1983年7月にニューヨーク録音のアルバム『Sophia』、同年12月に『Sophia』のサウンドプロデューサー、ヒュー・マクラッケン作曲のシングル「Lovin’ You」をリリースし、81年6月のシングル「とりあえずニューヨーク」から始まった山下久美子のニューヨーク企画は完結しました。 次に何をしたらいいのか、何のアイデアもありませんでしたが、ともかく普通のポップスだとつまらないなと考えていました。何か面白いことを。何か変わったことを。 サンプリング、コンピュータプログラミング、コンピュータミックスなどデジタル技術が急速に進化して、音楽の創り方が大きく変化している、そんな時代の様相に影響を受け、刺激を感じ、またどこか気負ってもいました。 何から決まっていったのか、憶えていないのですが、3つのことがニューアルバムの在り方を決定しました。 ひとつはレコーディングエンジニア。飯泉俊之(いいずみとしゆき)という私より若い人を起用しました。きっかけはやはり先輩プロデューサー、木﨑賢治さんです。木﨑さんが彼を、沢田研二さんや大沢誉志幸くんのレコーディングで使い始めていました。若いくせに生意気なんですが、向上心が強くて新しい音楽もよく研究している。彼となら斬新なものを作れそうな予感がありました。 二つ目はアレンジャー。後藤次利さんにお願いしました。彼のベースは好きでしたし、サウンドプロデューサーとしても躍進中、ノッている時期でした。作曲家としては既に『Sophia』で1曲書いてもらっていました。ベーシストだけに、“足腰” のしっかりした音を作ってくれるんじゃないかと期待しました。 そして三つ目。銀色夏生の「アニマ・アニムス」という詞に、大沢くんに曲をつけてもらいました。これまでのようなメロディアスなものでなく、ひたすらビートで攻める。シングル向けではまったくないですが、男性&女性の “根源” のような意味で使われる「アニマ」と「アニムス」という言葉と相まって、なんだかアルバム全体のイメージを膨らませてくれる曲でした。 次利さんには「思い切りやってください」てなことを言ったかな。そしたらほんとに思い切り振り切った、まるで実験のようなレコーディングが始まりました。 (今は無き)CBSソニー・六本木スタジオ、通称“六ソ” の A studio に、青山純と山木秀夫さんのツインドラム! ペッカーさんと斎藤ノブさん、あるいは浜口茂外也さんでパーカッションもツイン、北島健二さんと横内タケのギター、富樫春生さんのピアノに、もちろん次利さんのベース…… 所狭しと楽器を並べて、“せーの!” でライブのように録音していきます。 サウンドはアフロと言うかエスノと言うか、パーカッシブで骨太で重心が低くて。歌のバックもコード感はあまりなくて、音の隙間に緊張感が張り詰めています。 ミックスダウンは飯泉くんの本拠地である新宿のテイクワンスタジオで行いましたが、飯泉くんのこだわりと完璧主義で徹夜の連続、ずっとスタジオに泊まり込んでいるような状態でした。 後にエンジニアとして活躍する中林慶一くんがちょうどテイクワンに入社した時で、彼は見習いなので電車があるうちに帰るのですが、翌日出勤してくると、何も変わらない様子で我々が作業をしている。それが何日も続くので、「ほんとにあきれた」と後日話していました。 今聴いてもなかなかカッコいいと思います。今聴いたほうがカッコいい、と言うほうがいいのかもしれません。 当時はちょっと行き過ぎたみたい。そしてシングルにふさわしい曲もなかった。宣伝担当の渡部洋二郎先輩からは、「おまえ、こんな売りにくい音作ってどうするつもりだ。このやろう!」と怒られました。 そして、「こうなったらオレが(売るための)企画を作るしかないだろう」と、彼はアルバムの音からイメージした映像作品を作ることを即断、景山民夫さん(1947 – 1998)を連れてきて演出を依頼し、太平洋のポナペ(ポンペイ)島に飛んで、さっさと撮影し、ついでにアルバムのジャケット用の写真まで撮ってきました。 ビデオは『黄金伝説』というタイトルでアルバム発売の1ヶ月後、84年6月21日にリリース。2月末に音が上がって、それからのスタートなのに。渡部先輩のこの疾風怒涛のような行動力には舌を巻きました。 でも、そうまでするくらい、この作品が売れそうにないと判断されたかと思うと、やはり悔しかったですね。そして、このアルバムにはもうひとつ、悔しいことが起こったのです。 それは次回に。
2018.02.28
VIDEO
YouTube / JULIA LOVE
Information