編曲の最高傑作『My Revolution』で鮮烈にブレイクする渡辺美里の人生をも変えてしまう。 さらには、ラッツ&スターで行くか、ソロで行くかを大沢誉志幸に相談していたという鈴木雅之が、この曲の続編と言われる大沢作曲『ガラス越しに消えた夏』を翌年リリースし、ソロの地盤を築く。つまり、鈴木の人生にも『そして僕は途方に暮れる』が大きく影響している(ちなみに『ガラス越しに消えた夏』もカップヌードルの CM タイアップが付いた)。 最後に、かくいう私も、自著『1984年の歌謡曲』(イースト新書)と『イントロの法則80’s ~ 沢田研二から大滝詠一まで』(文藝春秋)、加えてテレビやラジオで、この曲を何度も取り上げ・掘り下げた。一時期は、自分のことを「『そして僕は途方に暮れる』評論家」とまで思ったほどだ。 ということは、私の人生すらも、この曲で少しばかり変わったこととなる―― 『そして僕は途方に暮れる』のチームプレイが残したものは、それほどまでに巨大なものだったのだ。
2019.07.30
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YouTube / tarou yamada
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